第22話 『母と子』

 威吹山山麓、暗く深い洞窟の中。

 首根っこを掴んでいた手を離すと、空は力なく地面に落ちた。

 小さな痛みに顔を歪めるでも、興奮して何か強く言い始める訳でもなく。


『つまんねぇな、壊れちまったかぁ? 餓鬼一匹攫って来たのは不正解だったかぁ』


 わざとらしく項垂れ、溜息を吐く妖憑。

 傍らの岩に腰を下ろし、やれやれ、と首を振る。


「お、かあ、さ……」


 辛うじて絞り出した声。

 細く開かれた目元は雫を溜めているが、それで表情が崩れているということもない。

 ただ一滴、頬を伝って零れ落ちた。


『お母さんだぁ? どこのどいつだよ——って、なるほどなぁ。餓鬼、お前は第一監視所の妖だったのかぁ。悪かったなぁ、全部殺っちまってよぉ』


「ぁ……あ……」


『あー駄目だ、やっぱ壊れちまってんなぁ』


 そう言ってまた、わざとらしく溜息を吐く。

 そんな時だった。


「そ、空……空なの……?」


 か細く、消え入るような声が聞こえた。

 自身の名前を呼ぶその声に、空は途切れかけていた意識を繋ぐ。


「だ、だれ……?」


「やっぱり空……良かった、生きていたのね……」


 起き上がり、声の聞こえる方へと歩く。

 洞窟の、更に奥の方——そこに、縄に繋がれたトコの姿があった。


「お、お母さん…!」


 その姿が見えるや否や、空は居ても立っても居られず走り出す。

 小石に躓いてこけてしまうけれど、何とかその顔が見えるところまで辿り着いた。

 怪我はないように見える。


『あ? その女、餓鬼の母親だったのかよぉ?』


 妖憑は、何のこともないように言う。

 誰が誰と繋がっていようが知ったことではない。

 妖憑がトコを攫っていたのは、空を攫ったのと同じ目的。ただ空に関しては、監視所をわざわざ出て来ることは予想していなかった。

 トコを攫い、美弥にそのことを伝えるよう暗示をかけた時点で、事は成った筈だった。

 その美弥が、戦場より戻った負傷者など見慣れているであろう筈の美弥が、予想以上に壊れてしまい、トコの名前を出していないことが災いした。

 監視の意味も無くなってしまった。直接出向くか——と考えていたそんなところに、漢那と揃って気持ちを切り替えようと外を歩いているときた。

 自らが襲った監視所から出て来た両名が、そこを目的地としていたユウと接点を持っていない筈がない。

 単純に、好都合だったのだ。


「私がいるでしょう…! 空を解放しなさい…!」


『そいつぁ出来ねぇ話だなぁ。あの癒術師の女が壊れちまった以上、その餓鬼があのニンゲンをおびき寄せるいい餌なんだよ』


「ニンゲン——ユウに何をするつもり……? 彼に何の用があるって言うの…!?」


『んなもん簡単な話だ。が、別に答える気もねぇ。いいから黙って待ってろよ。あいつは必ず来るからよぉ』


「貴様……一体、何がしたいの!? 妖魔なら、私たち妖を殺すのが目的でしょう!?」


『おいおい、そりゃあ妖魔なら、の話だろぉ? 俺は妖憑だっつってんだろうがよぉ。俺は自分の意思として、あのニンゲンと殺り合いたいんだわ』


 妖憑は、ニヤリ、といやらしい笑みを浮かべ、天井を仰いだ。


『あいつ強ぇんだわ。ニンゲンのくせに、訳分かんねぇ妖気を発しててよぉ。アレ全部解き放ってくれりゃあどんだけ楽しく殺し合えるかって考えたらよぉ……ぁぁぁあ、そんだけで飛びそうになるんだわぁ』


 恍惚の表情を浮かべ、ゾクゾクと震えるように身悶えるその様子に、トコと空は恐怖とは別の心地悪さを覚えた。


『もうちっと我慢するつもりだったんだけどよぉ、好きなもんは残しておくほど後悔するだろぉ? だからもう今のうちにつまみ食いでもしようって決めたんだわぁ。そん為の餌が、お前らってなぁ』


「外道が……」


『——って、思ったんだけどなぁ。餓鬼は壊れちまったし、女も無駄に強気と来た。あいつが来るの待ってんのも飽きて来たところだぁ……どっちか殺してもいいかぁ?』


 ギロリ、と鋭い視線が刺さる。

 それだけのことで身体は強張り、動けなくなってしまった。


「き、貴様——空、早く逃げなさい…! どうにかしてここを出るのよ…!」


「お、おかあさん……」


「いいから動きなさい…! 私は大丈夫だから、早く…!」


『行かせると思うかぁ?』


 声がしたのは、二人のすぐ傍ら。

 数十歩分はあった筈の距離が、一瞬で詰められていた。


「ひっ……こ、子どもに手を出したら許さないわよ…!」


 何とか強気に睨みつけるも、それに覇気がないことは明白。

 今の動きだけで、逃げるなどという考えは叶わないことを理解してしまった。

 それでも何とか時間を稼いで、何か、誰か事態を変えてくれるのを祈る。


『——って魂胆も見え見えだからよぉ、とりあえずお前から殺るわって思ったが……やっぱそうなったら餓鬼からだよなぁ?』


「ひっ…!」


 吐息の分かる程すぐ近くまで顔を寄せて、低く響く声で妖憑が言う。


「やめなさい…! 私から、私からよ…! 子どもには手を出さないで…!」


『五月蠅ぇなぁ。ぶっ壊れちまった女一匹いりゃあ、あいつはまぁ来るだろうからよぉ。じゃあな、餓鬼』


 振り下ろされる拳。


「やめっ…!」


 思わず目を瞑るトコ。


「うわぁぁあ…!」


 愛する我が子の悲鳴が木霊する。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 その息が、途絶えることがない。

 …………死んでいない?

 トコは恐る恐る目を開け、そちらを見やる。


「お、お前……何で……」


 ポツリと、空が呟いた。

 そこには——

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る