唇の刻印
即位式前夜、夫婦の寝室で、テオドールはこれまでにないほど穏やかに、フィアに語り掛けてくる。
「明日でようやく念願が叶う。悪しき王政を立て直し、新しき国を作れる」と言うのだ。
フィアはため息をもらした。従順な妻ならば、ここでテオドールに同調し労うべきだ。けれど、つい本音がこぼれ出てしまう。
「テオは自分がされたことを、他の民に繰り返すのね。冷遇され命の危険に晒される者を増やす。この戦争もそう」
テオドールの表情が曇るのが分かった。黙れと言われるのだろう、と思う。
今日で傀儡の妻はおしまいだ。テオドールが王となれば、フィアは用済みになる。だとすれば、考えだけは伝えておこう、とフィアは思う。
「城壁の向こう側から、綺麗な緑が失われたのを知っている?城のテラスからよく見えるの。元々美しかった木立や丘陵が色を失っていくの。私は何も出来ずに、見つめているだけ。誰かの領地なのか分からないけれど。あの美しい土地が焦土となるのは、ただ悲しい。その先に住まう誰かが傷つくのも、悲しいわ」
「脆弱な思考だな」
「言うと思ったけど」
フィアが肩をすくめてため息まじりに言えば、テオドールはフィアを見つめ、頬に手のひらを這わせる。
「そばにいても、閉じこめていても。お前はどこまでも、外へ心を向ける」
切なそうにフィアを見つめてくるのだ。
「テオ?」
いつもとは様子の違う夫に戸惑いと覚える。
「どうやったら、オレだけを見てくれるんだ」
「何を言っているの」
「民のこと治世のこと、そして国外のこと。お前の関心はいつもここにはない。いつも幻を抱いているような気分になる」
テオドールの突然の告白に、フィアは驚いてしまう。テオドールは自分を支配しきって満足している、とフィアは思っていた。
「元々、私はテオが好むような女じゃないでしょ」
「好むような女?」
「喜んで籠の中にいてくれる、可愛らしい女性。相手が悪かったんじゃない?相手が私じゃなければ、テオは幸せだったと思う」
「フィアじゃなければ、とっくにこんな国は滅ぼしていた。元より血統と力で国民を断絶させている。こんな国は」
「明日でその私にも、利用価値はなくなると思うけど。抱き枕くらいにはなったでしょ」
フィアの言葉にテオドールは深くため息をつく。
「とことん鈍い女だな」
「女、女って。テオは昔からずっとそれ。お得意のフレーズ」
フィアが声を荒げれば、テオドールはなぜか口元をゆるめる。
「母からは女を護り愛せよと、それだけを教わった」
愛せよ。
その響きだけが残り、フィアは目を見張る。テオドールがそんなことを言うとは思わなかった。
「親しい友人としてならば、性別なんてどうでもいいじゃない。私だってテオを護れる」
「お前は友人ではない、最初から」
フィアは落胆した。テオドールはフィアから視線をそらさずに、
「一度、抑制魔法抜きに抱かせてくれ」と言う。フィアは目を見張った。
「テオ、知っていたの」テオドールは答えずに、続けるのだ。
「あるいは、口づけが欲しい」
フィアの唇を親指のはらで撫でてくる。何度となく肌を重ねた経験はあっても、テオドールに唇を許したことはない。
「なんで、そんなこと」
「明日でティアトタン国は変わる。俺がお前から継承権を奪い、ラヌス王以前の血統主義は、失われるからだ。そして……」
「テオ?」
「その前にフィアの真実が知りたい」
なぜか、心の水面に波が立った。
知りたい?
同じようなことを、誰かに言われたような気がした。
「私の真実には、好戦的な怪力姫の面があるのよ。そして、私の本当の姿を知っているなら、化け物だと思うでしょ」
フィアの言葉に、テオドールは首を横に振る。
「化け物ではない」
「嘘ばっかり。私の力を封印したのは、その姿を見たくないからでしょ」
フィアが言えば、テオドールはせせら笑い、そう思うなら思えばいい、滑稽な勘違いだなと言うのだ。
「ティアトタン国の王族は、圧倒的な力を持つ。それにお前に関しては、地下国出身の母の血を引いている。ラヌス王の治めていたティアトタン国においては、お前は申し分ない、正統な後継者だ」
「だとしても、私にチャンスを与えてはくれないの?無駄に余りある力を上手く使えば、私も国の役に立てるかもしれない」
「お前を矢面に立たせるのが最良だとは思わない。新しいティアトタン国では、お前の力は必要じゃない」
「そう、ずっとそう言っていた。だからこそ、私はあなたと分かり合えないと思った。護られるだけの姫を、あなたが求めていると知っていたから」
「そう、分かり合えはしない。だが、それでいい」
どこか諦念のこもった落ち着いた調子で、テオドールは言う。
「今はただ。どちらかが、欲しい」
この婚姻の最後に、と言う。フィアにはその意味が分からなかった。
ただ、テオドールの様子がいつもとは違うことが気になって、フィアは強く拒むことが出来ない。
「そんなに、ノインに兄弟を作りたいの?それとも私からの降伏の証が欲しいの?」
フィアが問えば、テオドールは笑う。
「何よ?」
そして、フィアの頬に手を当て、唇を重ねてきた。目を見開くフィアに、テオドールは言う。
「バカみたいに鈍すぎる女だな。でも、愛していたよ、フィア」
フィアは言葉を失った。
しばらく、テオドールの顔をぼんやりと見つめてから、どちらか選ばせて、くれてないじゃない、と不服を申し立てれば、テオドールは弾けるように笑う。そして、
「フィアは最後まで生意気で、御しがたい女だったな」と言うのだ。
ただ、その表情を見ていたら、フィアはなぜか悲しくなった。いつも不機嫌なテオドールが笑ったことが、なぜか悲しかったのだ。
記憶にある限り、婚姻後初めてテオドールと肌を重ねることなく、ただ、抱きしめられてフィアは眠った。
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