第20話 ワラシベチック・エコノミー
自己紹介を終えると、私はバイリィに、私の現状の説明と、目下直面している問題について話した。
こことは別の世界で死んだ私は、住んでいた建物ごと、この世界に来たこと。
この建物は現在、私の所有物であること。
この建物は不思議な力によって守られた不動要塞であること。
来たばかりなので、この世界のことは言語も習慣も何もわからないこと。
毎月決まった額の家賃を支払う必要があるため、金を稼ぐ手段を探していること。
私が所有している物品であれば、いくらでも提供するので、金と交換してくれないかということ。
素性のわからぬ相手にどこまで事情を明かしたものか、と、警戒したのも最初だけ。
辞書をめくりながら、慣れぬ舌の動きで異世界語を話すうち、私の脳みそはオーバーヒートしてしまい、途中から、隠すのも面倒くさくなった。
結果、私は、事情のほとんどすべてを、バイリィに打ち明けてしまった。
別に構わんだろう。
バイリィからは悪人のオーラのようなものは感じないし、そもそも悪人ならばベランダの戸を開けた時に私は詰んでいる。
問題は、こんな荒唐無稽な話を信じてもらえるかどうかという点にあったが、なんと、それすらも杞憂に終わった。
「なるほど」
私が説明を終えると、バイリィは納得したように、水平の拍手を打った。
「じゃあ、イナバは、価値があるものが、必要ってことね」
さすがにトントン拍子すぎて心配になったので、私は思わず尋ねた。
「あなたは、この話を、信じてくれるのですか?」
「嘘なの?」
あっけからんと彼女は言う。
「いいえ。嘘ではありません。ただ、この話は、とても、信じてもらうことが、難しいと、私は思います」
バイリィは、それがどうしたとでも言いたげな目線を寄越す。
「本当なら、いい。嘘でも、面白いから、いい」
なんとも器量の深い人物だと思った。
かつて、常に相手の言葉の真意を探ろうとして、勝手に疑心暗鬼になっていた自分を思い出し、自然と私は己を恥じた。
そうか。
ここは、異世界。一日の時間周期すら異なる世界。そこに住む人々の懐の深さなど、現世と我々とは当然異なる。
私はその事実を改めて認識し、肝に銘じることにした。
自分の思い通りに事が進むことに、不安を覚えるなどおこがましい。
ここまで来たなら、旅は道連れ世は情け。とことん、私もバイリィを信用しようではないか。
「そうです。私は、家賃の対価が、必要です。それを、手に入れる方法を、教えてください」
思い切って一番知りたかったことを尋ねると、バイリィは少し考え込むような素振りを見せた後、自らの懐をがさごそと漁って、一枚の紙片を取り出した。
「これは、」
ついに異世界の貨幣のお出ましかと思って、私はちゃぶ台の上に置かれたそれをまじまじと眺める。
それは、布と紙の中間のような材質をしていた。木の繊維から作られているのか、薄茶色をしていて、古代エジプトで使われていたパピルスを彷彿とさせる。
長方形の形に切りそろえられていて、異世界の文字が、縦5文字、横10列のレイアウトで記されていた。
とりあえず会話方面で言語を覚えようとしている私には、記されている字の一つたりとも理解することはできない。
ただ、朱色の染料でもって記されている、その手書きの文字は、見ただけで幾何学的な美しさを感じるほどに達筆であった。
美術品としての価値はあると思った。
しかし。
それは、経済活動を促進させる紙幣というよりかは、俳句や短歌や詩のような、文学作品のように見えた。
「これは、なんですか?」
尋ねると、バイリィは一言呟く。
「Zhuì」
知らない単語だったので、辞書を引いた。
該当の単語のページに行き着いて、私はその意の多さと文量に驚いた。1ページほぼすべて、その単語のことで埋められていた。
和訳には、『符』の字が充てられていた。
それらが持つ意味は、大きく3つ。
1つ。『符』とは、魔法を扱うための魔導具である。
2つ。『符』とは、文学作品の総称である。
3つ。『符』とは、物々交換が主流となるこの世界において、最も広く交換に使用される品である。
「なんてこったい」
さすがに私は愕然とした。
嫌な予感はしていた。
いくら辞書や単語帳を引いても、『金銭』や『貨幣』といった単語を見つけることができなかったのだ。
最も近い意味を持つ単語は、『価値のあるもの』という、漠然とした総称のみ。
だが、この『符』という単語の意味を知り、私は悟った。
この異世界には、貨幣経済というものが、存在しないのだ。
家賃を稼ぐための道のりは、いよいよ険しくなってきた。
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