27年
原付のエンジンを吹かせ、燃料スタンドを出た。
俺の妻、
夜風が頬を撫でて行く感覚が気持ちいい。深夜一時であるからか、昼間は多い交通量も格段に減っていた。今は数分に一度すれ違う程度だ。
周りの家の照明が殆ど消えており、常夜灯も疎らにしか設置されていない田舎であるため、視界の上端に映る夜空が随分と綺麗に見えた。普段は何気ない景色でも、今日だけは特別に見えた。
「今日も暑いな……」
この分厚い服装のせいだろうか、茹だるような暑さに拍車がかかっている。可能ならばこの服を購入した十年前に戻り、もっと高性能のものを買いたい。これから
今頃、沙友里は必死に新しい命を産み落としているだろう。
そう、俺との間にできた、小さな命のことだ。
俺と沙友里が初めて会ったのは、大学の映画研究会の研究室だった。
研究室という大それた名前の割には、随分と質素な部屋であったことを今でも覚えている。幽霊会員を合わせても十人に達しない、二年生は誰一人としていない、小さい研究会だった。そんな中で、俺と沙友里はたった二人だけの一年生としてスタートを切った。
「で、
これ以上会員が増える見込みはないと会長の
全員が食事を終え、各々好きな飲み物を飲んでいる時に沙友里がそう俺に訊いてきた。
「そうだなぁ。……簡単に言うと、映画とか小説とか、現実から離れたものに浸るのが好きだったから、かな」
「ほう……」
会長が芝居のような
気にせず話を続ける。
「俺、大学に入るまで結構いじめられてたんですよ。自分で言うのも変ですけど、このまま死んだ方が楽なんじゃないかって思って、自殺しようとしたくらい追い詰められてた自信があります」
先輩が一口、コーヒーを啜る。もう既に
「中学……二年生ぐらいだったかなぁ。そのぐらいの時に、初めて真正面から映画を観たんですよね。あ。この日は学校サボって家にいました」
いよいよ重くなってきた空気を散らそうと、取って付けたような冗談を言う。勿論、作り話ではなく事実だ。我ながら何の救いにもなっていない自虐だ。
「そしたら、何故か凄い惹かれて、その日は昔見た映画を観漁りました。ただ流すだけだった映画を、改めてしっかり観てみると色々発見があったりして、さらに深く好きになれたんです。でも、今思えば、ただ逃げてたんじゃないかって思うんですよね。現実から逃げて、誰かが創った世界の中に逃げただけなんじゃないのかなって」
途中で終われば、ただの美談として終われたのだろうか。けれど、言葉が溢れて出して止まらない。元より、止めるつもりもなかった。息をするように、転んだ時にできた擦り傷が治るように、人が生まれて死に、どんな形にしろ新しい生を受けるように、当たり前に、言葉が溢れ出す。
「俺にとってこれが正解だったのかどうかは、もっと先の話になると思います。この先、幸せになるか不幸せになるかで決まる程度の、結果論に過ぎない正解ですけど。だけど、十年後、五十年後、もっと先の未来に俺がどうなっていようと、今のこの時間は、確実に正解だったって言えると思います。逃げた先にいた
照れくさくなり、顔を上げてはにかんだ。頬が僅かに紅潮していることを、感じる熱から察する。何から何まで、俺らしくない反応だ。
高校の奴らが見たら何と言うだろうか。そう考えてしまう自分が莫迦らしい。
そう思えるほど、どうでもいい評価だった。
そう信じれるほど、今の価値が俺の中で大きくなっていた。
「松原君……。君、凄いこと言うね」
会長がらしくない唖然とした真顔でそう言った。他の二人も会長と同じように、口を半開きにして唖然としている。褒められているのか、そうでないのか少し紛らわしい。
「それって、褒めてます?」
「いや、褒めると言うより、関心してると言う方が正しいかな。まるで映画のワンシーンを切り取ったみたいだったよ」
映画のワンシーンと言われて、妙にしっくりきた。何一つとして脚色していないが、自分の発言を振り返ると確かにそんな気もした。気恥ずかしい。
店を出た俺たちは、駅前でそれぞれの帰路に就くために別れた。会長と先輩とは家の方向が真逆だったが、沙友里とは同じ方向だった。話を聞いたところ、同じ方向どころか同じマンションだったことが発覚した。
少し騒がしい、眠る直前の街の中を二人並んで歩く。夜風が頬を撫でて行き、沙友里の長い髪がそれに
「さっきの話なんですけど」
何の前触れもなく、街の喧騒に負けない程度の声量で沙友里が呟いた。
「私も大体松原さんと同じ理由で映画研究会に入りました。いじめ続きの毎日で、映画だけが道標で、頼りになってました。別の言い方をすると、縋っていたんだと思います。だから、今日はありがとうございました」
沙友里は不意に足を止めて、俺が振り向く前にペコリと軽く頭を下げた。俺も足を止める。
「何か感謝されるようなことしましたっけ?」
困惑を声に滲ませてしまう。彼女は話を続ける。
「私の喉に
誰だってそうだろう。いつだって最初に欠けるのは、一番大事なところだ。
「そんなこと、僕にだってありますよ。上手く言葉遊びをしてそれっぽく見せてるだけです」
「でも、私にはない視点で物事を見ている。それを私に教えてくれた。それだけで、十分感謝に値するんです」
「そういうものですか?」
「そういうものなんです」
俺の問いかけに、沙友里は首肯した。
それから約九年の月日が流れた。
一年生の冬頃から、俺と沙友里は自然と交際関係に発展していった。大学四年間でじっくりと互いのことを知っていき、卒業した後も季節が移ろうように、当たり前に交際は続いた。二十五歳で結婚まで果たした。結婚式には笹森会長ともう一人の先輩も呼んだ。ちなみに映像研究会は、先輩たちが順次卒業した後、新入生を確保できなかったため俺たちの代で幕引きとなった。
もうすぐ病院が視界に入ってきてもいい頃だ。
星空の下、俺は何気なくその建物を探そうと辺りを見回した。真っ直ぐ走るだけであれば、感覚だけで可能だ。他の車が走らないであろう区間に入ったため気を抜いた。
それが、映画のシナリオのように定められた運命だったのだろう。
昼間を想起させるほどの光量が、俺を一瞬にして包んだ。何かわからなかった。
光源を探して振り向いた俺の目には、何も映らなかった。いや、正確には光で何も見えなかった。だがその代わりに、網膜ではなく脳に直接何かの情景が映し出された。
小汚い六畳の部屋、床に積まれた文庫本、天井を感じない青天井、町を囲む山の丘陵、水路のような小川のせせらぎ、景色に似合った蝉の鳴き声、茹だるような夏の暑さ、少し古びた外観の学校、向けられる軽蔑するような視線、案の定古い教室、嘲笑うような視線、上っ面だけは小綺麗な、俺にとっては底意地の悪そうな男の顔、そんな人間の中で唯一好きな人、左手の甲に刻まれた痣、人生は百年だという話。
小綺麗な広い部屋、はっきりと見えるフローリング、天井を感じるが確かに綺麗な空、立ち並ぶ家々、大きな橋の架かる河川の轟音、ジメジメとした暑さと蝉の鳴き声、時代の最先端を行くと思わせる外観の学校、向けられる温かい視線、家にも負けないほど綺麗な内装、人の裏表を感じさせないほどの笑顔、好きで溢れている世界。
くだらない人生、桜の木の下、顔も知らないはずの誰かの遺書、自発的に死んだ記憶、全部がくだらない。
人生は、どう足掻いても百年だという話。
全部が脳内を何度も廻った。まるで、世界が終わる前にやりたい放題に生きる人間のように、脳内を縦横無尽に駆けていた。
今日は、俺と沙友里の子どもが産まれる日であり、俺の、松原
いや、桐ヶ谷翼の、百回目の誕生日と言う方が正しいだろう。
そう、俺の人生が終わる瞬間だった。
本当に百年を迎えた瞬間に人生が終わるのだと知った俺は、あの嘘のような創作物の話を信じてやってもいいと思えた。今回も含めて計四回の違う人として生きた俺が、この世界より上位の仕組みに薄々気付いていた俺が、初めて心の底からそう思えた瞬間だった。
認めるしかない。全てが、失われていく。
脳内の景色全てに、霧がかかっていく。朧気になっていく。
だが一方で、何処か満足したような気もする。
百年間同じ人間として生き続けるより、記憶も持たずに百年を切り分けて過ごす方が、遥かに有意義な人生だったと、そう思えた。
一人称は知らない。
ただ、桐ヶ谷翼は、雨音優希は、
百年限りの『人生』を終えた。
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