一話 血濡れの英雄 ⑦

「アンタは…」




 出かかった言葉を飲み込んだ。続きが思いつかなかったからだ。大築にじっと見つめられる。俺は間が悪くなって、視線を反らそうとした時、大築の表情がこれまでにないほど強張っていることに気づく。疑念の回答が示されるのはすぐだった。




「荒場くん逃げて!」




 言うと大築は俺を押しのけた。高く、大きい。続いた音から捉えられた特徴はそこまでだった。すぐに耳鳴りが鼓膜を支配し、思考が奪われる。時間の流れがやけに緩やかに感じられた。横目に映ったのは、鋭利な角を生やした狼のディストラルと、アタッシュケースを盾にして、そいつの突進を迎え撃った大築の姿だった。




「早く!」




 叱咤されて、あわてて駆けだす。続く金属音にようやく危機感が呼び起こされた。狭い路地裏に駆け込み、その場を後にする。そのまま通りを抜け、住宅街に入る。




—グギャァアァァア!




 そこで潰れた喉から無理やり絞り出したような絶叫が続き、俺は思わず耳に手をやった。立ち並ぶ荒れ屋の塀。そこから腕が突き出し、壁は豆腐のように脆く崩れた。




 俺はそいつの容姿を目にする前に引き返した。路地裏を経由して今度は別方向へ走る。流れてゆく視界は両脇を塞ぐ廃墟と散乱したゴミ、建物の残骸。薄暗く、外の様子は一切分からない。




 勿論、どこにディストラルが潜んでいるかも。肌に張りつくじめついた空気を汗と共に拭う。一刻も早く開けた空間に出なければならない。障害物をよけながら、足を前に送ること。それだけが自分の今すべき全てに思えた。


 


 日差しを受けたアスファルトを視界に捉えた時、俺はすぐにそこへ飛びついた。警戒心を置き去りにして。無思考で。はっとした時にはもう遅かった。




 前方を覆いつくす赤黒。それは波打っていて、血の海と千切れた肉と臓物によって形成される。肉片が引っ掛かったギザ歯が地獄の門のように見えた。




 思索を差し挟む間もなく、赤黒は迫る。俺をその一部に飲み込まんとして。一歩一歩後ずさりしながら逃走を試みるも、俺が路地裏に飛び込むよりも、赤黒のふちが入り口を塞ぐ方が速かった。




 逃げ場を失った俺は捕食されるのみ。徐々に視界が覆われていき、太陽さえも届かなくなってゆく。肉と臓器の闇鍋が見えなくなったのが唯一の救いだった。




 憎悪も悲壮も後悔も追いつかない終わりだった。だがなんとなく自分の末路だけは理解しているようで走馬灯が駆け抜けてゆく。




 流れていくのは面白味のない人生だった。退屈で鬱屈とした人生。その場しのぎの憂さ晴らしにあの手この手を尽くすが、満たされることはない。目的も理由もなく、日々をただ生きているだけ。そんな凡庸でくだらない生に心が突き動かされるはずもなかった。




 赤黒に覆われて、光が失われていく様子を俺はただぼんやりと眺めていた。




「荒場くん!」




 浮遊感が全身を襲った。背中と腰下あたりに硬い感触がやってきて、視界からは赤黒が消え去り、光景は元の色彩を取り戻した。




 黒い鎧が俺を庇うように立つ。体躯は血に濡れていて、右手には武骨な鉄塊を握っている。相対するは赤黒。先ほどとは異なり、その全貌がはっきり見えた。頭の部分がやけに大きく発達していた。一方で胴体は赤子のそれ。凧のようにひらひらとした四肢を引きずっている。 




 黒の鎧、大築は大きく一歩を踏み跳躍する。直後、赤黒はトマトのように潰れた。一撃は鉄塊による振り下ろし。地面に衝撃。散る血しぶきとつぶて、次いで肉塊。凄惨な光景が瞬く間に眼前へと広がった。




「大丈夫だった? 荒場くん、ケガしてない?」




死骸へ背を向けた鎧は俺に目線を合わせた。




「大築、か…?」




 血に濡れた鎧、そしてその戦闘スタイルが匂わせる凶暴さは大築が纏う温厚さにそぐわない。が、膝に手を置き俺をうかがう仕草は大築がしそうなものだった。




 ほっと気が緩み、息を吐く。そこで俺はやっと己に関心が向く。尻と足を地面につけ、何かにもたれるような、腰が痛む不自然な姿勢。まるでお姫様抱っこ——。




「お前っ…」




 立ち上がって、申し立てようとしたが、責める権利などないことに気づき、頭を掻いた。非常に遺憾ではあるが、こいつは命の恩人なのだから。




「ああ、良かったぁあ。一時はどうなっちゃうかと思ったよ…」




 表情は見えない。声音はくぐもっている。示されるのは胸に手を置く動作だけ。それでもこいつが安堵していると、はっきりわかる。なんとなくやりづらくなって、俺は視線をそらした。




 すると鎧…大築は俺に頭を下げた。訳が分からず、少し戸惑ってしまう。それにこいつが抱っこの件を自省するとは思えなかった。




「ごめん、荒場くん。私の見積もりが甘かった…」




「見積もりって…」




 問うよりも、言動の理由を理解する方が速かった。どこからか重低音がやってきた。飛行機が空を切り裂く、あるいは列車がレールを摺る重さに生物の脈動を与えたような音だ。皮切りになったのはそれだった。鳴き声が、咆哮が、叫びが、四方からやってくる。




 北。金属同士が擦れ合う高く、胸をぞわりとさせる叫び。




 東。獲物に飛び掛かる野獣めいた興奮がうかがえる鳴き声。




 西。喧騒の中でも搔き消えず、道行く人が立ち止まる歌声に似た、透明感と存在感を両立した美しい咆哮。




 南。生理的嫌悪感と本能的恐怖が綯い交ぜになった感情を胸の内からこみ上げさせる『化け物』らしい絶叫。




 混じり合う『化け物たち』の叫びは狂騒となって収束する。




 ディストラルが俺たちを囲んでいる。それは、『異常』が『日常』になった今でも驚くべき事実だった。奴らの共通性は混沌と異常。群れて獲物を襲うことはあっても、狩人のような計画性と集団性をもって追い詰めることなど見たことがないし、そんな様子は想像がつかない。




「どうなってやがる…」




 独り言が漏れた。ディストラルの群れという絶望的状況。それにも関わらず恐怖より戸惑いが勝る。




「荒場くん、わたしから離れないで」




 そう言って、大築は歩き出した。鼠まがいから学んだ教訓が思い起こされる。あれとこれとは出来事の次元が違うが、そもそも奴らを一度として理解出来たことはないのに、脅威を過小評価したのは同じだ。




 まるで真っ暗な闇に放り込まれたようだった。それは、災禍直後に抱いたのと同じ感慨。俺は異常な日常に慣れ切ってしまっていたのだろう。良くも悪くも。


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