第3話 『感傷に浸る間もなく』

 露天大浴場——今は、咲夜だけが入浴に使える時間だ。


 朝一番の湯浴みは、脳を動かし、筋肉をいい具合に解きほぐすからと、咲夜が日課として続けていることである。

 傍付きにも、湯浴みの手伝いはさせていない。好きなだけ時間をかけ、後から隊へ下す指令や国政について考える為だ。

 何か火急の用向きがある時にはその限りではないが、今日は敢えてなのだろう。

 並々ならぬ状況であるからこそ、湯浴みにて思考をただ一点に絞る。

 だから今日は、


「この声……師匠も一緒なのか」


 廊下に漏れ聞こえる声は、咲夜ともう一人。

 師匠というのは、城主である咲夜が唯一『親友』だと呼ぶ相手、菊理くくり

 文武共に秀でているという実力だけでなく、元々二人は幼少の頃からの仲。誰より互いを理解していて、気の置けない相手である。

 今でこそ咲夜は城で国政ばかりを、菊理はその補佐を務める役職に就いているが、二人はその昔、共に最前線で戦っていたという話だ。

 ユウはその雄姿を知らないが。


 そんな二者が一緒の時間を過ごしているということは、それだけ事態は芳しくないということだ。

 しかし、緊急事態、そして偶然のこととは言え——


「淑女の湯浴みを覗き見るとは、聊か獣のような趣味だとは思わんか、ユウ?」


 背後からの声に、ユウは大して驚くことはなく振り向いた。


「どうせ僕の気配にだっていち早く気付いていたくせに、背後に『朧駆おぼろがけ』する方が悪趣味だとは思いませんかね、師匠?」


「ほう、真剣による打ち込み一万回、久方ぶりに体験してみようと所望か?」


「それ、僕でなきゃ普通に体罰ですからね」


「無論、貴様だけの特別項目だ」


「またご冗談を」


 溜息交じりに肩を落としたところで、その脇からもう一つ、見慣れた影が顔を出した。


「お久しぶりです、ユウ。この間は山奥までの使い、ご苦労様でした」


 丁寧に頭を下げてそう話すこの女性こそ、ここ『桜花』の国主であり城主の咲夜だ。

 真っ白い大きな狐の耳と九つの尾、それには不釣り合いにも見える黒の長髪が目を引く。

 まだ濡れたままの艶やかな髪も美しい。


「畏れ多いお言葉です、咲夜様。この命は、御身のために——」


「似合わない言葉遣いですよ、ユウ。いつもの通りで構いません」


 話しながら跪こうとするユウのことを咲夜が止める。


「……なら、いつも通りに」


 これは、ユウが特別という訳ではない。

 咲夜は昔から、なるべく誰とでも横並びの関係でいたいと口にしていた。国政をするのは咲夜、そして菊理ではあるが、それは臣民が有ればこそ。誰一人として不要な存在はおらず、誰一人として優越を付けるものではない。それが咲夜の考え方なのだ。


「また少し、身長が伸びたのではありませんか?」


「え、そうですかね? これ以上伸びるのもあんまり……小柄な者も多い国ですから、背が高すぎるというもの考えものなんですよね」


「そうでしょうか? ……そうですね。これ以上伸びてしまうと、私の隣に立った時、私がいっそう小柄に見えてしまいますから」


「別にそれはそれで、民たちは——」


「コホン。悪いが咲夜、考えが纏まったのなら、早急に要件を伝えた方が良いのではないか」


 わざとらしい咳払いとともに、菊理が場の空気を一変させる。

 その場その場で優先すべきことを考えられる菊理がいるというのは、会話や空気感に流されてしまう二人にとっては、この上なく有難い舵取り役だ。


「そうでした。先刻、美桜さんから聞きました、と言うか、この目で被害状況を見て来ました。あれは——」


『話が早くて助かる、小僧』


 咲夜の更に背後から顔を出して来たのは、純白の毛並みが美しい、妖狼の中でもかなり大柄なハクだ。

 その体躯に似合わず、足音もなくゆらりと滑らかに歩く姿は、ひとたび城下を歩けば、振り返らない者はいない。


「お疲れ様です、ハク様。話が早い、ということはやはり、僕を呼びつけたのは、副長相当の者が何人もやられた件についてですよね」


『ああ。二人も湯浴みを終えたなら、委細は謁見の間で話そう』

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