いなさ

 僕の母さんは、随分と綺麗だと思う。

 洗練された顔立ち。透き通るように白い肌。大きくキラキラと光り輝く漆黒の瞳。艶やかな程よく長い黒髪。左手の甲にあるあざすら綺麗に見える。

 小学生の頃、毎月のように開催されていた授業参観では、他の母親とは違い特別な雰囲気を

 かもし出しているように見えた。実際に、視覚情報からだけでも他の親とは一線を画していたと思う。自分の親だからそう見えているだけ、という何もわかっていない外野の意見もあるだろう。だがそんな意見は、隣の席に座っていた女子に羨ましがられた、という言葉でいくらでも捻じ伏せられる。

 綺麗を飛び越え、美しいとさえ言い表せるであろう母さんは名前まで美しい。

 雨音あまね夏月なつき

 梅雨から夏へ移ろう時期を表現しているような名前だ。由来は知らないが、僕はそうだと信じている。

 さらに、母さんは外から見える部分だけでなく内面も美しい。優しく、息子思いで、勤勉な努力家。他にも星の数を優に超えるほど思い浮かぶが、この世に存在する言葉だけではどう足掻いても足りない。

 そして一番美しく尊敬できるのが、僕を一人で育てているということだ。端的に言うと、シングルマザーだ。

 僕の父親は、僕が小学生の頃に浮気相手と一緒に蒸発した。僕にとってはあまりにも突然の出来事だったが、どうやら母さんは薄々察していたらしい。特に驚きも、悲しむことも、恨みもせず、何処か吹っ切れたような顔で離婚届に判を押していた。

 それから今に至るまで、一度も再婚をせず僕を高校二年生まで育て上げた。母さんの給料が良かったのか、僕らは何不自由なく親子二人で生活をすることができた。

 これだけ長い母さんの自慢話をすれば、大抵の人は気付くであろう。

 そう、僕は自他共に認めるマザコンなのだ。

 積極的に公言をすることはないが、特別秘匿している情報でもない。親しい友人の何人かは既に知っている。中には、僕の発言から推測したという猛者もいた。

 だが、ただ一人、母さんにだけは気付かれないように注意をしている。母さんに知られるのは、嬉しくもあり、何処か恥ずかしくもある。たとうならば、片思い中の相手に自分の好意を気取られるようなものだ。そんなこと、僕の中に住む羞恥心が許さない。


 今日は、僕の大好きな母さんにとって大事な日だ。

「母さん、誕生日おめでとう」

 内心はもっと派手に祝いたいが、平静を装っていつもと変わらない声音で言う。

「ありがとう。優希ゆうき

 母さんは僕が差し出した桜色のリボンが巻かれている白い小包を受け取ると、優しく柔らかそうに微笑んだ。自分の母親であるはずだが、恋でも始まりそうな温かい予感が心の中でじんわりと広がっていく。

「開けていい?」

 小首を傾げながら僕に訊いてきた。それに対して首肯して答える。

「結構高かったけど、バイトの給料を貯めて買ったんだ。たぶん、母さんに似合うと思う」

「ふふっ。何それ。そういうことは、彼女さんにしてあげなさい」

 僕が普段のトーンに若干の恥じらいを混ぜて言ったことに、母さんは口元にふわりと手を当てて笑ってくれた。ついでに、優しく助言のようなものを貰った。今後こういうことをする相手は母さん以外にいないと思うので、特に気に留めなった。

 華奢な指で丁寧に桜色のリボンをほどいて行く。無駄に防音設備の高いマンションに住んでいたからか、紐の擦れる音がよく聞こえた。ゆっくりと紐が解かれていく度に高鳴る心拍が、母さんに聞こえていないか心配になる。

 紐を解き終えて、白い小包の蓋を持ち上げた。それまで興味深々といった表情を浮かべていた母さんは、蓋が持ち上がるのに合わせて徐々に笑みを濃くしていった。

「これって……」

 持ち上げた蓋を小包の脇に置き、中からプレゼントを取り出した。細い銀色のチェーンに、桜の花弁を模した微細な硝子細工が施してあるネックレスだ。ふと立ち寄ったデパートで偶然発見し、一目惚れした。勿論、そのネックレス自体ではなく、それを身に着けた母さんの姿にだ。

「うん。母さん、桜が好きでしょ?だから、色々あった中からそれを選んだんだ」

 重厚そうなショーケース内に並べられていたのは、桜の花弁以外に、雫を模したものや葉を模したもの、満月を模したものもあった。僕は母さんの名前にもある月と迷ったが、結局は一番好きであろう桜を選んだ。

「なんか、益々私が貰っていいのかなって遠慮したくなっちゃうなぁ……。あ、勿論誉め言葉だよ?」

「わかってる」

 桜の硝子細工を目線の高さに掲げながら、うっとりと見惚れている母さんに向けて優しく微笑んだ。

 気に入ってくれて何よりだ。

 早く身に着けた姿を網膜に焼き付けたいと思うが、この空気を壊さないようにはやる気持ちをグッと抑え込んだ。だが、自分の意思程度が抑えられるはずもなく、舌の上に言葉が乗った。次の瞬間にインターホンが鳴らなければ、そのまま零れていたかもしれない。

「こんな時間に誰だろ。ちょっと見てくるから、母さんはゆっくりしてて」

 今は午後九時を過ぎた頃。来客にしては少し遅い時間だ。そもそも、母さんも僕もこの時間に誰か来るとは聞いていないし、言ってない。椅子を立ち上がったところで母さんに「うん。ありがとう」と感謝をされた。

 少し嬉しくなりながら玄関に向かう。外靴を履き、少し背伸びをしてドアスコープを覗き込んだ。廊下の薄明りに照らされた一人の男が立っていた。恰好からして、宅配便の配達員だろう。何かは知らないが、母さんが以前買ったものが届いたのだろうと一切の躊躇ちゅうちょもなくドアを開けた。

「こんばんは」

 第一声。向こうから声をかけられる。僕が閉まらないようにドアを手で押さえていると、配達員の男が足で止めてくれた。大体母さんと同じぐらいの年齢で、愛想のいい男だった。

「こんばんは。あ、印鑑必要ですよね?ちょっと待っててください」

 ふと思い出し、ドアの固定は配達員に任せて背を向けた。

「あ、大丈夫ですよ。判子もインクも揃ってるので」

 不気味で僅かな狂気を孕んでいた男の発言に少し疑問を抱いた僕だったが、その思考を遮るように、背中の一点に熱い感覚が走った。激痛―――というわけではなく、鈍い痛みだった。まるで零した水が絨毯じゅうたんに滲んでいくように、徐々に鈍痛が広がっていく。

「え……?」

 色々と、解決するには遅すぎた。

 自分が刺されたという事実に気付いたのは、一度刃物を抜かれた後にもう一度別の場所に刺された時だった。そこで初めて声に出して悶え苦しんだ。痛みの正体を意識するまでは、激痛も鈍痛として処理されることを初めて知った。居間の方から母さんが慌てて立ち上がる音が聞こえ、それに重厚なドアの閉まる低音が重なった。

 もう一度抜かれ、また刺される。次々と更新されていく激痛のせいで、感覚神経内で渋滞が起きているような想像をする。

 だがそれ以前に、痛みではない何か別のものが脳内を駆け巡り感覚を乱している。

 その正体に気付いたのは、母さんが僕の目の前に現れたその瞬間だった。

 僕が見たものは、言わば前世の記憶というものだろう。全く見たこともない景色が、走馬燈のように脳内を廻った。

 小汚い六畳の部屋、床に積まれた文庫本、天井を感じない青天井、町を囲む山の丘陵、水路のような小川のせせらぎ、景色に似合った蝉の鳴き声、茹だるような夏の暑さ、少し古びた外観の学校、向けられる軽蔑するような視線、案の定古い教室、嘲笑うような視線、上っ面だけは小綺麗な、俺にとっては底意地の悪そうな男の顔、そんな人間の中で唯一好きな人、左手の甲に刻まれた痣、人生は百年だという話。

 母さんが現れた直後から、僕の背後に立っている男は何か喚き出した。けれど、そんなことをどうでもいいと言い切れるほど、僕はこの記憶と呼ぶに相応しくない景色に見惚れていた。

 不意に、いままで背中に刺さっていた刃物が抜ける感覚がした。それもどうだっていい。今の僕にとって、刃物が刺さっていようといなかろうと些細な違いすらない。背後から、喉を潰されたような男の短い絶叫が聞こえた。遅れて、ドアと何かの衝突音。

 滲んだ視界だって、どうでもいい。

「優希……?ねぇ……優希……?」

 母さんの視界も僕と同じように滲んでいるのが、声からわかる。滲んでいようと、声も、姿も、全部が綺麗だった。涙と空が滲む言葉に惚れたことがあるが、この光景も綺麗だった。

 体は、まだ動かせる。ゆっくりと歩み寄ってくる母さんの方へと一歩踏み出す。どれ程の傷が背中に刻まれているかは知らないが、激痛は鈍痛に移り変わり、既に意識の外へと追いやられていた。

「優希……?」

 もう一度、母さんが僕の名前を呼んでくれる。心の底では、違う名前で呼んで欲しいと思ってしまう自分がいる。暴れようとしている気持ちを必死に抑えつけた。

 二歩目を踏み出したところで母さんが僕に到達し、優しく、けれど強く抱き締めてくれた。

「ねぇ……。大丈夫……だよね……?」

 そう言うからには、大丈夫ではないんだろう。所々、母さんの声が上擦っていて、それがより一層僕の死を暗示していた。

「……よかった」

 随分と空白の時間が存在したと思う。生乾きの雑巾を絞るように出した声は酷く掠れていて、言葉として認識するのがやっとだった。もう一滴零したいところだったが、口には出さなかった。


「好きでした」なんて安っぽい言葉では、俺と僕の十八年五ヵ月は表せない。


 十七年と三ヶ月。雨音優希としての人生は、前回と同じく短いものになった。

 霧の中に姿を消すように朧気になっていく景色も意識も、全部、一人称不明の、今であれば僕の人生なんだと知った。次があると、何処か確信に近いものを持っていた。

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