第9話 〝なかよし〟

 スペルトリガーとしての秘密を打ち明けたヴィタは、雨に身体を冷やしながら彼女からの言葉を持った。

 もう、この言葉を本人に宣告してしまった以上、彼女との関係はここで終わりなのだ。

 何も言わずに、彼女の異質に気づかないふりをして、このまま──あたたかな気持ちだけを感じて──まどろむような居心地の良い彼女との二人の時間を──やわらかく優しい言葉だけを交わし合えたらと思った。刹那だけ、そんな未来を願った。


 けれどヴィタはスペルトリガーとして生きることを誓ってしまったから。過去の夢を見るたびに、絶対的な存在に使命を突きつけられて、夢から覚めて彼女を見るたびに、罪悪感を感じて──板挟みになって、辛いから。


 冷たい雨のせいかカタカタと震え始めた自分の手をもう片方の手で無理矢理抑え込んで、ヴィタはメリアリーヌの出方をただ、じっと待った。危険因子を見つけた時の始末の手順は、幼い頃から教えられていた。杖の先端が尖っているのは、〈スペル〉を綴るためだけではないのだ。


 ヴィタは、この時、本気で彼女を始末する気はなかった。けれど、彼女が今ここで自分は違うと──自分は大特異点ではないと否定してくれることを祈っていた。好奇心なんてないと、知識なんて欲していないとさえ言ってくれれば、いくつかの厳しい条件をつけて彼女を見逃せるのではないかと、儚い希望を抱いていたのだ。


(自由を愛するこの娘を縛りたくはない。けど、始末なんて──もっとしたくない。そのためには脅すような形になるけれど、恐怖を以って彼女を従えなくては)


 覚悟を決めて、威圧するように杖の鋭利な先端をメリアリーヌに突きつける。彼女を守るための最低限の行為。本当に傷つけるつもりはない。そう、言い訳をしてみてもやっぱり──


(それでもこんなに、嫌な気持ちになるのか。人に鋭いものを向けるということは──)


 本気でなくても、彼女に尖った杖を、鋭い言葉を向けるのは、それだけで吐き気がするくらい胸が悪くなる行為だった。

 嫌悪感と恐怖と、幾度も夢の中から囁かれる、忘れてはならない使命と過去──荒い呼吸を繰り返すヴィタに、メリアリーヌはゆっくりと瞬きをすると、そっと、その滑らかな指でヴィタが持つ木の杖の先端をなぞった。

 予想外の行動に思わずびくりと震えてしまってから、ヴィタはそれでも毅然と、なるべく威厳のある〝魔法使い〟に見えるように胸を張って言い放った。


「この世界で人間がもう一度生きていくためには〝魔法使い〟と交わした契約を守らなきゃいけない。全ての人間が、だ。けどきみは、契約の中に収まりきれていない」


「そうなのね」


「ぼくは魔法使いだからきみを呪うこともできるし、傷つけることもできるんだ。この杖で」


 だから言うことを聞いて欲しいと。

 どうか〝普通〟を装ってその心を隠して欲しいと。

 言葉を続けようとしたヴィタの耳に、するりと静かな声が届いた。


「できないわよ。あなたには」


 思わず声を失ったヴィタに、メリアリーヌは笑顔を浮かべると、もう一度「ヴィーにはできないわ」と穏やかに繰り返した。

 それからメリアリーヌは洞の中から雨の下に出てくると、まるでヴィタから向けられる鋭利なものなど気にしていないように、大きく伸びをして、空へ向かって両の腕を広げた。

 まるで世界ごと抱きしめるように、全身に雨を受け止めて。気持ちよさそうに、嬉しそうに。杖の先端を突きつけるヴィタに背中さえ向ける無防備さで。


「なんで……」


 思わず杖を取り落としたヴィタの囁くような声に、メリアリーヌはようやく振り返ると、雨に濡れた顔にゆっくりと笑みを浮かべた。


「だって」


 やわらかに応えて、メリアリーヌの両の手が、ヴィタの冷えた右手を躊躇わずに包み込んだ。


「ヴィタという名前にはそんなことが出来ちゃう悲しい意味も込められていたのかもしれないけど。今わたしの前にいるのは〝ヴィー〟なのよ?」


 さぁっ──と。春風が吹き来て、二人を打ちつける雨粒を束の間、取り去っていった。

 瞬き程の刹那の中、メリアリーヌは全くヴィタを恐れてなどいない、あの、あどけない微笑みを浮かべてみせた。


「ヴィーという名前には優しくてステキな人という意味を込めたんだから。あなたはそんなことはしないわ。──そうでしょう?」


「──そんな」


 そんなことは、確かに、決してしない。彼女をこの手で始末するだなんて。例えスペルトリガーである自分がそのせいで──罰されても。

 けれど彼女があまりにもまっすぐに、欠片も疑わずに、恐れも怒りもせずに、笑顔でヴィタを信じるから。

 なんだかまた感情がぐしゃぐしゃになったような感覚を覚えて、ヴィタは慌てて手のひらで顔を覆った。


「そんな屁理屈……そんなのはただの希望的観測じゃないか」


「──え? ごめんなさい、どういう意味?」


「ああ、だから……っ!」


 苛立ちにも似た感情に地団駄を踏みたくなりながら、ヴィタは右手を包み込んでいるメリアリーヌの手を荒っぽく左手で掴み返した。


「ぼくのことなんて、きみはまだ何も知らないだろう。ぼくはきみのように綺麗には生きてこなかったし、きみのように愛されてもいなければ、今してみせたみたいに──人を害する方法だって習ってきているんだ。それがぼくという存在なんだ。人間が厭うスペルトリガーという存在なんだ。それを、どうして、当たり前みたいに、まるで最初から知ってるみたいに、断言できるんだ。どうしてこんなぼくを、信じられるんだ…………」


 尻すぼみになってしまったヴィタの言葉に、メリアリーヌはしばらく何も言葉を返さなかったが、やがて困ったように小さく微笑んだ。


「……たぶん、きっと、わたし、あなたの言う通りの人なんだわ。普通じゃないの。わたし、おかしいって確かによく言われているもの」


「──誰に」


「お父様やお母様や。お姉様達にも、メイド達にも言われるわね」


 静かな言葉に、思わずそんなことはない、と否定したくなったが、ヴィタは結局何も言わずに口を閉ざした。雨に打たれる彼女の横顔は、いつもの無邪気な子供っぽさの一切を失って、年相応の美しさと切なさを宿して見えたからだ。


「お姉様達はすごいのよ。一番上のマリアお姉さまは素敵なお義兄様と結婚されたし、ミレーヌお姉様は頭がとっても良くて、学院を首席で卒業なさったの! けど、わたしは……」


 へらりと笑って、メリアリーヌは一歩だけヴィタから後ずさった。


「お勉強は苦手だし、決められた通りにダンスを踊るのも苦手。おしとやかに礼儀正しくっていつも言われるけど、レディらしい振る舞いって堅苦しくて大嫌い。全然、お父様やお母様の期待通りには動けないのよね。──〝普通〟に、できないの。自由にしか動けないの。ダメなのよね、何かの型通りにするのが、昔から…………できないの」


 ヴィタがハッとして顔を上げると、メリアリーヌはいっそ清々しいくらいの笑顔で首を傾げていた。

 だからあの時、〝普通〟を語り聞かせたヴィタの前で、彼女は静かに目を伏せたのだ。あの時彼女は怒っていたのではなくて──ただただ、悲しんでいたのだ。


(屋敷から抜け出してばかりの自由奔放なお嬢様だって、ずっと思ってた。けど、それじゃあこの娘は──居場所がなくて、逃げ場所を求めて、いつもここに来ていたのか……)


 ちくりと罪悪感に襲われたヴィタの前で、メリアリーヌは痛みを笑顔で隠したまま言葉を続けた。


「我慢して周りに合わせればいいだけなのに、それができないわたしはやっぱり馬鹿なんだわ。変わり者で役立たず。期待外れのメリアリーヌってよく言われるもの」


「そんなこと!」


 ついに思わず否定をしてしまったヴィタの耳を、くすくすと小さな笑い声が打った。

 顔を上げると、メリアリーヌが可笑しそうに肩を揺らして笑っていた。


「ほらね」


「……え?」


「ヴィーは優しい。そんな優しい人が、どんなにわたしがダメな子でも、わたしを傷つけたりできないわよ」


 思わず息を呑んだヴィタの指に、メリアリーヌの細い指が絡む。雨に打たれた互いの手は、すっかり濡れていたけれど、確かにあたたかな熱を宿していた。


「あなたの手は、優しい魔法を綴るためにあるんでしょう」


「……きみを傷つけるような、恐ろしい魔法だって知ってるんだよ、ぼくは。幸せな魔法を使うためには、恐ろしい魔法も知らないといけないから」


「そうなの? でも、あなたはその恐ろしい魔法を使わないでしょう? いつもわたしを思って、怖がらせて家に帰そうとしてくれていた、あなたなら」


「……気づいて…………いたのか?」


 何も考えていないのではと思える程、いつも元気いっぱい、笑顔いっぱいな彼女だったから、ヴィタは失礼だとは思いつつも、問い返さずにはいられなかった。けれどメリアリーヌはやっぱり不快に思った風もなく、笑顔で頷いて、自分の顔を人差し指で指し示した。


「わたし、こう見えてたくさん、影で色々なことを言われてきてるから。人の心を感じるのは得意な方なのよ。……あなただけだわ、わたしの存在が面倒だからって追い払うんじゃなくて、わたしのことを思って、優しさから遠ざけようとしてくれた人は」


 翳りのない笑顔のままそんなことを言うメリアリーヌが──笑顔でいられるくらい心を殺してきたのであろう彼女が、あまりにも切なくて、悲しくて、それ以上に抱きしめたくなって。ヴィタはただ、彼女と繋がる手にぎゅっと力を込めた。


(この笑顔は、彼女自身を守る仮面なんだ。悲しみを殺して、その心を守るために彼女が作り出した仮面。……この少女が世界の大特異点? ──だったら、何だと言うんだ)


 たくさんの人に愛され、全てに恵まれ、あたたかな環境で育ったお嬢様とばかり思っていた少女は、一番近しい人にさえも心を明かせないような、居場所を持たない少女だった。

 それを、ヴィタはいつも笑顔だからというそれだけの理由で、生い立ちも感情も、何もかもを勝手に決めつけて──あまつさえ、自分自身が使命を遂行することから逃げたいがために、彼女が嫌う〝普通〟を押し付け、鋭い杖を、言葉を向けてしまったのだ。

 そう思うと恥ずかしいやら申し訳ないやらで、自分がどこまでも情けなくなって、ヴィタは顔が上げられなくなってしまった。


「ねぇ、ヴィー?」


 そんなヴィタの顔を、すっかり雨で濡れそぼった彼女の顔が下から覗き込んできた。


「だいとくいてん……? だっけ? わたしは、このまま生きているとよくないのかしら。わたし、ヴィーを困らせちゃうの?」


「それは、…………」


 怯んだヴィタに一つ頷いて、メリアリーヌはにこりと笑うと、繋いでいた手を一度離して──それから右手をもう一度ヴィタに向かって差し出してきた。


「……これは、なに? メリアリーヌ」


「あのね、わたし、知らないことがとっても気になるの。あなたの言う通りだわ。魔法が気になる。魔法使いのことが気になる。──あなたのことが気になって仕方がないの」


 思わずどきりとしてしまう程まっすぐな言葉でそう言って、「だからね」と彼女は綺麗に笑った。


「わたしが世界にとって危険にならなくて済むように、ヴィー。あなたが色々とわたしに一から教えてくれない?」


「……は?」


「魔法のこととか、魔法使いのこととか! 知らないことだから気になって、たくさん知りたくなってしまうんだもの! ちゃんと教えてもらえれば、わたしのこのうずうずも、わくわくも、きっと収まると思うのよ!」


 彼女の勢いに圧されて、雨を吸ってすっかり重くなったフードが頭からずり落ちる。言っていることはめちゃくちゃなようで、案外一理ある──なんとも妙な説得力のある主張だった。


「だからヴィー。わたしに魔法のこと、教えてくれない? わたしが迷惑をかけなくて済むように、危険じゃなくなるように、ヴィーがわたしに正しい魔法を教えてくれないかしら」


「それは…………、ぼくの、弟子になるって、こと……?」


 魔法を教える。

 それはつまり文字を教えるということで──言うなれば世界の真理を教えるということだ。

 一度触れれば、ただの人間にはもう戻れない。〈スペル〉を知ればスペルトリガーにならざるを得ないのだ。

 けれど、〝大特異点〟として、まだ犯してもいない罪のために彼女が他の同業者に殺されてしまうかもしれないと考えたら──もう、それしか彼女を救う道はないような気もしていた。


(変だな。〝大特異点〟は危険因子。危険因子は先んじて始末するもの。そう教わってきたし、それをおかしいと思ったこともなかったのに──こんなに彼女を救うために悪あがきをするぼくがいたなんて)


 自身の内側に芽生えた不思議な感情に首を傾げていたヴィタの目の前で、メリアリーヌもまた、彼と同じようにきょとんと首を傾げた。


「でし、って、なに?」


「あ? ……ああ、そうか。弟子…………弟子というのは、何て言えばいいんだろうな。つまりぼくが先生になって……あ、先生はわかるのかな……」


 スペルトリガー以外の、言葉に乏しい普通の人間と、仕事関係以外で話すことはほとんどない。会話慣れしていないヴィタは、言葉を持ちすぎて逆に混乱をし始めていた。文字や言葉を数多く知っていても、気持ちを正しく伝えられないことがあるとは、初めて知ることだった。

 どう言えば彼女に伝えられるだろうかと、簡単な単語をいくつか頭に思い浮かべていたヴィタに、メリアリーヌはぽんっと手を打つと、人差し指を一本、ぴんと立ててみせた。


「つまり、わたしとヴィーがもっと仲良しになるってことで、いいのかしら?」


「な…………、なかよしぃ?」


 突拍子もない単語に思わず素っ頓狂な声が出て。

 それからヴィタは思いっきり声を立てて笑ってしまった。スペルトリガーでないメリアリーヌは、知識量ではヴィタに勝てっこないはずなのに、まさか、ヴィタが考えつかなかった言葉をこんなにあっさりと引き出してしまうなんて。


「な、なに? そんなにわたし、変なこと言った⁉︎」


「あははっ…………いや、ううん。きみはいいセンスを持っていると思うよ。流石は大特異点。いや──魔法使いの弟子」


 差し出されたままになっていたメリアリーヌの右手を、ヴィタの右手がしっかりと掴んだ。


「ぼくがこの地にいる限り、他のスペルトリガーがここへ来ることはまずないと思うけど……それでもきみが〈スペル〉を理解するのは、早ければ早い方がいい。正しく〈スペル〉が扱えるようになれば、例え大特異点であっても、危険因子ではないと言い張れる──はずだ」


 それは賭けというよりも希望や祈りに近い考えだった。

 それでもヴィタはこのあどけない笑顔を──その笑顔の裏に隠された、悲しみに耐える心を守るために、自分にできる精一杯の〝魔法〟を施したいと思ったのだった。


「時間がない分スパルタ授業になると思うし、少しでも〈スペル〉の知識を齧ったら、途中で放り出すことは許されない。それでも最後まで頑張れるかな。お勉強が苦手なメリアリーヌ嬢?」


「メリィって呼んで。親しい人はみんなそう呼ぶの。あと、仲良しとお話するのは楽しいことだから、わたしにもきっと出来るはずだわ!」


 顔を見合わせ、笑い合って。

 杖も、傘も、何もかもを放り出して。二人は春の雨の中、ずぶ濡れになりながら、笑顔で握手を交わし合っていた。


 雨は、もう、間もなく上がる頃だった。

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