56年

佐倉真実

56年






 私は病気にかかっている。


 先生が言うにはそれは心因性のもので、1週間前からこの病院で入院生活が始まった。


 テレビとか、ラジオとか、そういうものは心に余計な負荷をかけてしまうから、この建物の中では禁止されている。


「……ねえ先生」

「なんですか?」

「なんだか昨日よりも疲れてない?」

「そうですか? そんなことないですよ」

「あ、わかった! 遅くまでラジオを聞いてたんでしょう? 水泳は日本が勝った?」

「いえ、たしか……アメリカが勝ったと思いますよ」

「ええ、そうなんだぁ」


 先生は、どこか疲れた様子で髪の毛をくしゃりとかきながら、そう答えた。


 今、世界中の人がテレビやラジオにかじりついてオリンピックを観ているというのに、私はそれを観戦することすら許されないらしい。


 病気なので仕方がない。ちょっと、残念だけど。観なかったからって死ぬわけじゃないし。


「じゃあ先生、今日もお願いします」

「はい、こちらへどうぞ」


 そう言って通された診察室には、いつものように丸い椅子が2つ。


 それから、椅子の上にハサミが1つ置かれている。


 私はハサミがない方の椅子に腰を下ろした。


「ふふ、変なの」

「どうしたんですか?」

「だって、お医者さんに髪の毛を切ってもらうなんて。病院じゃなくて、美容院に来たみたい」

「私も他の人の髪の毛は切ったことがないので、変な感じがしますね」


 先生はそう言いながら、慣れた手つきで私の髪の毛をバッサリと切り落とした。


「先生、私の病気はいつになったら治りますか」

「そうですね……入院自体は3週間もかからないと思いますよ」

「そうしたら、この髪の毛も伸びなくなる?」


 私は、切り落とされた自分の髪の毛に視線をおくる。


 たぶん、1メートルくらい。もしかしたら、それ以上の長さがある。


 先生はそれをこぼさないよう大きな紙で丁寧に包んで、テーブルの上に置いた。


「そうですね、伸びなくなると思いますよ」

「よかった! それにしても変わった病気よね、毎日1メートルも髪の毛が伸びちゃうなんて」

「……ええ、私も初めて見ましたね」


 優しく微笑む先生に、私もにっこりと笑顔を返した。


「じゃあ、問診をしましょうか」

「はぁい」


 髪の毛を切ったハサミを片づけると、先生は私の向かいにある丸い椅子に腰かけてこちらを向いた。


「あなたのお名前は?」

「——です」

「今日は何年何月何日ですか?」

「今日は……」


 先生は、この質問をするとき、いつも少しだけ緊張した面持ちで私を見る。


 だから私もきっちりと背筋を伸ばして答えた。


「今日は、1964年10月17日です」


 私の答えを聞いて、先生は満足そうに笑った。




◆◆◆




「え、僕がですか?」

「ああ、私は初日からあまりにも容姿が変わりすぎてしまったからな、担当の医師が体調を崩してしまったとでも言ってくれ」

「はぁ……」


 院長先生に連れて行かれたのは、施設の一番奥にある部屋だった。


 何年も昔からある女性が入院していて、院長先生と数名の担当医以外は近寄ることすら禁止されている場所だ。


「でも僕、患者さんのこと何も知らないんですよね」

「そうだろうな。そして、これから知ることを口外することも決して許されない」

「それに僕、心療内科じゃないんですけど」

「……ここの患者が心療内科の患者だと、誰から聞いたんだね?」


 いつもの穏やかな雰囲気からは想像もできない、院長先生の鋭い視線が突き刺さった。


「あ、いや、風の噂というか、その」

「……まあいい。確かに心療内科の患者という扱いにはなっているが、問診に関しては専門医が見る必要はない」

「はぁ……そうなんですか」


 よくわからないな、と思っていると、先生から無言でカルテを渡される。


「見ていいんですか」

「そうでなければ渡さないだろう」

「はぁ……」


 手渡されたカルテを開いた。


 患者:——

 1940年生まれ

 入院開始日1964年10月10日



「え、入院歴、56年?」

「……」

「心療内科ですよね? 何の病気なんですか?」


 カルテから視線を上げて院長先生の方を見ると、白衣のポケットからハサミを取り出して僕の方へと差し出していた。


「え、っと……これは?」

「彼女は病気ではない。国が行っている不老不死の実験体の1つ、番号0045だ」

「ふ、不老不死、ですか」

「まあ、ほとんど失敗作だが、捨てるわけにもいかないのでここで管理している」

「ちょ、ちょっと待ってください、意味が——」

「彼女は4年に一度しか目を覚まさない。だが、彼女にはその自覚がない」


 カルテを持っているのと逆の手を、先生に掴まれ、そこにしっかりとハサミを握らされた。


「見た目は20代の女性だが、臓器や骨は80歳のおばあさんだ。しかし、それも彼女にはもちろん自覚がない」

「……それって、つまり」

「彼女は、1日で大量に髪の毛が伸びる謎の奇病にかかっていると思っている。彼女の中ではおそらく今日は、1964年の10月23日ということになっているだろう」

「……あの、僕、これは」

「君には——」


 ハサミを持たされた手を、院長先生が強く握りしめる。


「期待しているんだ。娘も、君のことを気に入っている」

「……」

「何、簡単だよ。4年に一度、同じ髪型でこの部屋を訪ねてくれればいい。彼女の髪を切り、規定通りの問診を行うだけだ」

「あの、でも」

「ああ、それから」


 院長先生の手が離される。

 僕は、ハサミを持つ自分の手をじっとりと見つめた。


「彼女は毎回、東京オリンピックの話を聞いてくる。2020ではなく、1964年の方だ。念のため、前日の試合結果くらいは調べておいた方がいいだろうな」


 院長先生は、それ以上何も言わず、けれど決して僕から視線を逸らさずにそこに立っていた。


 ごくり、と唾を飲む。


「……わかり、ました」


 満足げに笑う院長先生の顔が、視界の端に映った気がした。




◆◆◆




「あれ? いつもの先生は?」

「あー……先生はちょっと体調を崩してしまって、き、今日は僕が担当することになったんだ、よろしくね」

「ふうん。残念。私、あの子お気に入りだったのに」


 彼女の髪の毛を切り落として、僕は曖昧に笑った。





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