27年

 原付のエンジンを吹かせ、燃料スタンドを出た。

 俺の妻、沙友里さゆりの待つ病院へ向かう途中に燃料が切れてしまったのだ。六十年以上前に使われていた化石燃料と呼ばれる類の燃料に比べると、遥かに燃費はいいらしいが、やはり燃料切れは起こる。昨日の内に入れなかったせいかもしれない。

 夜風が頬を撫でて行く感覚が気持ちいい。深夜一時であるからか、昼間は多い交通量も格段に減っていた。今は数分に一度すれ違う程度だ。

 周りの家の照明が殆ど消えており、常夜灯も疎らにしか設置されていない田舎であるため、視界の上端に映る夜空が随分と綺麗に見えた。普段は何気ない景色でも、今日だけは特別に見えた。

「今日も暑いな……」

 この分厚い服装のせいだろうか、茹だるような暑さに拍車がかかっている。可能ならばこの服を購入した十年前に戻り、もっと高性能のものを買いたい。これから何彼なにかと金が必要になるため、出費は抑えておきたい。冬になれば丁度いい服になるからこれで暫くは我慢しようと、欲求に言い聞かせた。

 今頃、沙友里は必死に新しい命を産み落としているだろう。

 そう、俺との間にできた、小さな命のことだ。


 俺と沙友里が初めて会ったのは、大学の映画研究会の研究室だった。

 研究室という大それた名前の割には、随分と質素な部屋であったことを今でも覚えている。幽霊会員を合わせても十人に達しない、二年生は誰一人としていない、小さい研究会だった。そんな中で、俺と沙友里はたった二人だけの一年生としてスタートを切った。

「で、松原まつばらさんは何で映画研究会に入ったんですか?」

 これ以上会員が増える見込みはないと会長の笹森ささもりが判断し、幽霊会員以外の四人で開いた細やかな飲み会でのことだ。飲み会と言っても、俺と沙友里はまだ未成年で、先輩たちは下戸だったためファミレスで夕飯を食べるだけの会だ。

 全員が食事を終え、各々好きな飲み物を飲んでいる時に沙友里がそう俺に訊いてきた。

「そうだなぁ。……簡単に言うと、映画とか小説とか、現実から離れたものに浸るのが好きだったから、かな」

「ほう……」

 会長が芝居のような相槌あいづちを打った。普段から何処か芝居のような言動であるらしいので、俺の話を莫迦ばかにしているのではないようだ。他方、隣に座る沙友里と右斜め前に座るもう一人の先輩はまだ言葉を咀嚼そしゃくしているようだった。

 気にせず話を続ける。

「俺、大学に入るまで結構いじめられてたんですよ。自分で言うのも変ですけど、このまま死んだ方が楽なんじゃないかって思って、自殺しようとしたくらい追い詰められてた自信があります」

 先輩が一口、コーヒーを啜る。もう既に微温湯ぬるまゆ程度の熱さになっているだろう。俺は少し詰まった息を整えてまだ続ける。

「中学……二年生ぐらいだったかなぁ。そのぐらいの時に、初めて真正面から映画を観たんですよね。あ。この日は学校サボって家にいました」

 いよいよ重くなってきた空気を散らそうと、取って付けたような冗談を言う。勿論、作り話ではなく事実だ。我ながら何の救いにもなっていない自虐だ。

「そしたら、何故か凄い惹かれて、その日は昔見た映画を観漁りました。ただ流すだけだった映画を、改めてしっかり観てみると色々発見があったりして、さらに深く好きになれたんです。でも、今思えば、ただ逃げてたんじゃないかって思うんですよね。現実から逃げて、誰かが創った世界の中に逃げただけなんじゃないのかなって」

 途中で終われば、ただの美談として終われたのだろうか。けれど、言葉が溢れて出して止まらない。元より、止めるつもりもなかった。息をするように、転んだ時にできた擦り傷が治るように、人が生まれて死に、どんな形にしろ新しい生を受けるように、当たり前に、言葉が溢れ出す。

「俺にとってこれが正解だったのかどうかは、もっと先の話になると思います。この先、幸せになるか不幸せになるかで決まる程度の、結果論に過ぎない正解ですけど。だけど、十年後、五十年後、もっと先の未来に俺がどうなっていようと、今のこの時間は、確実に正解だったって言えると思います。逃げた先にいた小舟こふねや先輩たちのおかげで、そう思えるんです」

 照れくさくなり、顔を上げてはにかんだ。頬が僅かに紅潮していることを、感じる熱から察する。何から何まで、俺らしくない反応だ。

 高校の奴らが見たら何と言うだろうか。そう考えてしまう自分が莫迦らしい。

 そう思えるほど、どうでもいい評価だった。

 そう信じれるほど、今の価値が俺の中で大きくなっていた。

「松原君……。君、凄いこと言うね」

 会長がらしくない唖然とした真顔でそう言った。他の二人も会長と同じように、口を半開きにして唖然としている。褒められているのか、そうでないのか少し紛らわしい。

「それって、褒めてます?」

「いや、褒めると言うより、関心してると言う方が正しいかな。まるで映画のワンシーンを切り取ったみたいだったよ」

 映画のワンシーンと言われて、妙にしっくりきた。何一つとして脚色していないが、自分の発言を振り返ると確かにそんな気もした。気恥ずかしい。

 店を出た俺たちは、駅前でそれぞれの帰路に就くために別れた。会長と先輩とは家の方向が真逆だったが、沙友里とは同じ方向だった。話を聞いたところ、同じ方向どころか同じマンションだったことが発覚した。

 少し騒がしい、眠る直前の街の中を二人並んで歩く。夜風が頬を撫でて行き、沙友里の長い髪がそれになびいた。

「さっきの話なんですけど」

 何の前触れもなく、街の喧騒に負けない程度の声量で沙友里が呟いた。

「私も大体松原さんと同じ理由で映画研究会に入りました。いじめ続きの毎日で、映画だけが道標で、頼りになってました。別の言い方をすると、縋っていたんだと思います。だから、今日はありがとうございました」

 沙友里は不意に足を止めて、俺が振り向く前にペコリと軽く頭を下げた。俺も足を止める。

「何か感謝されるようなことしましたっけ?」

 困惑を声に滲ませてしまう。彼女は話を続ける。

「私の喉につかえていた言葉とか、言い表せなかった思いとか、全部言ってくれたことに感謝してるんです。私は松原さんと違ってそういう感受性が凄く低いみたいで、自分で表す言葉では何処か大事なものが大きく欠けちゃうんです」

 誰だってそうだろう。いつだって最初に欠けるのは、一番大事なところだ。

「そんなこと、僕にだってありますよ。上手く言葉遊びをしてそれっぽく見せてるだけです」

「でも、私にはない視点で物事を見ている。それを私に教えてくれた。それだけで、十分感謝に値するんです」

「そういうものですか?」

「そういうものなんです」

 俺の問いかけに、沙友里は首肯した。


 それから約九年の月日が流れた。

 一年生の冬頃から、俺と沙友里は自然と交際関係に発展していった。大学四年間でじっくりと互いのことを知っていき、卒業した後も季節が移ろうように、当たり前に交際は続いた。二十五歳で結婚まで果たした。結婚式には笹森会長ともう一人の先輩も呼んだ。ちなみに映像研究会は、先輩たちが順次卒業した後、新入生を確保できなかったため俺たちの代で幕引きとなった。

 もうすぐ病院が視界に入ってきてもいい頃だ。

 星空の下、俺は何気なくその建物を探そうと辺りを見回した。真っ直ぐ走るだけであれば、感覚だけで可能だ。他の車が走らないであろう区間に入ったため気を抜いた。

 それが、映画のシナリオのように定められた運命だったのだろう。

 昼間を想起させるほどの光量が、俺を一瞬にして包んだ。何かわからなかった。

 光源を探して振り向いた俺の目には、何も映らなかった。いや、正確には光で何も見えなかった。だがその代わりに、網膜ではなく脳に直接何かの情景が映し出された。

 小汚い六畳の部屋、床に積まれた文庫本、天井を感じない青天井、町を囲む山の丘陵、水路のような小川のせせらぎ、景色に似合った蝉の鳴き声、茹だるような夏の暑さ、少し古びた外観の学校、向けられる軽蔑するような視線、案の定古い教室、嘲笑うような視線、上っ面だけは小綺麗な、俺にとっては底意地の悪そうな男の顔、そんな人間の中で唯一好きな人、左手の甲に刻まれた痣、人生は百年だという話。

 小綺麗な広い部屋、はっきりと見えるフローリング、天井を感じるが確かに綺麗な空、立ち並ぶ家々、大きな橋の架かる河川の轟音、ジメジメとした暑さと蝉の鳴き声、時代の最先端を行くと思わせる外観の学校、向けられる温かい視線、家にも負けないほど綺麗な内装、人の裏表を感じさせないほどの笑顔、好きで溢れている世界。

 くだらない人生、桜の木の下、顔も知らないはずの誰かの遺書、自発的に死んだ記憶、全部がくだらない。

 人生は、どう足掻いても百年だという話。

 全部が脳内を何度も廻った。まるで、世界が終わる前にやりたい放題に生きる人間のように、脳内を縦横無尽に駆けていた。

 今日は、俺と沙友里の子どもが産まれる日であり、俺の、松原冬夜とうやの、二十七回目の誕生日だった。

 いや、桐ヶ谷翼の、百回目の誕生日と言う方が正しいだろう。

 そう、俺の人生が終わる瞬間だった。

 本当に百年を迎えた瞬間に人生が終わるのだと知った俺は、あの嘘のような創作物の話を信じてやってもいいと思えた。今回も含めて計四回の違う人として生きた俺が、この世界より上位の仕組みに薄々気付いていた俺が、初めて心の底からそう思えた瞬間だった。

 認めるしかない。全てが、失われていく。

 脳内の景色全てに、霧がかかっていく。朧気になっていく。

 だが一方で、何処か満足したような気もする。

 百年間同じ人間として生き続けるより、記憶も持たずに百年を切り分けて過ごす方が、遥かに有意義な人生だったと、そう思えた。


 一人称は知らない。

 ただ、桐ヶ谷翼は、雨音優希は、斎藤さいとう悠斗ゆうとは、松原冬夜は、たった今、

 百年限りの『人生』を終えた。

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