第41話 考える、走る、また出会う

 共用廊下を抜け、エレベーターを降り、エントランスから歩道に出て立ち止まる。液晶の地図を確認すると、真っ赤なピンは裏路地の深部に刺さっていた。一般的な地図アプリではないのだろう、細い路地まで余さず表示される代わりに、動作は重く画質も荒い。


 それでもどうにか拡大を繰り返す。裏路地の中部、ごちゃごちゃと乱立する建物のうちの小さなひとつに、コジロウはいるらしかった。


 地図を縮小し直して、鶴屋は再び走り出す。液晶のピンは味気なく、威圧感などまるでなかった。それでも、コジロウに近づいている実感ははっきりと胸に迫る。飛び込んだ裏路地は、一度地面を蹴るごとに暗さを深めていく。


 怖い。隕石にアパートを潰された日から、何かを怖がってばかりいる。コジロウのことも、裏路地のことも、総長のことも、マントルに降りかかる理不尽も、ニーナたちが纏う集団の空気も、溝口と遠近の過去も何もかも、怖かった。


 そして怖いと感じるたびに、自分の弱さを痛感した。誰の期待にも応えられない、孤独でひ弱で臆病な自分が、情けなくてたまらなくなった。社会に溶け込んで生きることなど、到底できないと思った。


 見返りを得られないものは、無価値。天使が語ったことは、きっと真実なのだろう。誰の役にも立てない者は、掬い上げられることもない。総長の突きつけた現実も、おそらく嘘ではないのだと思う。そして鶴屋は「無価値」で、「役に立てない」側の人間だ。だからこのまま、弱いまま生き抜くことは難しい。少しでも強くならない限り、鶴屋が楽になれることはない。


 だからといって、強くなる方法も分からないのだ。大切な人に認められても、守ろうとして責任を負っても、覚悟を決めて取引をしても怖いものは怖いままで、強くなれたとは思えなかった。


 もしかして、と考える。もしかして、自分は一生、弱いままなんじゃないだろうか。この先何かの集団に属して、その盾を手にできたとしても、強くなれなどしないんじゃないか?


 それは何よりも恐ろしく、絶望的な考えだった。だがそれでいて少しだけ、胸が軽くなるような気もする。


 強くなれない、それなら、強さを目指す必要もない。それは何よりも気楽なことで、その気楽さがまた、鶴屋の弱さを補強していた。弱いまま生きていけるなら、こんなに素晴らしいことはない。


 それでも弱くはいられないから、鶴屋は今も走っているのだ。


 黒々としたアスファルト、左右に迫る灰色の壁、白い陽光を拒む薄闇。暗いモノクロに満ちる視界を全速力で駆け抜ける。しかし全速力といっても、大した速度は出ていなかった。物干し竿で打たれた額は未だにときどき痺れるし、肺も気管も疲労に縮んでロクに酸素を取り込まない。ヒュウ、ヒュウ、と喉だか胸だかが弱々しく鳴り、喘ぐような息の後、咳が出る。ゴホゴホと顔を赤くして、全身汗だくになりながら、しかし辛うじて足は止めない。液晶に映る赤色のピンに、一歩ずつ確実に近づいていく。


 コジロウは今、何を考えているのだろう。阿潟を総長に渡すタイミングを、虎視眈々と探っているのか。これから迎える素晴らしい人生に、想像を巡らせているのだろうか。強さを手にした彼自身の姿を思い描いて、喜びに浸っているのだろうか。


 誰かが嘔吐した痕跡を跨ぎ、カビの生えたビルの角を曲がり、走る。強張った喉で無理やり空気を吸い込むと残飯のようなにおいがした。悪臭にまた噎せながら、手の中の地図を見る。赤いピンに、動く様子は見られなかった。地図に従ってまた角を曲がり、そしてふと、気づく。


 ピンの刺さった建物は、総長のビルから遠く離れている。


 コジロウはなぜすぐに、総長の元へ行かなかったのか?

 

 考えてみれば当然の疑問だが、これまでの鶴屋には余裕がなさすぎた。今さらだ、と自覚しながら、足と同時に思考も動かす。違和感が、鶴屋の皮膚にまとわりつく。


 阿潟を捕らえたなら、すぐ総長に「献上」すればいい。そうすればコジロウは晴れて課題を達成し、念願叶って総長の下につけるのだ。


 あの坂をくだりきった時点で、コジロウは鶴屋を振りきっていた。鶴屋の居場所を掴んでいるなら、鶴屋が遅れていることだって把握できたはずだ。総長のビルへ走っていれば、コジロウはきっと競り勝っていた。それでも彼はそうしなかったのだ。


 総長が嘘をついている? 天使が嘘をついている? それともこの位置情報が、まるきり見当違いだったら? この場所にコジロウがいたとしても、阿潟の姿がなかったら? 違和感が不安へと変わっていく。だがその中心に、純粋な疑問がぽっかりと穴を開けた。


 もしもコジロウが本当に、このピンの場所で、阿潟と共に待ち構えていたら。


 だとしたらなぜ彼は、こんなところに留まっているのか?


 ――コジロウは、迷っている?

 

 それはひどく楽天的で、希望的な観測だった。しかし鶴屋の手足は熱くなり、踵の痛みがわずかに和らぐ。画面に刺さった真っ赤なピンは、もうすぐ近くに迫ってきている。


 もしコジロウに、迷いがあるのだとしたら。総長の課題をこなすことに、疑問を抱いているのだとしたら。それなら鶴屋にも、多少の勝機はあるかもしれない。あまりに頑ななコジロウの心を、解きほぐすことができるかもしれない。


 ――鶴屋さんが認めるんじゃ駄目なんですかね?


 阿潟の声を思い出す。鶴屋ひとりが認めただけでは、侍はおそらく満足しない。しかし満足させられなくても、揺らがせることならできるのではないか。立ち止まらせ、考え直させ、阿潟だけでも解放させれば、目の前の問題は解決だ。その先のことは分からないが、極論、今は考えなくてもいいはずだ。


 うん、と鶴屋はひとりで頷く。大団円のハッピーエンド、非の打ちどころのない解決なんて、自分にはたぶん目指せない。だがこのくらいの曖昧な、傷も残した解決ならば、弱い自分にもきっと目指せる。情けないとは思いながらも、そのことに確かに背中を押された。情けなくても、弱くても、今できる中で最大のことをやるしかないのだ。


 走る。痛みの薄れた踵は軽く、近づく赤いピンが鶴屋を励ました。現れた角を折れると、右手に細長いビルが見える。あれだ、と気づき、思わず声を上げそうになった。


 あそこが、あのビルがきっと、この疾走の終着点なのだ。そう考えるとふいに足から力が抜け、よろめく。だが転ぶわけにはいかなかった。今にも抜けそうな全身の力を必死に留めて、直進する。それでも一歩、また一歩と踏み出すごとに足は重さを取り戻し、ついに一歩も踏み出せなくなったとき、そのビルの前に辿り着いた。


 ガタガタ震える膝に手を突き、ビルを見上げる。掠れたマジックで塗ったような外壁、割れたガラス窓、その窓枠の側に置かれた、角の凹んだ室外機。その建物は、どこからどう見ても廃ビルだった。表通りのざわめきからも、裏路地に蠢く気配たちからも隔絶された、死さえ想起させる静けさがビルを包んでいる。


 鶴屋は膝から手を離し、息を止めた。もう一度地図を確認する。赤色のピンはこの場所をきっちりと示したまま、一ミリも動かなかった。


 入り口には、錆びたシャッターが下りている。だがその中央には、大きく長い亀裂があった。あれをのれんのように開けば、廃ビルの内部に入れるだろう。棒のような足を引きずって、鶴屋はシャッターに近づいた。


 スマートフォンをポケットに仕舞う。シャッターを揺らさないよう慎重に、亀裂の側に手を添える。


 緊張は、少しも感じられなかった。代わりにあるのは大きな恐怖と、作り物めいた覚悟だけだ。鶴屋は今でも弱いままで、使命も、正義も、まるで背負えていなかった。


 すえた空気をゆっくりと吸い、吐く。噎せなかったことに安心しながら、シャッターを押した。亀裂が広がると、奥の薄闇がわずかに覗く。その暗さに怯えた肺が縮み、指先は冷え、くっきりとした吐き気が湧き上がり、それでも、亀裂の奥に入った。


 埃っぽい空気が鼻を突く。割れたタイルに片足を下ろすと、革靴越しにもざらついた感触が伝わった。もう片足でも踏み込んでから、シャッターを支える手を下ろす。ガシャ、と乱暴な音と同時に、部屋を見た。


 ぼろぼろに割れたガラス窓から、かすかな光が差している。その白色に照らされて、四つの瞳が鶴屋を捉えた。


 手足を縛られ横たわる阿潟と、その前に立つコジロウと、鶴屋は向かい合っていた。


「コジロウ、さん」


 ホッと溜め息をつくように、言う。


「あなたも覚悟なんか、全然できてないじゃないですか」

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