白露~或る二本松藩士の物語

篠川翠

第1話

「開門!開門!」

 米沢城の黒門は、男の呼びかけに応じる気配もなく、頑として閉じられたままだった。だが、中から人の気配は感じる。

 二本松を見殺しにするつもりだ。

 それを悟って、笠間かさま市之進いちのしんは唇を噛み締めた。数年前、この門前に立ったときは、まさかこのような仕打ちに遭うとは思いもよらなかった。

 五月一日の開戦以来、二本松藩は会津などと共に、白河方面で防衛に当たっていた。今、二本松の主力軍はそのほとんどがそちらへ出払っている。だが、六月十七日に常州平潟に西軍の上陸を許し、同月二十四日には棚倉城たなぐらじょうが落城した。さらに、浜通りに目をやれば、七月十四日にたいら城が落城。西軍は、着実にその包囲網を狭めつつある。その最中、十七日には石川郡浅川あさかわにおいて、三春が仙台藩に向けて発砲するという事件が起こった。

 三春は名目上、奥羽越列藩同盟に所属している。従って東軍側のはずなのだが、浅川の事件は同盟軍の三春に対する疑念を招くのに十分だった。

 元々、三春の若手の間では勤皇の気風が強く、また、やはり隣藩である守山藩は勤皇思想の大本である水戸藩の御連枝である。それらが西軍の先触れとなれば、二本松は確実に攻め滅ぼされる――。

 二本松には留守部隊として、六番組の大谷与兵衛隊が組子や同心、付近の農兵を引き連れて三春から石川郡の菅谷すがやや広瀬の辺りにかけて、警戒していたのだった。

 市之進は、本来は五番組の人間である。ただし、戦のないときは糠沢ぬかざわ組の代官の任務に就いており、組内の行政を監督している。そのため、この度の戦が始まるにあたり自ずと糠沢組の防衛役に回されたのだった。そのため、現在の直接の上司は三番組の樽井たるい弥五右衛門やごえもんということになる。

 白河方面の二本松軍の総大将は丹羽にわ丹波たんばだが、留守は家老の残りである日野源太左衛門などが預かっており、領内防衛の指揮に当たっていた。

 その日野から呼び出しを受けたのは、つい二日前程のことである。

「市之進。米沢に派兵の使者として使いせよ」

 市之進は戸惑った。本来は、他藩への援軍要請は家老クラスの人間が交渉に当たるのが筋である。市之進の石高はわずか七十石。それも、二本松家中の中では比較的新参の家柄であり、使者としてふさわしい身分とは言い兼ねた。

「源太左衛門様、ですが……」

 役目を辞退しようとした市之進を、源太左衛門は押し留めた。

「そなたは米沢藩から鷹山ようざんゆかりの大小を授かったというではないか。それほど懇ろならば、米沢も無碍には扱うまい」

 その言葉に、身が震えた。理知的な源太左衛門が自分に期待してくれている。この家老は元治元年の常州天狗党征伐の折りの指揮官でもあり、共に戦った間柄だった。雲上人とも言うべき人間だが、そのような人物から直々に呼び出され、大役を仰せつかったのだ。感激しなければ、嘘である。だが、それだけ二本松藩が切羽詰まっていることの裏返しでもあった。

「やはり三春が……?」

 恐る恐る、尋ねてみる。数年前、どのような伝手があったものか、わざわざ二本松藩に「剣術指南役を派遣してほしい」との要請が米沢藩からもたらされ、それに答える形で派遣されたのが、市之進だった。妻のたえと息子の褒治ほうじを二本松に残して、一年余りも米沢で暮らしただろうか。二本松よりも雪深い土地での暮らしには閉口したが、何せ名門上杉家からの招聘である。特に鷹山公は米沢藩の中興の祖として知られているが、市之進が二本松に帰藩するに当たり、わざわざ家老の竹俣たけまた美作みまさかに呼び出され、件の大小を白鞘に入れて授けられたのだった。流石は名門というべきか。白鞘に入れられた大小は見事なものであり、二本松の池之入西にある自宅に戻った市之進は、意気揚々と妻や息子にその大小を見せたのだった。

 二本松藩が米沢を頼らなければならないのというのは、やはり白河に主力部隊が足止めされているというのが、大きな理由だからだろう。

 二本松よりもよほど大軍を擁しているはずの仙台の戦意の欠如は、二本松にも聞こえてきていた。おまけに、仙台は二本松の背反の疑いさえ掛けたというのだから、前線の丹波らはその疑いを晴らすために、最前線に釘付けになったままである。

 二本松を守るには、二本松に残された兵力が圧倒的に不足していた――。

「与兵衛殿が申されるには、やはり三春がきな臭いので、上田清左衛門を三春に出張させているとの由。また、岡佐一も三春城下に潜入しておる」

 肯き返した源太左衛門の言葉に、思わず身震いした。大谷与兵衛は、番頭の中でもベテランである。やはり常州の天狗党征伐の任に当たった経験があり、実戦経験を持つ与兵衛が怪しむというのは、ほぼ三春が裏切ると予想しているに違いなかった。

「すぐにでも出立いたします」

 片膝をついて、市之進は頭を下げた。事は一刻を争う。源太左衛門は、近習を手招くと、直違紋すじかいもんの旗指し物を市之進に授けた。紛れもなく、二本松藩の使者としての証である。

「そなたの留守の間の農兵の訓練には、代わりに栗生くりゅう庄司と横田伊織いおりを向かわせる。農兵でも、何も訓練しないまま戦場に立たせるよりはましだろう」

 源太左衛門は、厳しい表情を崩さずに告げた。栗生は普段は城務めで賄い役を任されており、また、横田は一八〇石の上役である。とにかく、二本松城下に残された兵そのものが少ないのだから、刀を腰に差した者は全て戦に向かわせざるを得ない状況だった。

 そのまま馬房に向かおうとした市之進を、源太左衛門は「待て」と呼び止めた。

「もし、米沢が応じなかったら無理を通すな。そのまま戻って糠沢の守備に当たれ」

 その言葉に不吉なものを感じながら、市之進は「畏まって、候」と答えるのみに留めたのだった――。

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