第五章 おしまいの拳銃

第42話 ドベとブービー

 剥き出しになった梁と柱が、四角く太い影を落とす。棚、椅子、台車、ごみ箱、消火器が、その影の中に転がっていた。金属製のものはことごとく錆び、プラスチック製のものはことごとく朽ち、すべてが色を失っている。薄闇の灰色と、窓から差し込む光の白。単調な二色の中央で、深緑色の袂が揺れた。


「この、たわけが」


 コジロウはわずかに腰を落とし、帯の「名刀」を引き抜いた。物干し竿の先が、鶴屋の胸に音もなく向けられる。


「貴様なんぞと一緒にするな。覚悟など、できておらぬわけがなかろうが」

 

 凄むような声に、鶴屋は怯む。思わず俯きそうになるが、堪えた。安堵に浮ついていた頭が、遅れて冷静さを取り戻す。


 失敗した。自分の目的は、コジロウを認めることなのだ。「覚悟できてないですよね」なんて、言っていいはずなかったのに。コジロウがこのビルにいたことと、自分の勝機を見つけたことに安心して、ついつい口が滑ってしまった。


 それでも後悔を悟られないよう、鶴屋は口角を下げた。向き合うコジロウの顔は青白く、薄い唇と端正な眉には力が籠っている。いつになく眼光の鋭い両目は血走っていた。暗い部屋を満たす静寂に、侍の緊張が反響している。


「か……覚悟できてるなら、ここにいる理由がない、と、思って」


 なけなしの勇気を振り絞り、鶴屋は右足を踏み出した。物干し竿の先が、ピクリと小さく跳ねるのを見る。その隙にチラリと視線を下げた。


 コジロウの草履の後ろから、阿潟が鶴屋を見上げている。麻縄で手足を縛られているものの、その双眸にはいつも通りの落ち着いた色が宿っていた。


 鶴屋は両の拳を握る。この状況でも恐怖を見せない阿潟に、改めて尊敬の念を抱いた。と同時に、いつかのホテルで縛り上げた女性たちを思い出す。罪悪感が蘇り、膨らみ、鶴屋の脊椎を撫で上げた。焦燥に突き飛ばされるように、声を続ける。


「覚悟があるなら、総長のところに行けばよかったじゃないですか。こんなところで足踏みしないで、す、すぐに総長に会いに行けばよかった、と、思うんですけど。そうしなかったっていうことは、迷って、くれてたんじゃないんですか」


 気を抜くと攻撃的になる口調を、つっかえながら無理やり丸めた。コジロウを刺激しすぎていないか、この先どうしていけばいいのか。考え始めると脳が熱くなる。


 ここから上手くやれるのか。本当に、解決に導けるのか。少し前に抱いた淡い希望が、不安に浸食されていく。恐怖に引っ張られそうになる意識を、慌てて現実に引き戻す。と、ザリ、と掠れた音がした。草履が半歩、後ずさった音だ。


「迷うものか」


 コジロウは射るように鶴屋を見ている。その表情にも声色にも、揺れはなかった。


「それがしはただおぬしを、欺こうとしたまでのこと。ああなればおぬしは、真っ先に総長へ会いに行くであろう。それがしはそれを予見して、おぬしの後に発とうとしたのよ。おぬしが諦め、惑い、総長の城を無策に飛び出した後にな」


「嘘だ」


 反射的に言い、ハッとする。駄目だ、コジロウを認めなければ。彼の心をほぐさなければ。


「い、いや、その、嘘をつかなくてもいい、んです。だってそうだったら、コジロウさんはもう出発してるはずで……俺は結構、結構っていうか、前に、総長のビルを出てたから……だから、その」


 普段より思考は動いているはずなのに、言葉が出てこない。それがもどかしくてたまらず、焦りに思考を阻害される。


 できない。ただでさえ会話が苦手なのに、人を刺激しない言葉選びなど器用にできるはずもないのだ。言えること、言うべきことはいくつもある。にもかかわらず、肝心の言葉が見つからなかった。コジロウの視線、阿潟の視線が肌に刺さり、皮膚が毛羽立つ感覚に襲われる。


 そうして黙り込む鶴屋の耳に、ふ、と笑いの音が届いた。


「迷うておるのはおぬしではないか」


 唇に皮肉な笑みを浮かべて、コジロウが言う。物干し竿の切っ先がまた動き、鶴屋の胸を捉え直した。


「分かるぞ、言葉を選んでおるのだろう。それがしを哀れみ、それがしを傷つけぬようにと気を回しておるのだな。弱く惨めなコジロウに、情けをかけてやろうというわけだ」


 卑屈さを隠さない声で、侍は鶴屋を責めた。粘ついた響きに、皮膚の毛羽立ちが激しくなる。


 図星、かもしれなかった。実際鶴屋は、コジロウを傷つけない言い回しを必死になって探している。哀れんでいるつもりはなかったが、そうでないとも言いきれなかった。コジロウのほうが、自分よりずっと苦労している。苦労しているのに、強くあろうとしている。そう思うことは、哀れむことと同義だろうか。


 焦りが煮え立つ。とにかく否定しなければ。否定して、コジロウの傷を塞がなければ。


「ち、違います」


「違うものか」


 否定にはすぐさま否定が返された。鶴屋の胸がじくりと痛む。侍の肩が小さく、呼吸に上下し始める。


「ツルヤ、おぬしはそういう男よ。マントルの身を案じても、溝口の語りに心を砕いても、おぬしは歩みを止めなんだ。己が内定を得るために、総長の課題をこなし続けた。そうであろう?」


 縦にも横にも、鶴屋は首を振れなかった。廃ビルに満ちる埃っぽい空気が、喉の粘膜を削るように撫でる。


 今度は正真正銘の、図星だった。


 どれだけ悩んでも、悲しみや不安に駆られても、鶴屋は決してそれを行動に移さなかった。マントルを欺いて青いバラを奪い、ニーナに嘘をつかせて指輪を奪い、遠近を追い詰めて溝口の右目を抉らせた。最後の課題でも、阿潟の安全を確保するために、他の当選者を狙おうとしていた。


「おぬしの悲しみは薄っぺらだ。形だけ他人を慮り、面目のみを取り繕うが、心根ではまるで己のことしか考えておらぬ。のう、それがしに対してもそうなのであろう。それがしを哀れむだけ哀れんで、己の愚かしささえ誤魔化せればそれで良いのよな」


 首の筋肉が強張り、固まり、ほんの少しも動かせなくなる。


 そんなつもりはなかった。鶴屋は本心から、コジロウのことを心配していたつもりだった。心配? あれは本当に、「心配」だっただろうか? 哀れみではなかっただろうか? 


 自分自身への違和感が、胸中に黒く広がっていく。コジロウを思いやることで、自分が賢いふりをする。他者の境遇を慮れる、物分かりのいい人間のふりをする。そうでなかったと言いきれるのか。


 いや、違う。今は落ち込んでいる場合ではない。もう一度立て直して、コジロウのことを認めなければ。違和感と恐怖と焦りとが、三方から鶴屋を圧し潰す。じりじりじりと、胃の底が熱くなっていく。


「待っ、てください、今はそんな話をしたいわけじゃ」


「話を?」コジロウはぴしゃりと、鶴屋の声を遮った。「なんと高慢な物言いか」


 物干し竿が、威嚇するように揺らされる。じり。鶴屋の胃が熱くなる。


「なにゆえそれがしが、おぬしの望みを聞かねばならぬ? やはりおぬしは己が身のみが可愛いと見えるな。何事も、思い通りに進まねば不安なのであろう?」


 じり、じり。胃の熱が強まる。薄闇に覆われたはずの部屋が、やけに眩しく感じられる。


「だから覚悟が決められぬのだ。だから努力ができるのだ。おぬしには、苦しみに抗う気概がない。何をするにもとことん受け身で、怯えておる」


 じり、じり、じり。吐く息が震える。ぶくぶくと、濁った感情が喉元にのぼってくる。それは恐怖ではなかった。焦りでもなかった。後悔でも、不安でもなかった。


「実のところおぬしは、変わりたいとも思っておらぬのだ。いかほどに己を嘆けども、己を変えずにやり過ごす術を探しておるのみ。内定を得るにも他力本願、誰ぞが勝手におぬしを認め、迎え入れるのを待っておるだけだ」


 じり、じり、じり、じり。か細い光を通す窓が、無味乾燥な影を作る柱が、錆びて転がった棚や台車が、鶴屋の視界から消えていく。瞳に映っているだけで、認識できなくなっていく。


「おぬしは弱い。されどその弱さは、まことの意味の弱さではない。おぬしの弱さは、おぬしの怠りゆえの弱さよ。己が強くなれる機を、怠けて逃し続けたゆえのいやしき弱さよ」


 じり、じり、じり、じり、じり。腹はもう、火がつきそうなほど熱かった。腹からのぼってきた感情が、ごぼ、と舌の上まで溢れる。恐怖でも、焦りでも、後悔でも不安でもないそれに、窒息しそうになる。


「のう、ツルヤ」


 コジロウは笑う。


「己が幻想しただけの弱さに、いつまで甘えておるつもりだ?」


 鶴屋の舌に溢れ出したのは、ただ純粋な、怒りだった。


「うる、さい」


 その怒りが、焼かれるような腹の熱さが、喉の奥から漏れ出した。声は細く掠れ、廃ビルの静けさに霧散する。だが怒りは津波にも似た濁流を巻き起こし、細い出口をこじ開けて洪水を起こす。


「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい」


 濁った水が鶴屋の皮膚を覆っていく。駄目だ、止まれ、このまま進んでも、解決からは遠ざかるだけだ。脳のどこかにはまだ冷静な部分があって、だがそれも見る間に濁流に流された。脳が、舌が、肺が手が足が鶴屋のすべてが輪郭を持たない液体に変わり、


「うるっさいんだよ、このクソ侍!」


 気がつけば拳が、コジロウの頬にめり込んでいた。


 鶴屋は思いきり腕を振り抜く。殴られた侍は物干し竿を構えたまま、右に二歩よろけて止まる。その唖然とした鼻面に、濁流はどうどうと襲いかかる。鶴屋にも、コジロウにも、目を丸くする阿潟にも、止めることはできなかった。


「おっ、俺はなぁ、俺は弱いんだよ! ちゃんと弱いんだよ! あんたとは違うけど、よ、弱くて、他力本願なのもすぐ怠けるのも俺の弱さで、だからそのこれは、幻想じゃないです! それ、それにあんただって!」


 声は詰まり、言葉はまとまらず、コジロウの鼻を指差す動きもぎこちない。だが鶴屋にはもうそんなこと、気づけなかった。濁流になった自分自身に流されるまま、二枚目面に唾を飛ばす。


「あんただって自分の弱さに、あれだろ、酔ってるだけだろ! 自分は特別弱いとか特別可哀想とか思って、たにっ他人にも、俺にもそれを押しつけてるんだろ! 自分から弱さを晒して、アピール、したくせに哀れまれて文句言うな! ていうか俺は哀れんでない! いや哀れんでたかもしれないけど、もし哀れんでてもあんたのせいだ! あんたが自分のこと、哀れんでほしそうにしたせいだ! 俺のせいにするなっ、ば、馬鹿!」


 つっかえながらも罵倒しきって、肩で息をする。こんなにも勢い任せに声を出したのは、生まれて初めてかもしれなかった。何も考えず、言葉も探さず、感情をそのまま口に出す。普段の鶴屋にはきっと、発想すらできないことだった。


 爽快感と解放感、達成感が濁流の奥に湧き上がる。それでも怒りは収まらなかった。拳の痛みが、全身の神経に伝播していく。


「な、にを言うか」


 眼鏡の向こうに、鶴屋はコジロウの顔を見る。侍は唇をわなわなと震わせ、右の目尻を痙攣させていた。かすかに俯いた鼻の上に、灰色の影が落ちている。その顔を見れば、コジロウの感情が手に取るように分かった。


 怒りだ。暗く燃えるような怒りが、今にも鶴屋を斬らんとして光る。


「何を言うか、貴様! それがしは、それがしは決して、哀れんでほしそうになどしておらぬ! 左様な賤しき行い、このコジロウがするわけがなかろうが! それがしはただ」


「したんだよ!」


 しかし鶴屋も、そんなことでは止まれなかった。


「したんだ、あんたはそういう、い、賤しき行いをしたんだ! 何なんだよほんと、何なんだよ! 手作りの唐揚げを食べられて、きょうだいがいなくて、大学で、は、話せる相手がいて、それで弱くちゃいけないのかよ! 認めてくれよ俺の弱さ、弱さを、なぁ!」


「腑抜けたことを言うな!」


 鶴屋の語尾に被せるように、コジロウも怒鳴る。構え直された物干し竿が、鶴屋の額を真っ直ぐに捉える。


「弱さなど認められてどうしようというのだ! どうしてもおぬしが弱いというならまず、強くなれるよう努めぬか大うつけ! 所詮おぬしは知らぬのだ、真の弱さの何たるかを! 弱者がどれだけ惨めで、苦しい日常を送っておるかを!」


「じゃああんたはこれで本当に、強くなれるのかよ!」


 物干し竿がビクリと揺れるのを、鶴屋は怒りの中で確かめた。重くシワだらけの革靴を、勢いに任せて大きく踏み出す。「名刀」の先が眉間に迫る。


 だが、もはや恐怖など二の次だった。とめどなく溢れる怒りをすべて出しきらない限り、他の感情には構っていられない。物干し竿の向こうで、コジロウが口角を引き攣らせる。そのわずかな隙に、濁流を流し込んでいく。


「総長の言うこと聞いて、あの人たちの仲間になってそれで、それだけで強くなれると思ってるのか!? だとしたら相当馬鹿、っていうか、馬鹿だろ! いやそれは確かにちょっと強く見られることはあるかもしれないけど、でもミ、ミヅキたちは俺、正直そんなに強いと思わなかった! だからその、た、ただ集団の中にいたって意味なくて」


「なれば!」


 コジロウが一歩後ずさる。


「なればそれがしはどうやって強くなって、み、認められればいいというのだ!」


「んなもん知るか!」


 鶴屋が一歩コジロウを追う。


「知るわけないだろ、そんなの、この俺が! お、俺だぞ? なぁ! ていうか何だよもう、そもそもなんで強くなんかならなきゃいけないんだよ! なんで弱いくらいでこんな、こ、こんな思いしなきゃなんないんだよ!」


「左様なことそれがしとて知らぬわ! だがそうやって、理不尽に耐えて生きるということが人の子として生きるということであろうが! 甘ったれるな!」


「うるさいうるさい! あんただって理不尽になんか耐えられてないくせに、偉そうにするな! 誰の前でもそうやって強がって、侍のふりしてなきゃ生きられないくせに!」


「なっなっな、何だと!? そんなことおぬしに、そんなこと、強いふりすらできぬおぬしに言われとうないわ!」


「だ、黙れ! 俺はそうじゃなくて、ただその、そのままの自分で生きてるだけだ! あんたみたいに虚勢張ったり、そのくせ不幸自慢して他人を馬鹿にしたりしない!」


「だから、それがしは不幸自慢など」


「しただろうが!」


「しておらぬわ!」


「いーや、した!」


「し、て、お、ら、ぬ!」


 濁流に呑まれた言い争いはそのまま泥沼化し、子どもの喧嘩のようになった。鶴屋が物干し竿を掴み、コジロウはそれを振り払おうともがき、ギチギチと揺れる竿を押さえつつ鶴屋はコジロウの襟に手を伸ばし、コジロウがその手首を片手で掴み捻り上げ、鶴屋は悲鳴を上げながら体面の膝を蹴り上げ、コジロウも悲鳴を上げつつさらに物干し竿に力を籠め、それでもなお、ふたりが離れることはなかった。


「大体あんたは、卑怯なんだよ!」


 捻られた手首を必死に振りほどこうとしながら、鶴屋は叫ぶ。当初の目的も、阿潟に見られていることも、もう完全に忘れていた。コジロウは下瞼を上げて鶴屋を睨みつつ、食いしばっていた歯を開く。


「卑怯!? 卑怯だと!? 左様なこと、今さらであろうが!」


「そうだよ今さらだ! 今さらだけど、ひっ卑怯だ! マントルのこともミヅキのことも騙して、遠近にもあんなことさせて、俺のことも、トモガラだって言いながら勝手に疑って天使にあんな、じ、GPSなんかつけさせやがって! あれ結局、機械は外れてないんだぞ!」


「はぁ!?」コジロウの眉間に深いシワが寄る。「機械!? 何の話だ!」


「しらばっくれるな、よ!」


 最後の一音を発すると同時に、鶴屋は掴まれた手首を引いた。侍の指を辛うじて振りほどき、ポケットの中から隕石を掴み出す。そして表面に貼りついた機械を、侍の眼前に突きつけた。


「ほら、ほらこれ! 天使に頼んでつけさせたんだろ、分かってるんだからな!」


 そう言った途端、物干し竿の揺れが収まる。


 突然の静けさに戸惑い、鶴屋は竿を掴む手を緩めた。が、その隙を突かれることもない。物干し竿を見、隕石を見下ろし、コジロウに目を戻す。


 侍は眉間にシワを寄せたまま、じっと機械を見つめていた。黒い瞳はどういうわけか、毒気を抜かれたようにつるりとしている。なおも戸惑う鶴屋の顔を、その瞳が静かに見た。


「かようなもの、それがしは知らぬぞ」

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