第16話 魅惑の箱

 吾輩の舌も大分肥えたもので、鶏肉と蛙肉の違いが分かるようになった。最近はまた蛙が多い。くじ引きの期間は終わったと見える。くじ引き、というのには思うところが勿論ある。あんなものに熱狂するなど気が知れないとは思うが、そのおかげで吾輩の食卓が豪勢になった事は否定しないし、他にも副産物が生まれているから心中は複雑である。


 この家宅の隅には、まだ未開封の木箱が五六個積まれ山となっている。くじに煽られて、一体どんな無駄なものを買ったというのだろう。開けもしないのがまた主人らしい。


 だが、吾輩も慣れたもので、家の隅に積まれたそれをわざわざひっくり返そうとか、開けてみよ、と促したいとは思わない。今はその箱の山の上に陣取り、主人を眺めるのも楽しい。食卓と違い、壁際、且つ高い所というのが好い。気の好いときはここで居眠りをする。願わくばこのまま、開けないでいて欲しいとも思う。これがくじを頭ごなしに否定出来ない理由である。


 しかし、ある日、吾輩が昼寝から帰ると、あの箱の山が崩されていた。まだ、空き箱が残っていれば猫らしく吾輩の別荘二号として使ってやれたのにそれすらない。家宅の外を探索したら、ばらばらになって詰まれた無残な木箱を見つけた。吾輩は家宅に戻り、寝室にいる犯人を見出すと、抗議した。


 みー。


 書を読んでいたらしい主人は吾輩を振り返り、


「どうしたの?」


 と知らんぷりする。あの箱の山は主人より吾輩が使っていた。そうであるなら、あの箱の山は吾輩のものと言って差し支えないだろう。主人は屈んで、吾輩を捕まえようとする。そうではない。主人は吾輩が泣くと、自分の欲望と吾輩の指示を入れ替える傾向にある。


 みー。


 ついてこい、と言って寝室を出て、箱の山があった位置に行く。


 みー。


 振り返り、再び抗議する。すると、主人はふんふん、と頷いた。とはいえ、これで理解を示されたと考えるのは早計である。主人はことあるごとに吾輩の言葉を自分の都合の良い言葉に解釈する。今回も、何を丁稚上げられるかわからないぞ、と覚悟する。


「何言ってるかさっぱりわからん」


 しかし、主人はあまりに酷いことを言った。普段は吾輩の言葉を自分勝手に違える癖に、今回はついに、さっぱりわからないと来た。本当に頭に来て、主人の足に寄って引っ掻いてやろうとした。すると、当然主人はだるんだるんと不格好に乳を揺らしながら後退った。そうして寝室の前まで来ると、主人は急に足を止めた。おかげで吾輩は鼻っ面を主人の足にぶつけてしまった。主人にこうして好きに振舞われるのは猫として大変不服だった。見上げるが、この距離では爆乳の出っ張りに遮られ、主人が如何なる顔をしているのか、どこを向いているかもわからない。と、急に乳が迫ってきた。ただしゃがんだだけなのだろうが、おっぱいに潰されてはたまらないと距離をとる。十分な距離を取ると、主人はじっと吾輩を見ている事が分かった。


「そうか、なくなった箱の中身が気になったのかな」


 違う。結局勝手な解釈をされてしまった。


「そうだよねえ。気になるよね。じゃあ、こっちおいで」


 そういって両手を広げる。しかし、それに跳び込む程愚かではない。箱の中身には露程も興味はないからだ。


「おかしいな」


 主人は独り言つ。そもそも、主人が両腕を開いた時、吾輩が跳び込んだことは一度もない。主人はさっと両腕をしばらく振り、ついでに両乳房を大いに揺らしたが、吾輩の方が先に飽きてしまった。仕方ないので、鞄と外套で出来た別荘で寝直すことにした。背後では主人が退散する音が聞こえる。と、吾輩の目前に別荘が迫った時、中に、小さな虫のような物が跳ねた。思わず跳び付く。とんだ珍客もいたものである。つい迸る野性がえいや、と爪を伸ばし、捕らえたそれを牙で抑えると、虫は急に思わぬ力で地上から跳び上がった。驚いて爪と牙を剥がし、もう一度目で餌を追う。すると、それが木っ端だと知れた。しまった、と勘付いた時にはもう遅い。体は再び木っ端を追いかけて、勢いのままに、釣竿を繰る主人の足元に来ていた。しかも、御誂え向きに鞄まである。


「捕獲」


 そうして空いた手で吾輩を悠々と捕らえた主人は、流れるように鞄へ吾輩を入れた。トートバッグに似ている手提げ鞄だった。主人が買い物に使う物だ。入ってみると、成人の猫ならいざ知らず、まだ子猫である吾輩にはかなり余裕がある。不安になって見上げると、大きな乳房がこう言った。


「よし、じゃあ、ネコちゃん。お出かけしよっか」


 これには目を丸くした。箱の中身の話はどこに行ったのか。ここに来て、吾輩はついに、主人の飽き性を若年性健忘症ではないかと思うに至った。逃げようと藻掻くが、自重で鞄は左右からぴったりと吾輩を押さえる。無論、突破しようと思えば出来たが、続く主人の言葉に惹かれてしまった。


「町に行くよ、町!」

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