第16話 グレクスの呪文
アンナリセのかつての悪行、悪虐が、わたしの中で牙を剥いている。
グレクスの命で、家令と執事のひとりが揉み消し続けた。わたしが、家令からの信頼を得にくかったのも無理はない。
後始末をしていた執事は、未だに疑っていたのだろう。だからアンナリセが呼び出しを受けたとき、密かに後をつけてきた。お陰で助かったけど。
寝不足で大分くたびれたはずでも鏡に映るアンナリセの
わたしは溜息をつきながらも一大決意をし、グレクスに逢うことにした。
来訪の知らせを魔法師に頼んで出かけたからか、グレクスは馬車停まで迎えにきてくれている。
「グレクスさま。折り入って、お話がございます」
余程、わたしは深刻そうな表情をしていたのだろう。グレクスの表情が
婚約破棄などではありませんよ、と、小さく笑んで言葉を足す。
もっと酷い話かもしれないが。グレクスは、明らかに安堵した表情だ。
だが深刻な話であることは察してくれたようで、極秘の話が可能な部屋へとわたしを案内してくれた。
比較的、狭めな部屋。だが、調度類はどこの部屋よりも凝っていて豪華ながら落ちつける。
グレクスに勧められるまま座り心地の良い安楽椅子に座った。グレクスは斜め横の同じ椅子だ。真っ正面から向かい合うのではなく、少しホッとした。
「後で、俺のほうからも……話をさせてくれ」
グレクスは少し顔を横向け、いつになく真剣な眼差しを向けて前置きした。先に話す気はなさそうだ。
まあ、わたしの話次第では、する話もなくなるかもしれないけど。
それでも、話すしかない。ひとりで抱えるには限界だ。グレクスの反応は怖いのだが、わたしは直感に賭けることにした。
「わたし……わたしの魂は、アンナリセではありません」
前置きもなく、いきなり告げた。もう、一瞬でも、隠していたくなかった。
グレクスは、全く表情を変えることなく頷く。身体ごと顔を横向け、真っ直ぐに見詰めてきた。
「そんなことは、最初から分かっていた。だが、アンナリセ。今のお前こそ、俺が待ち望んでいた運命だ」
一目惚れだ、と、グレクスは呟き足している。
「……魂に?」
わたしは、少し小首を傾げて訊いた。
「そうだ」
少しも
「わたし、自分が誰なのかも分からないのに……」
アンナリセの貌で、アンナリセの声で、だが、全く類似するところのない魂が呟いた。
「お前が誰でもあれ、どうでもいい。居なくならないでくれ! 頼む……」
グレクスは、ガシッと両の手を握ってきた。切実な声。力を込め握ってくる手の感触。懇願する声なのだが、とても心強く感じられた。
「はい。わたし、戻る身体がありません。ここに、アンナリセの身体にずっといます」
嫌でもいるしかない。でも、この身体を浄化しに来たのだと思う。いや、元々の身体を取り返しにきたような、そんな感覚すらある。
「元の魂は……」
グレクスは押し殺したような声で訊いてきた。
戻ってくる可能性はあるのか? と、更に小さく、不安そうに訊いてくる。
「アンナリセの元の魂は、もう転生の輪に乗ってしまいました。二度と戻れません」
確信というより、何者かに告げられた事実。
グレクスは明らかに安堵の表情だ。
「良かった。あれは、邪悪過ぎた。
そう呟くグレクスからは苦悩の気配が漂っている。アンナリセは専属の執事を上手に使い、悪虐のすべてを隠蔽したつもりだったようだが、グレクスにはバレバレだったのだろう。
「……それで、婚約破棄を?」
遠くに聞こえたグレクスからの「婚約破棄」の声。グレクスは首を横に振る。
「それでも、アンナリセを手放してはならない、と、ずっと感じていた……」
「なのに、なぜ?」
グレクスがどこまで話してくれるものか謎ながら問わずにいられない。
「俺には、トレージュの甘言に
やはり、トレージュは、アンナリセとの婚約破棄を勧めていたのだ、と、分かった。
「呪文ですか? 『婚約破棄』が……」
邪悪なアンナリセ。婚約破棄を告げる間際。さすがのグレクスも庇いきれなくなる邪悪な事件の後始末があったようだ。それは、アンナリセと執事が徹底的に証拠隠滅していた。
それでも、アンナリセを手放してはいけない……だが、もう、限界だ。
そんな祈るようなグレクスの呪文に、わたしの身体は死に、アンナリセの魂は天の力で即時に転生させられたのだと分かった。
王族由来ウルプ家の王子グレクスならではの呪文。魔法。祈り。
わたしは、アンナリセの身体に憑依した。
「実際、お前は来てくれた……!」
『婚約破棄』。グレクスのその一言は、悲痛で渾身の魔法の呪文。強烈に、運命を引き寄せた。
どうして、その言葉が呪文であると知ったのかは謎ながら。確かに、アンナリセの魂は除去され、わたしの魂は遠くより引き寄せられ憑依した。
わたしの身体は、たぶん死んだのだけれど。そんなことは、運命の前には些細な話だと、わたしは感じた。
「待っていた。アンナリセ……。今の、お前を!」
「わたしで、良いのですか?」
一目惚れだと言っていたけれど。なんだか誰でも良かったわけではなさそうに思う。
「間違いない。お前だ」
握る手の感触が強くなったかと思うと引き寄せられ、わたしはグレクスの腕のなかに抱き込まれていた。
「グレクスさま、まるで……わたしを知っているみたいです」
くぐもった声で訊く。
「たぶん。知っている。確証は何もないが」
「逢ったことが、あるのですか?」
「お前も、俺に逢っていただろう?」
腕のなか、そう囁かれ、わたしは瞬きする。そう。わたし、グレクスさまの顔を知っていた。間違いなく、王宮へと訪れていたグレクスに逢っているのだ。
「……はい。王都の王宮で……お見かけしたのです」
「やはりな」
抱きしめる腕の力が強まった。
「わたしを、王宮で見たのですか?」
わたしは
本当に、わたしは王都王宮にいたようだ。
わたしは思い出せないというのに、グレクスはわたしの元の姿を知っている――。
グレクスは頷き、身体を擦り寄せるようにして抱きしめる腕に力を込めた。
「だいぶ前だな。お前は巫女見習いだった。俺は、運命の糸というものを視た気がする」
ああ、それで。わたしは巫女術が使えるのね……。
「なのに……アンナリセと婚約したのですか?」
不意に、抱きしめている腕から逃れるような突っぱねる腕の動きで藻掻きながら訊いた。
「何故だろうな……。だが、それが必要だと感じたのだ」
正しかったろう? と、グレクスは笑み含みの声で囁く。そして、藻掻くわたしの身体を抱きしめ直していた。
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