二話 清廉の槍、高潔の盾 ③

「つまらん」


 


 俺は読んでいた漫画を閉じた。俺は美談が嫌いだ。愛とか友情とか信頼とか見せかけに過ぎないものを尤もらしく描きたてるからだ。


 


 ただ、いつもとは違い、俺の好悪とは関係なく、単純に読む気が失せた。そのまま別の本を読む気にもなれず、俺は日課の筋トレを始める。女との遭遇戦の後、鎧を脱ぎ、鏡で全身を見てみれば、左腕の裂傷や貫かれた右足の傷は跡形もなく消えていた。


 


 後遺症もなかったため、こうして問題なく腕を立て伏せ出来るという訳だ。二、三回、腕を上下させたところで、なんだかむずかゆくなり、やめた。そのまま床に突っ伏す。


 


 俺は余暇が嫌いだ。労働も好きとは言えないが、それ以上に余暇を持て余す方がストレスになる。中学卒業以来、昼夜平日休日問わずで、アルバイト漬けの毎日を過ごしていたのはそれが理由だった。


 


 金に困っていた訳じゃない。幼少期から毎月、父親に人一人が暮らしていくには多すぎるくらいの仕送りを貰っていた。


 


 ただあのクソ野郎が出した金だけには手をつけたくなかったし、手をつけざるを得なかった小中の自分を恥じている。


 


 それでも社畜同然の生活を送っていた俺には充分すぎる収入があったし、浪費癖がある訳でも、金がかかる趣味があった訳でもない。金が入るのは有り難いが、そこまで重視していたわけではなかった。


 


 なら、何が好きでそんなに働いているのか、と訊かれれば、俺は考える必要がなくなるからと答える。


 


 暇な間はとりとめのない思考があちらこちらに彷徨い、大したことがなくても苛立ったり、鬱な気分になったりする。思い浮かぶのは直近のニュースや過去、両親、自分の事など色々だが、そのどれもが面白いとは言えない。


 


 中学卒業以前は主に運動や筋トレで誤魔化していた。娯楽にも手を出してはいたが、媒体に関わらずストーリーが含まれるものは愛だの何だのと語られると興醒めするものだから、食指に合うものはめったになかった。


 


 物語性のないアクションゲームやシューティングゲームをやりもしたが、終えた後に残るのは満足感ではなく、虚脱感で、時間を有効に使えたと思えたためしがない。一時期はバラエティ番組なんかも見ていたが、ゴシップが報じられる度、うんざりした気分が募るようになり、そのうち見なくなった。


 


 一方で働いている間には余計なことを考える暇などなく、終われば身体を動かすのと同じく爽快感が残る。しかも金が入るとくれば、俺の時間を溶かすのが運動から労働に移り変わったのも自然と言える。


 


 趣向品よりも食料の方が貴重になった世界だ。娯楽には事欠かない。紙媒体の娯楽なら掃いて捨てるほど手に入るし、映画やゲームなどの電子媒体でも充電済みのバッテリーを使ってメディアを起動させれば良い話だ。


 


 だが、現代の豊富な娯楽群を漁っても満足いかなかった俺に今更夢中になれるものを見つけられるはずがなかった。そんで社会は崩壊し、外を容易に出歩けば殺されるときたものだ。


 


 労働は言わずもがな、運動だって万一に備えて体力を温存しなければならない。そういうわけで、災禍以来、俺は余暇が憎悪するほどに鬱陶しく感じるようになった。


 


ボタン電池式のライトを消し、寝転がった。目を閉じるが、一向に眠気はやってこない。それどころか眠ろうと思えば思うほど余計に思考が渦巻いて、目がぱっちりと醒めてしまう。


 


 会ったばかりの奴なんだぞ。出会ってから二日も経ってない。どうしてあいつの死に俺が悩まされる道理がある? あいつを殺したのだってディストラルになってたからだ。ああなればもう戻れない。死んだも同然だ。俺が罪悪感を抱く必要性はないし、あいつの為でもある。


 


 何が要因かは明白だった。大築を自分の手で殺してからずっと続いている、いてもたってもいられなくなるような不快感。否定しようと試みるがどうにも上手くいかない。


 


 お前はあいつに何を期待した? あいつと共に歩みたい? 期待は裏切られるものだと言うのに?


 


 自分に問いかける。答えは出ない。いや、出してはならない。もう大築は、この世のどこにもいないのだから。俺はもうあいつと二度と会うことが出来ない。だが心まで納得させるのは難しそうだった。どうやら眠れない夜が続きそうだ。


 


 結局、その日は一睡も出来ず翌朝を迎えた。窓の外から空を見遣れば、全面を覆いつくすほどの曇天だ。


 


 不眠と天気の不調のせいか、芯から染み入るような頭痛に襲われた。頭が回らない。痛みを悪化させるかもしれないが、ボトルコーヒーを飲み、次いでに顔を洗って目を覚ます。カフェインに刺激されてか身体が空腹を訴えたので、ガスコンロで湯を沸かし、カップ麺の容器に注ぎ込む。


 


 昨日、あの鎧から逃走したついでに、ボロボロになったリュックを回収した。きっと大築が守ったのだろう。少し食い荒らされてはいたものの、八割がた残っていた。故に食料も水も足りている。外に出てリスクを踏む必要はないが…。


 


 アタッシュケースを机に置き、眺める。血糊がこびりついている以外はただのケースと変わらない。


 


 他の特徴はと言えばメーカーか製品の名前か知らないが「HERACLEOUS」という文字が刻まれていたくらいだ。


 


 いや、ヘラクレスは鎧の名称かもしれない。ギリシア神話の英雄、ヘラクレス。アニメやら漫画やらでイメージされる容姿が鎧の姿形とそれとなく似ている気がする。モチーフにでもしたのだろうか。


 


 開けば、装着でき、摩訶不思議な力をもたらす鎧になるケース。見れば見るほど不思議だ。どこを見ても、施された技術が全く分からない。宇宙から流れ着いた。異世界からやって来た。魔法によって作り出された。そんな空想すら真っ当に思えてしまう。だが重要なのは原理ではない、高い実用性だ。


 


 鎧さえあればディストラルを圧倒できる。つまり俺にとって、奴らは既に脅威ではないのだ。無論、既に壊されたものは戻らず全部元通りとはいかない訳だが、奴らに制約されない日常生活を取り戻せる。


 


「久々に走ってみるか…」


 


 バイトの前の景気づけ、或いは一日の疲労を吹き飛ばすため、俺はランニングを習慣にしていた。といっても明確にいつやるかは定めておらず、余暇の殆どを充てたが為に習慣になった、と述べた方が適切かもしれない。


 


 汗を流すのは、気持ちがいいし、ストレスの解消にもなる。気分を切り替えるならもってこいだ。


 


 あれこれ考えているうちに完成したカップ麺を食べると、俺は身支度を済ませ外に出た。


 


 懊悩と気鬱を振り払えるよう、一歩は力強く、腕は大振りに走った。息苦しさに悩みは吹き飛ばされ、汗と共に流される。


 


 俺はいつもそうして日頃の鬱憤を晴らしていた。今回も鬱陶しい悩みは頭から追い出され、幾分かすっきりした気分で帰宅する。そう思い込んで、俺は忘れていた。


 


 どこへ行こうとも視界に収まる地獄からは逃げられない、という事実に。街に出れば静まり返った廃墟の群れが目に入る。


 


 かつては自然豊かだった公園へ向かえば、緑を失った禿山と泥だけを水面に映す池がそこにある。想像される、思い起こされるのは、数多くの悲劇。


 


 高所から世界を見下ろす。見渡せる景色は灰色だ。鉄筋コンクリートとアスファルトで囲まれた街。街を飾る彩色はそのほとんどが失われてしまった。


 


 後に残ったのは流した汗の分より多くの地獄を想起させられる世界だ。ストレスを解消しようとして、逆に溜まるのも必然だったのだろう。


 


「クソッ…」


 


 拳を握りしめ、曲がった道路標識を殴りつける。これならまだ昔の方がマシだったかもしれない。ため息を吐き、俺は踵を返した。


 


 帰路の最中、倒壊した建造物に一輪のタンポポを見かけた。改めて警戒心を張り巡らせる必要がないからか、じっくりと眺める余裕が持てる。


 


 朱と灰塗れの背景にたった一つ混じった黄色。明暗の差のおかげか、ひときわ目立って見える。まるでタンポポが世界に唯一残った希望のようだった。


 


 引き寄せられるように俺はそばへと向かう。タンポポは重なる瓦礫の僅かな間隙に根を張り、太陽を浴びれるよう器用に茎を曲げ、黄色い花弁を天に掲げていた。


 


 励まされる気がした。こいつの懸命さに。災禍以来、生き延びるのが難しくなったのは人だけではなく、動植物もだ。奴らに喰われず、命を繋いでいくのがいかに難しいことか。その姿からはただ注がれるだけの陽光よりもよほど気力が貰える。


 


 ふと大築の事が頭に浮かんだ。ほわほわした雰囲気がタンポポに似ていたのだろうか。花があいつの死を連想させた、からだろうか。


 


 そういえば俺は大築に礼も謝罪も出来ていない。


 


 あいつの事を最後まで信じ切れなかった俺を、命を投げ出してまで守ってくれた。


 


「今更だが…言わないよりはましか…」


 


 というより言っておかなければならない。大築がいなければ俺は今、生きていないのだから。

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