春待ちの君に
晴方米
第1話 出会い
願わくば、来世は貴方と共に生きたい。
その他は何もいらない。貴方の側にいたい。
ただそれだけ…それだけを私は望んでいます。
春の風が頬を撫でるのどかな日。
「ええ天気やなぁ。鬼さんもお昼寝したくなるような暖かさやなぁ」鹿乃梨鹿子(かのなし かのこ)は屋敷の縁側に座り空を眺めながらぽつりと呟いた。
帝都に壮大な屋敷を構える鹿乃梨家。鹿乃梨家は下御六家という上御三家に次ぐ貴族の家柄であり由緒正しい名家である。
鹿子はそんな鹿乃梨家の現女当主である。
鹿子が当主の仕事の合間に空を眺め息抜きをしていると突如屋敷に大きな声が響いた。
「叔母上さま!」声の主は八歳ぐらいの元気な男の子、鹿子にとっては甥にあたる弥鹿(みろく)であった。
「叔母上さま、凧が松の木に引っかかってしまいました。お助けください…!」男の子はそう言いながら鹿子に近寄ってきた。
「ありゃ、あれほど気をつけなさいと申したではありませんか」鹿子は少し呆れながら男の子の頭を撫でた。
「まったく、大胆なところはお兄様…あなたのお父様譲りですね」と続けながらクスッと笑い腰を上げ、凧をどこの松に引っ掛けたのか尋ねた。
「正面門近くの屋敷の外にまで伸びている松です」弥鹿はそう言うと、鹿子の袖を引っ張り急足で案内した。
松の前に着くと凧はしっかりと引っかかっていた。しかも屋敷の外に伸びた松の部分で塀の近くとはいえ鹿子が取れるものではなかった。
「うちがよじ登るのはおえんしなぁ…誰か呼んで来るしかなさそうですなぁ…」鹿子と弥鹿が屋敷の外の道で悩んでいると、背後から声をかけられた。
「失礼、何かお困りでしょうか…?」鹿子が振り向くとそこには背が高く凛々しいひとりの青年が立っていた。
突然の事に驚き鹿子は青年を見て固まってしまった。青年の澄んだ美しい瞳、黒く艶やかな髪、低くもどこか落ち着く声色…彼の全てに心を奪われていたのだ。
「叔母上さま?」弥鹿の声に我に返り、鹿子は胸のときめきを隠しながら青年にこれまでのことを話した。
「なるほど…凧が…私でよろしければお取りしましょうか?」
「よろしいのですか!!」明るく大きな声で答える弥鹿に鹿子はすかさず止めに入った。
「これ。弥鹿さん、流石に申し訳ないでしょう」
「いえいえ、ここで会ったのも何かの縁。お任せください」
そう言うと青年は軽やかに塀に登り始め、松に絡まっていた凧を取った。
「どうぞ」塀を降りた青年は弥鹿に取った凧を渡した。
「ありがとうございます!」凧を受け取った弥鹿は声を弾ませながらお礼を言った後、嬉しさを抑えきれず庭に向かって走って行った。弥鹿の喜ぶ姿を見て青年は静かにに微笑んでいた。
「甥が大変失礼しました。本当にありがとうございます」鹿子は頭を下げた。
「いえ、大したことではありませんのでお気になさらず」青年はまたも静かに微笑んでいた。
その姿に鹿子は再び胸にときめきを感じた。
「それでは、私はこれにて失礼いたします」青年は軽く一礼しこの場を去ろうとした。
「お待ちくだされ」鹿子は咄嗟に青年の袖を掴み青年の歩みを止めた。
「あの、お名前は何と仰いますか?是非お礼をさせてくださいませ」人としての礼儀を尽くすためはもちろん、青年との繋がりを残したいそんな思いが鹿子にはあった。
「いえ、名乗るほど者ではありません」青年は優しく断ったが、鹿子はここで引き下がる訳にはいかなかった。
「このままでは我が家の面目が立ちませぬ」
その言葉を受け青年は少し考えた後、覚悟を決めたように静かに口を開いた。
「蛇鱗院……蛇鱗院辰巳と申します」
「ありがとうございます…!蛇鱗院辰巳さまですね。お礼は改めてさせていただきます」
鹿子は青年の名前が分かり、繋がりができたことがとても嬉しかった。
「それでは」辰巳は再び一礼してこの場を去った。
去り行く辰巳の姿を見送った後、鹿子は己の名前を伝えることを忘れていたことに気がついた。
「ありゃ…辰巳さまのお名前を聞きながら、自分は名乗らないんて…失礼なことしてしまいました…」
鹿子は己の行動に後悔しながらも、辰巳にまた会えるそれだけで胸が高鳴り頬が赤く染まった。
春待ちの君に 晴方米 @okome-yone29
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