第3話 魔法の種類

 明くる日。

 少年がまた額に汗を浮かべながら地面に〈スペル〉を刻んでいると、がさがさっ! と横手の茂みが大きく鳴った。野ウサギか何かかと思って目をやると、飛び出てきたのは金髪碧眼の女の子だった。


「回り道をしたら、昨日よりは安全に降りて来られる場所を見つけたのよ!」


 大発見だわ! と笑う彼女に、少年は呆気に取られながらもフードの下でくつくつと喉を鳴らして笑った。まさか、本当に、それもたったの一日しか経っていないのに「またね」を実行するとは。しかも彼女の方からこの地へやってくるとは、思ってもみなかったのだ。

 今日のメリアリーヌは、春の空と同じ、真っ青なドレスを身に纏っていた。相変わらず宝石のアクセサリーよりもたくさんの木の葉と泥汚れの装飾を付けていたが。


「物好きな女の子だな、きみも。そんなにボロボロになってまでここに来る理由なんてないだろうに。それに、来るならもう少し動きやすい服を来てくればよかったんじゃないかな」


「わたしの持ってる服の中では、これが一番動きやすいのよ。他のはフリルが重くて走ったり跳んだりできないの」


(そりゃ、貴族の服はじゃじゃ馬姫向きの仕様にはなってないだろうなあ)


 という感想はなんとか胸の内に抑え込んで、少年は、何故か自信たっぷりに胸を反らしているメリアリーヌへと目をやった。


「森林浴が好きなら、メイドと安全な道を優雅に歩けばいいじゃないか。貴族様はそうやって付き人と一緒に歩くんだろう?」


 言ってから、少年は少し嫌味っぽかっただろうかと、慌てて口をつぐんだ。どうも、久しぶりに誰かと〝仕事〟以外の話をするから、人との距離感というものがわからなくなってしまったのだ。

 けれど彼女はきょとんとするばかりで、少年の言葉を不快には思っていないようだった。まったく何も気にしていない様子で「なに言ってるの」と微笑むと、きっぱりとした口調で言い切った。


「森林浴が目的でこんなところに来るわけないじゃない。あなたに会いたいから、こっそり遊びに来たに決まってるでしょ」


「…………」


 思わず息を詰めた少年の気も知らず、メリアリーヌはとてとてと無造作に近寄ってくると、少年が刻んだばかりの〈スペル〉と、それらが形作る陣を凝視してぱぁっと目を輝かせた。


「これが魔法……これが〈スペル〉! すごいわ……。ねぇ、触ってみてもいい?」


「………………。触るとお腹を壊すよ」


「そうなの? どのくらい? 一晩寝たら治るくらいなら、我慢するから触ってみたいわ」


 その場に屈み、うずうずと触りたくて堪らなさそうにしている彼女に、少年はもう一度何かを言いかけようとして──結局フードを目深に被り直すことしか出来なかった。


「──冗談だよ。……触ってもいい。けど、消さないようにしてくれよ。一応ぼくも〝仕事〟中なんだ。こちらの邪魔だけはしないように」


 少年の少しぎこちなく硬い声に、メリアリーヌはやっぱり気にした風もなく「はーい」と明るく答えると、そぅっと、地面に刻まれた〈スペル〉の、掘り起こされた土の内側に人差し指で触れていた。


(……変な女の子だな。〈スペル〉に好んで触れたがるなんて)


 普通、人間は〈スペル〉に好んで触れたがらない。不用意に触れると指が焼け爛れたり、気を錯乱させたり、人体に害があると思われているからだ。それが、一般的な価値観。〈スペル〉がそれだけ、人間にとって畏れと恐れの対象であるということだ。

 それは、未知のものに対する正しい認識。

〝そうあるべくして〟〝そう認識されている〟こと。その価値観こそが世界の〝正しさ〟。


 それなのに、この少女はどうだろう。恐怖を抱くどころか、自らの意思で、それも素手で〈スペル〉に触れ、あろうことか無邪気に喜んでさえいる。

 ドレスを泥だらけにしても気に留めていないところだとか、裕福で何不自由ない暮らしをしているはずの屋敷からわざわざ外の世界へ飛び出すあたり、彼女は生来の変わり者なのだろうと予測はできる。


 けれど。


(……イレギュラー……〝世界の大特異点〟。まさか、この女の子が…………)


 目深に被ったフードの下、少年は鬱々とした気持ちで自身の〝仕事〟と彼女の〝未来〟を一人考えていた。

 この春風のようにきまぐれで、匂やかで眩しい少女が〝そう〟であるとはとても考えたくないが──


「ねえ」


「──!」


 急に呼びかけられて、少年はびくりと肩を震わせた。振り返ると、あどけない、自分と同じ年頃の少女の無邪気な笑顔がそこにはあった。


「ねえ、この魔法はどういう魔法なの? どうしてあなたは、わたしのお家の周りに魔法陣を作っているの?」


 子犬であれば尻尾がしたぱたと左右に振られているであろう、好奇心旺盛な質問の数々。

 少年は瞬間、感じた罪悪感を息と共に飲み込むと、ゆっくりと微笑みを返した。彼女の笑顔は、不思議だ。触れると、むつかしい考えも何もかも解けて、溶けてしまいそうになる。


「……そうか。──フィオラーレ。どこかで聞いた名前だと思った」


「どういうこと?」


 独り言のようにごちた少年の顔をフードの下から覗き込んで、メリアリーヌが問い返してくる。その近すぎる距離に少年はまたフードを被り直しながらごほんと一つ咳払いをした。


「ぼくに〝仕事〟を依頼したのが、きみのお父さんなんだ。多分ね」


 かつん、と木の杖で乾いた大地を打って、少年は森の木々の向こう、ここからは見えない豪奢な屋敷の屋根を思い返した。


「近頃、隣の領地で流行病が起こっている。フィオラーレ伯爵はそれを屋敷に呼び込みたくなかったんだな。ぼくは彼に厄除けの魔法で屋敷を守ってほしいという依頼を受けたんだ。だからこうして、厄除けっぽい文字〈スペル〉を、それっぽく大地に刻んでいる」


「それっぽい、って…………これ、だから、魔法なんでしょ?」


「いや。ただの英語だ」


「え、えい……?」


 混乱した様子のメリアリーヌに、少年はくっくっと喉を鳴らして笑うと、木の杖の先端で魔法陣の外縁をぐるりとなぞった。


「ここには……そうだな。『病魔が来ませんように』『その他諸々の厄も来ませんように』……みたいな、ただの文章が書いてある」


 そして、円陣の中央、いかにも一番力が込められていそうな部分を示して、少年は少し硬い笑顔で続けた。


「そして、ここには『悪霊退散』と、ただそれだけの文字が書いてあるだけだ」


 努めて笑顔で言ってから。少年は彼女の出方を注意深くフードの下から伺っていた。


(さて、どう出る。〝世界の大特異点〟。きみの出方次第では、ぼくはきみを…………)


 ぐっ、と木の杖を少年が覚悟と共に握りしめたその時。


「……す…………」


 ぷるぷると震えていた少女の唇から、空気が抜ける音がした。


「す?」


 思わず耳を寄せ尋ねると、彼女は俯けていた顔をばっ! と勢いよく上げ、弾けんばかりの大きな声を出した。


「すっ……ごい! すごいわあなた! 本当に魔法〈スペル〉が読めるのね! わぁ……! 魔法にも意味があるなんて! わたし、そんなの初めて知ったわ! すごい! 素敵! 尊敬しちゃった!」


「……ああ、……まあ…………一応、スペルトリガーしてるからね……」


 キラッキラ輝くエメラルドの瞳に、苦笑しつつ少年は思わず肩をがくりと落とした。


(こんな好奇心ばかりで動いているような女の子が〝世界の大特異点〟? 考えすぎだったかな……)


 疲れと安堵の混じった吐息を吐いてから、少年は隣で喜び跳ねている少女に向き直った。


「というか、魔法が読めるんじゃない。文字〈スペル〉はそもそも読むためにある。ぼくは……ぼくらスペルトリガーはそれを知っているだけだ」


「ええっ、じゃあ、じゃあ!」


 ぴょんぴょんと子供のように跳ねながら、メリアリーヌが少年の前に立つ。


「わたしの名前! も! スペルで書けるってこと⁉︎」


「……まあ、そのくらいなら」


 期待に輝きに輝く瞳に苦笑して、少年は手にしていた木の杖の先端で、かりかりと大地の上に〈スペル〉を刻み始めた。

 その様子をまじまじと見つめてくるメリアリーヌの様子がおかしくて、少年は少し〝それっぽく〟見えるよう、わざと筆記体で文字を刻んでやった。

 やがて杖の先端が土から離れた時、メリアリーヌはこくりと唾を飲み込んで、その〈スペル〉をよく観察するために、再びその場にしゃがみ込んだ。


「なんて書いてあるの⁉︎」


「だから、きみの名前だろ。メリアリーヌ・フロラ・フィオラーレ嬢」


 すらりと言ってのけると、メリアリーヌは今度は驚いたように目を瞬かせて、嬉しそうに頬を染めて微笑んだ。


「覚えていてくれたのね、わたしの名前!」


「……春の匂いがする名前だったから」


「それ、前も言ってたわよね。どういう意味?」


 メリアリーヌの問いに少年は逡巡した後、木の杖で綴ったばかりの〈スペル〉を単語ごとに丸で囲んでいった。


「フロラはフローラ……英語で植物のことだ。あ、でもローマの女神がそんな名前だったな。フィオラーレはフィオーレ……ぼくの専門外だけど、別の言語でやっぱり花の意味を持つ言葉だったはずだ。きみの家、家紋はユニコーンなのに花の名前で溢れていて、ちぐはぐで面白いね」


「ちょ、ちょっと待って……途中、ところどころわからない言葉があったんだけど。えい、ご? ろーま? それは魔法の話?」


 混乱してショートをしかけているメリアリーヌを見て、少年は「ああ」と思い出したように両手をぽんと打ち合わせた。


「きみと話してると、どうもきみが使い手ではないことを忘れていけないな。……そうだな。きみたち風に言うと、魔法の種類……といったところかな」


「魔法に種類があるの?」


「あるよ。ぼくの専門は英語とローマ語だけど、スペルトリガーはみんなそれぞれ得意とする言葉を操るんだ。中国語だろ、日本語だろ、インド語とか……まあとにかく、数えればキリがないくらい言語──魔法の種類は多いのさ。流石に一人ですべての〈スペル〉を頭に入れるのは難しいからね。ぼくらはそれぞれ分かれて担っているのさ」


「担っている……、なにを?」


 こんがらがった顔で問うてくるメリアリーヌに、少年は魔法使いらしく黒いローブをばさりと翻し、木の杖を掲げて、力強く微笑んでみせた。


「この、終末世界のスペルトリガーをさ」

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