僕の家の事件簿
風崎時亜
妄想に支配された人の話
僕の家は集合住宅の一室にあった。
昭和の終わりに建てられた五階建ての古いマンションタイプの公営住宅だ。その頃は高さが五階以下なら設置する義務がなかったみたいで、エレベーターがない。それでも引っ越して行く人があんまりいなくて、団地に住む人はどんどんお爺さんやお婆さんになって行った。
今時、僕の学校の誰もそんな所に住んでいる人はいなかったから恥ずかしかった。なんでも親の収入が低い人しか住めない特別な団地らしい。
学校に提出する書類にはだいたい住所を書かないといけないのだけれど、団地名を書くのが嫌で番地と号室のみを書いて提出していた。そんなことをしても意味がない事は分かっていたけれど。
団地にも同級生がいた。小さい頃はよく遊んでいたし、小学校は集団登校だったから一緒に通っていた。けれども皆んな、親がお金を貯めて新しく家を買って出て行ってしまった。たまに入居してくる人達も老人ばかりで新しく妊娠する人もいなくなり、子供はどんどん減って行った。
治安も悪かった。
今のマンションなら当たり前のオートロックが付いていなくて、誰でも出入り出来るせいかも知れない。
お金がない人が集まる団地なのに何故か泥棒が入るし、覗きや痴漢騒ぎもあるし、僕が生まれる前には住んでいる四階の奥に停めてあった誰かのバイクのカバーに火を付けられて、燃え広がって手すりが焼け落ちた事もあったそうだ。住民が他の人を恐喝する事件も起きたし、夜逃げした家に夜中に取り立ての人が来て騒いだりした事もあった。
飛び降り自殺があったり、孤独死で突然警察が聞き込みに来たりしてびっくりした事もある。
「呪われているわ、こんな団地…」
パート勤めでいつも疲れている母さんがよく言っていた。本当に、殺人以外なんでもあったみたいだ。
父さんと母さんは僕と姉さんの為に、それでも我慢してここに住んで黙々と頑張って働いてくれていた。
僕は少しでも両親の助けになる様に公立の高校に行く為に、必死になって勉強している。
秋が来て、なんとなく寂しい気がする日が続いていた。
その日は補習授業で遅くなってしまったから、もう周りは真っ暗だった。
僕は蜘蛛の巣がいっぱい掛かった古い電灯がチカチカしている階段を登り、家に入ろうとしていた。そこでふと、横並びになっている玄関の廊下の先に人がいる事に気が付いた。
その人は直立不動で立っていて、何も言わずにこちらを見ていた。暗いから男の人なのか女の人なのか分からない。近所にあんな人居たかな?と思いながらも僕は軽く頭を下げて挨拶をし、鍵を開けて家の中に入った。
家には母さんと姉さんがいた。
僕を見るなり、姉さんが怯えた様な顔で言う。
「おかえり。今、外に変な人がいなかった?」
「え?ああ…廊下の端に立ってた人?誰だろうね」
「やっぱりまだいたの?あの人、私が四時半に学校から帰って来た時にいてね、五時過ぎにコンビニに行って帰って来た時もまだいたんだよね…何だろう…」
その時、ピンポーンと家のチャイムが鳴った。
「はい」
母さんが応対する。うちのインターホンは声のみのタイプだから誰かは見えない。
すると来客が言った。
「真下の号室の黒木です。お宅の旦那さんが私を追いかけて来るんですけど、やめてもらえますか?」
「は?」
「私が居間やトイレに行くのに合わせて旦那さんが同じ場所に移動して来るんです。毎日毎日…そしてお前はうるさい、静かに歩けって怒鳴るんです…迷惑しています、やめてください…」
訳が分からない。
僕達より上の階ならうちに足音とかが響いて来ると言うのは分かるけど、真下の階の号室の人の音なんて全然聞こえて来ないし、うちの誰かが下に向かって何かの文句を言っているのも見た事がない。
旦那さんって、父さんの事だろうけどだいたい今は仕事でまだ帰って来ていない。
母さんも不審に思ったのか、
「あの…夫は仕事で今は家にいませんが…」
と遠慮がちに答えた。
すると声の主は急に怒り出して
「お前のとこの旦那がうるさいって私に言うって言ってるだろうが!いないって言うなら家の中見せろ!」
と怒鳴った。
びっくりした母さんと姉さんはつい疑いを晴らす為にその黒木って人を家に入れてしまった。
やっぱり廊下の端に立っていた人だった。
間近で見るその人は女の人だったけれど、驚くほど目元が落ち窪んで頬もこけていた。それにお風呂に入っていないのか酸っぱいような臭いがした。
僕は体格だけはいいので、せめて母さんと姉さんの前に立って両手で二人を守ろうとした。
黒木さんは二部屋とリビングしかない狭くてあまり片付いていない僕の家の中を隅々まで調べて
「いない…そんな筈はない…でもいない…」
と呟いた。そして勢いよく振り返ると
「私が来るって分かったから旦那さんベランダから逃げたんでしょう!」
と叫んだ。
「いい加減にしてください!」
今度は母さんが叫んだ。
「ほぼ初対面なのに突然来た貴女に、ここまでの事をしてるんですよ?!自分が間違えている事を認めてください!」
…僕は他人にあんなに怒った母さんを見た事がなかった。どうしよう、こんな時どうしたらいいんだろう…。
その時、扉がガチャっと開いて誰かが入って来た。
「おい、どうした?玄関の鍵開けっ放しっだったぞ?」
父さんだ!
「貴方!」
「父さん!」
母さんと僕達は一斉に叫んで父さんに駆け寄った。
「なんだ?どうした?」
「父さん、あの人が突然来て、父さんがあの人を追いかけるって言い張るんだ…」
僕は説明しながら黒木さんを見た。
彼女は呆然として父さんを見ていた。
「貴方…が野上さん?」
「ええ、ここの世帯主の野上雅人ですが?貴女は?」
「ち、違う…違うぅぅ!人違いでした…ごめんなさい!」
黒木さんはそう言ってしゃがんでワアッと泣き出してしまった。
「私…私、精神疾患があるんです…精神病院に入院していた事もあって…双極性障害で手帳も持ってるんです…いつもいつも野上さんの旦那さんが私の事追いかけて来ていて…もう精神的に参ってしまって…ねえ…野上さん、追いかけてましたよね?私の事…毎日耳元でお前はうるさいって言ってますよね?」
黒木さんは後半はなんだか変な目をして父さんの事を見た。
「そんな訳ないでしょう?!貴女自分で今、人違いって言いましたよね?もう帰ってください!警察呼びますよ?」
父さんはスマホを取り出しながらキツい口調でそう言った。
結局、黒木さんはその後も話の辻褄が合わなくて意味が分からない事を言うので父さんが呼んだ警察の人に連れて行かれることになった。
父さんと母さんも玄関前で長い間事情聴取を受けていた。
それが終わった後、母さんはため息を吐いて僕に言った。
「腹は立ったけれど、人はどんな事である日壊れてしまうか分からないから、あんまり強く出られないよね。とにかく黒木さんが刃物とか持ってなくて良かった」
その後精神疾患があるからという理由で数時間で彼女は警察署から家に帰された。その時に二度と僕の家に来ないように注意されていたけれど、その日以来何度か家のチャイムを鳴らしに来るようになった。
彼女を擁護する様な事を言った母さんだったけれど、度々来ては妄想で有りもしない言い掛かりを言って来るので段々と滅入って来ていた。時には僕達子供に聞かせたくない様な暴言を吐かれた事もあったらしい。
黒木さんが数年前にここに越して来た時に挨拶に来て以来会った事もない様な僕の家族が、どうしてそんな言い掛かりを付けられてしまうんだろう。僕も本当に腹が立つ毎日だった。いつももしかしたら家の前に立っていないか不安で、出かける時はそうっと玄関扉を開けて周囲を確認していた。
その内、誰かが家にいる時には黒木さんが来ても絶対に扉を開けないようにしたし、すぐ警察を呼ぶと言って追い返す様になった。
両親はたまらなくなって住宅の管理会社に電話をした。すると驚いた事に、彼女は少し前までは下の階の人に文句を言っていたらしい。だいぶ揉めて反省した筈だけれど、とその担当者は言っていた。
うちの件についても本人から苦情として管理会社に電話がかかって来た事があったらしい。その時点でうちにも連絡を入れて欲しかった。
本当に、思い込みの激しい人はどうしたらいいんだろうか。
更に家族で話し合った結果、なんとか中古の家を買って引っ越しをする事に決めた。すぐに家を探し出したけれど、結構人口密集都市だからなかなか買えそうな家が見つからない。
そうこうしている内に受験の日が来た。
僕は今まで頑張って来た成果が出せて、希望の公立高校に合格する事が出来た。姉さんが通う大学と方向も同じ所だ。
僕の進学先が決まった事で、ちょっと不便な場所だけれど家もその方面に買う事が出来た。
いよいよ入居日が決まったので、両親は住宅の管理会社に引っ越しをする事を伝えた。
「そうですか、良かったですね!」
僕達の引っ越しを、担当の人は心から喜んでくれた。
その人はこの団地の退去手続きをひとしきり説明した後でこう言った。
「そうそう、実は黒木さんも先月末にそこを退去されたんですよ。親族の方に手伝っていただいて精神病院の運営する施設に入ったそうです」
なんだ…そんな事ならもっと早くに言って欲しかったな…最近見かけないなとは思っていたけれど。
それはともかく、両親は僕の高校の入学式に間に合うように迅速に新居への引っ越しの手続きをした。
そんなに遠い場所ではないから、先に交代で車で少しずつ荷物を運んだり、家の中の寸法を測って新しい家具を買いに行ったり、棚を組み立てたりといった作業をしていた。
僕はマンションにしか住んだことがなかったから、一戸建てはどんな所なのかと思うと楽しみで仕方がなかった。まだ卒業式が来ていないから学校があるので、具体的な場所は知らなかったけれど。
卒業式も終わって数日後、いよいよ明日業者が来て引っ越す日になった。家の中は家族みんながそれぞれの荷物をまとめた段ボール箱でいっぱいだった。
料理道具を全て纏めてしまったのでご飯を作る事が出来なかったから、その日はお湯を沸かしてカップ麺にした。
順番にお湯を入れて、もうすぐで父さんの麺が出来上がるという時になんとスマホが鳴ってしまった。
画面を見た父さんの顔が険しくなる。以前にお世話になった警察の人からだった。
「例の、お宅の真下に住んでおられた黒木さんですがね、数日前に施設から抜け出して今、行方不明なんですよ。そちらに行っていませんでしょうか」
僕達の間に緊張が走った。
「いいえ…こちらには来られてませんが…もし見かける事がありましたら連絡します」
父さんはそう言って電話を切った。
「黒木さん…どうしたのかな…施設のセキュリティもなってないよね」
母さんが不安そうに言う。
「ああ。だけど刑務所って訳じゃないんだから、ある程度人権も守られないといけないし散歩の時間とか緩い部分もあるんじゃないかな…」
父さんはすっかり伸びてしまった麺を啜りながら言った。
「どっちにしろ、俺達にはもう関係ないだろ。明日引っ越すんだしね」
でも僕は、なんとなく玄関の小さな覗き穴からあの人が見ている様な気がして落ち着かなかった。
だから何度か覗き穴から覗いてみたり、少しだけ玄関の扉を開けて外の様子を伺ったりしてみたけれど、黒木さんはいなかった。
僕はホッとしたのと片付けで疲れていたのとで、その日は早く眠りに着いた。
引越しの日は大変だった。
結構荷物が多いのに業者は三人しか来なかった。それでトラックの荷台にどんどん段ボールを積み上げたり、姉さんと僕のベッドを解体して運んだりするのに凄く時間が掛かっていた。
僕達は二手になって今の家に残って片付けをする組と、新居で荷物を受け取る組とに別れる事にした。僕は父さんと二人で荷物を受け取る側になった。
新居に到着した。僕にとっては初めて見る家だった。結構古いけれども数年前に大規模なリフォームをしたらしく、案外綺麗だった。
「あれ?」
玄関の扉に鍵を差し込んだ父さんが言った。
「鍵が開いてる…」
そして急いで母さんに電話をした。最後に彼女が一人でカラーボックスやチェストを運び入れていたのが二日前だったからだ。
「ごめんね〜、玄関扉に二箇所も鍵穴があるから、どっちに回したか分からなくなったみたいで…」
スマホから母さんの申し訳なさそうな声がしたので、僕達は顔を見合わせた。
泥棒が入っていたらどうしよう?
でもまだ書棚もチェストも空っぽだし、テレビも到着していない。盗られそうな物は何もないから大丈夫なんじゃないかな。
僕と父さんは根拠もなくそんな風に考えて、新しい家に入った。
家の中はそんなに広くはないけれど、リビングのシステムキッチンもお風呂場もトイレもほぼ綺麗なままだし、張り替えた壁も真っ白で二階に上がる廊下と階段の濃い茶色とのコントラストが綺麗だった。
でも…どこからか何か臭う。しかも覚えのある変な酸っぱい様な臭いだ。
「ねえ…父さん、なんだか臭うよ」
「え、家の木材とかの臭いじゃないのか?」
「ううん…一応いろいろ見てみるよ」
僕はそう言って二階に上がって、各部屋のクローゼットや押入れ、天井収納なんかを見て回った。何処にも何にもなくて、天井収納の場所にも窓もないし、誰もいなかった。
自分で見て来たくせに僕はまだ納得が行かなかった。
「もうすぐ引っ越しのトラックが着くぞ」
「分かってるよ」
僕の勘を信じていない父さんに少しムッとしながら、手を洗う為に洗面所に行った。
「…あ」
洗面所には洗濯機置き場があって、その横の床に小さな蓋があった。
何だろう。リビングだったら床下収納だったりするのに。
僕は何気なくそこを開いてみた。すると、少し下の方に敷き詰めたただの土が見えた。
顔を入れて前方を見ると、正面の駐車場からちょっと高くなっている部分に鉄格子が嵌った小窓があった。ここから換気をして土台が腐らない様にするんだな、と僕は奥の方を覗いた。
そこにはひと束の髪の毛があった。まさか…
「え?」
髪の毛の先には落ち窪んだ目をした顔があって、じっと僕を見つめていた。
「う、うわあぁぁぁっ!」
僕は驚いて叫んで顔を上げた。
「どうした!?」
父さんが慌ててこっちに来た。
「こ、ここ、この下に人が!!」
僕はそう言うのが精一杯だった。父さんも下を覗いて見て、同じ様に大きな声を上げ、すぐに救急車と警察を呼んだ。
床下にいたのはやっぱり黒木さんだった。
手には自分の靴を握り締めて、腹這いになって弱っているのか動けなくなってしまっていた。
彼女は駆け付けた救急隊の人達に引っ張り出してもらって、病院に運ばれた。
彼女が入っていた施設の係の人も来て僕達に平謝りに謝っていた。
黒木さんは入所してからずっと、うちの家族が彼女に謝りに来ないと言っては怒っていたそうだ。こっちが一方的に難癖を付けられて苦情を言われていたのに、うちの家族のせいだと言い張っていたらしい。
そして彼女はある朝の体操の時間にトイレに行くと言ってそのまま戻って来なかった。居なくなった事に気が付いて探している間に給食業者のトラックが門を入ったタイミングで外に出てしまったらしい。
後から見返した防犯カメラにその様子が写っていたので、警察に連絡をしたそうだ。
そこからすぐの国道のカメラにも写っていて、タクシーを拾って乗る姿が確認されていた。それが二日前の事だった。
映像からタクシー会社とナンバーを割り出して当時の様子を運転手さんに聞くと、黒木さんは一旦公営団地まで乗ったらしい。
そこでたまたま駐車場に向かう母さんを見つけて、後を追う様に頼まれたそうだ。そのままこの転居先の家の近くで降ろしている。そこからの事は分からないらしい。
彼女はちゃんと現金を持っていたし、母さんとは知り合いで、行った先で合流する予定だと言ったので特に疑いもなく後を追ったと運転手さんは言っていた。
黒木さんはどうしても僕達に謝って欲しかったらしくて夢中で母さんを追いかけて、母さんが荷物を置いて帰ってしまった後でたまたま開いていた玄関から中に入った。でもまだ引っ越しが終わっていないから電気も付いていなくて真っ暗で、待っていても誰も来なくて急に訳が分からなくなり、とにかく隠れないといけないと思って何故か床下に入ったそうだ。そうしたら狭くて自力で上手く動く事が出来なくなって…
あのまま見つからなかったらどうするつもりだったのだろう。死なれていたら一生のトラウマになる所だった。
あんなに驚かされたしこれまでも酷い目に遭ったのに、ちゃんと救急車を呼んだ父さんの事は尊敬する。
彼女は幸い軽い脱水症状を起こしていただけで無事で、入院した病院でずっと泣いていた。退院したら一応住宅侵入罪で逮捕されることになっている。
ああ…
床下にお化けみたいなおばさんは寝転がっていたし、引っ越しの業者さんには大迷惑をかけたし、生まれて初めての引越しなのに散々だった。
新しい家は嬉しいけれど、とんだスタートになったなあ…
「ホント、住所バレちゃったけどあの人もう来ないよね?」
姉さんが不安げに言った。
「…大丈夫だろ。タクシーに乗っただけで場所は分かってなかったみたいだし、周りの人もきっと気を付けるよ」
引っ越し後のまだ散らかったリビングで窮屈そうに肩を寄せる僕達をよそに、父さんは大した事でもなかったかの様にそう言うと、今晩のご飯のカップ麺を選ぼうと段ボール箱に手を伸ばした。
僕の家の事件簿 風崎時亜 @Toaka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます