愛を砕く
笹暮
愛を砕く
真夏の太陽が照りつける午後二時過ぎ、わたしはアルバイトの帰りに喫茶店に寄った。
歩くだけで汗が噴き出る外とは違い、店内は冷房がよく効いていて涼しい。席はテーブルごとに低めの薄い板で区切られていて、安心感があった。
わたしは店員さんの「お好きな席にどうぞ」の声に従い、店内を歩く。水曜日の喫茶店はぽつりぽつりと人がいる。どこにしようかと悩んでいると、知人を見つけた。そういえば今朝、照さんから久しぶりに休日が合ったので結奈さんと会うのだと言われた気がする。楽しそうに会話をする彼女たちは、わたしに気づかない。
わたしは照さんと結奈さんに近いボックス席に座った。すぐに店員さんが持って来てくれた水の入ったコップは、大きめの氷が入っている。わたしはよく冷えた水を飲み、店員さんにアイスコーヒーとサンドイッチを注文した。
照さんと結奈さんの会話に耳を傾ける。仕事の話から恋愛の話に変わったところで、わたしが座っているテーブルに店員さんがアイスコーヒーとサンドイッチを置いた。白い皿の上に、規則正しく小さなサンドイッチが並んでいる。わたしはサンドイッチを端から取り、口に入れた。二口で一切れを食べ、次の一切れに手を伸ばす。
わたしがサンドイッチを食べている最中も、照さんと結奈さんの会話は進んでいく。
「最近、佐竹とはどうよ」
わたしはサンドイッチを食べる手を止めた。結奈さんからわたしの名前が出ると、少し緊張してしまう。
「変わらないよ」
声しか聞こえないが、照さんの笑顔が脳裏に浮かぶ。
「佐竹と別れなよ。照にはもっといい人がいるから」
低く硬い結奈さんの言葉に、わたしはまあ、そう言うだろうなと思った。
わたしと照さんと結奈さんは大学の同級生だった。わたしは結奈さんのことを気軽に話しかけづらい友達だと思っているが、結奈さんからわたしへの評価は散々なようで、わたしがまだ小さな会社の社員をしていた頃に三人で行った居酒屋で、結奈さんは「佐竹はクズ」と吐露した。それ以降、くだらない連絡を変わらず取っていても、直接会ってはいない。
最後のサンドイッチを口に入れ咀嚼したあと、わたしはアイスコーヒーに口をつける。口内に残ったマヨネーズのねっとりとした酸味が、コーヒーの苦みに変わる。
ふと、結奈さんの言う通り、照さんと別れようと思った。そうなると、現在、照さんと暮らしているアパートを出ることになるが、それならば遠くに引っ越すのもいいし、しばらくホテルを点々とするのも楽しそうだ。旅行感覚で次の住居を探すのも良い気がする。今のアパートの家賃はほとんど照さんが支払ってくれているため、お金はそこそこ貯まっている。
わたしはアイスコーヒーを飲み干し、お会計をして喫茶店を出る。ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出し、アルバイトを辞めるために電話をかけた。
今日の夕食はペペロンチーノ。コンソメがよく染みたキャベツとコーンとベーコンのスープも照さんが作った。サラダはレタスと玉ねぎの上にカリカリとしたクルトンが乗っている。色違いのランチョンマットに並ぶ料理を、わたしはいつも通り「おいしい」と言いながら食べる。
三日前にアルバイトを辞めた。辞めると電話をかけてから一か月近くかかったが、引き止められずに辞められてよかったと思う。
ここ二日は引っ越しのために、寝室とリビングに置いてあるわたしの荷物を片付けていた。理想はキャリーバッグ一つに収めること。服は二着あれば充分だし、本は何度も読み返した一冊以外処分した。このアパートに届くわたし宛の手紙は実家に転送されるようにしたし、役場で引っ越しに必要な書類も手に入れてきた。あとは照さんに言うだけだ。
口の中に残るニンニクとオリーブオイルの香りを水で流し、わたしはフォークを皿の上に置いた。ペペロンチーノが乗っていた白い皿には、すくいきれなかった黄緑色の液体が付着している。
「照さん」
「ん?」
照さんはまだペペロンチーノを食べている途中で、パスタを咀嚼しながら顔を上げた。
「わたし、そろそろ引っ越そうと思う」
「引っ越すの?」
「うん」
「近く? 遠く?」
「遠く」
照さんは考え込むように下を向いたあと、なにかを決意したように顔を上げ、左手のひとさし指と中指を立てた。わたしはどういう意味か汲み取れず、首を傾げる。
「二か月待って」
「二か月?」
「仕事を辞めるには、二か月くらいかかるから」
普段と変わらない柔らかい微笑み。彼女は仕事が好きなのに、それを辞め、わたしについてこようとしている。照さんの人生全てがわたしに寄りかかってきているようで、背筋が寒くなった。
満足げに再度ペペロンチーノを食べ始めた彼女に、わたしは「冗談だよ」と言って、笑ってみせた。
わたしは仕事に向かう照さんの背中に手を振り、食べ終えた朝食の皿を片付ける。今日はベーコンエッグにパンとインスタントのコーンポタージュだった。
照さんが食べ終えたあとの食器も洗い、わたしは朝まで二人で寝ていた寝室に戻る。わたしの物が残っていないか確認したあと、クローゼットからキャリーバッグを出した。
帰ってきた照さん宛に簡単なメッセージを残そうと、リビングに戻る。文房具をまとめている箱からシンプルな付箋とボールペンを取り出し、椅子に座る。付箋に誠に身勝手ながらと書いたところで、本当に身勝手なので書く必要もなさそうだなと、一枚めくり、それを丸め、ポケットに入れた。
付箋には、今後わたしはこのアパートに帰ってこないこと、鍵は郵便ポストに入れておくこと、残して行く家具は売るなり捨てるなり好きにしてほしいこと、最後に恋人としての別れと感謝を書き、わたしの名前を添える。
テーブルに付箋を貼り付け、わたしはキャリーバッグを持った。玄関を出て、扉の鍵を閉める。階段を降りている最中にゴミ捨てを終えたらしいエプロンをつけた女性と会ったので、笑顔で会釈した。アパートの出入り口の隣に並んでいる郵便ポストに鍵を入れる。深呼吸をすると、朝のなまぬるい空気がのどを通った。
愛を砕く 笹暮 @sasakure15
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます