第18話 落ち込んで済むならケーサツは
そしてその夜も、その次の夜も、鶴屋とコジロウの仕事は続く。
ペットボトルの点検を終え、残りの箱から次々出てきた睡眠薬も点検し、ドラムに巻かれた百メートルの縄を十メートルごとに切断する。任される作業はことごとく地道だが、そこから漂うくっきりとした犯罪の香りに鶴屋の頭はくらくらした。
そのうえ、スタッフルームの雰囲気はまるで改善されない。沈黙は日に日に気まずさを増し、息苦しさから逃れるように鶴屋は黙々と作業を続け、時折阿潟の告白を思い出しては毎回新鮮に衝撃を受け、そうするうちに最終日が来て、最後の業務に取り掛かり始めて早くも、五時間が経っていた。
吸う、吐く、吸う、吐く。カーテンの裏の埃っぽさにも、すっかり鼻が慣れている。疲労を訴える筋肉と肺を宥めつつ、潜めた呼吸を繰り返す。四肢を広げて極力体を平らにし、どうにか窓になりきりながら鶴屋は首だけを傾けた。
カーテンの合わせ目の隙間から、片目で室内を観察する。表通りの片隅に建つホテルの部屋は、ところどころが古びていながらも小綺麗だった。
「じゃあ俺、シャワー浴びてくるから」
洒落たジャケットをクローゼットに片付けながら、アサヒコがさらりと声を出す。間接照明に照らされた彼は、普段よりいくらか二枚目に見えた。その二枚目の手前から、「うん」と鼻にかかった声がする。
「あ、でもそれなら、一緒に浴びたほうが楽しくない?」
部屋の中央のダブルベッドに腰かけたまま、女がブラブラと両足を揺らす。長い黒髪を梳く指先には、深緑色のネイルが施されていた。アサヒコは女に甘く笑いかけ、ほんのついでというように、冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
「いやいや、俺、体はひとりできっちり洗う主義だから。君はこれでも飲んで待ってて。喉、乾いてるでしょ」
ペットボトルを差し出され、女は受け取る。「ナリタさん、めっちゃ紳士だね」偽名を呼ぶその口調には、警戒心は感じられなかった。アサヒコは「普通でしょ」と言い残し、バスルームに姿を消す。鶴屋が片目でそれを見送り、疲れた両目を強く閉じてから再び開くと、パキ、と軽い音がした。
深緑色の指先で、ペットボトルを……細工を施された、「新品の」ボトルを開ける女。彼女は飲み口に唇をつけ、細い喉をごくりと動かす。そしてそれから三分、四分、五分も待つと、どさり、とベッドが音を立てた。倒れた女を三、四秒ほど観察してから、鶴屋はカーテンをするりと抜け出す。
「寝入っておるか?」
クローゼットの死角から、コジロウも姿を現した。鶴屋はベッドに歩み寄り、女のこめかみをつついてみる。しかし何ひとつ反応はなく、部屋にはスヤスヤと穏やかな寝息が響くばかりだ。
「寝てます」
「よし」
そう言うと、コジロウは袂から縄を取り出す。その十メートルぴったりの縄で、ふたりは女の体を縛った。初めの数人にこそ手間取った鶴屋も、今ではそれなりに素早く結び目を作れるようになっている。縛られた女の頭をコジロウが、足を鶴屋が持ち上げる。と、バスルームからアサヒコが出てきた。三人はバラバラと頷き合って、部屋を出る。
カーペット敷きの廊下を進み、階段を下りていく。女の足を抱え続け、息も絶え絶えになりながら一階の非常口へ辿り着くと、怯えた笑顔のホテルマンがドアを開いた。ドアを抜け、夜の裏道に出る。
すぐ目の前の車道には、銀色のバンが停車していた。冷えた空気に肺を刺されつつ、バンの後部に回り込む。開かれた荷室には二十四人の若い女が収まっていて、その隅に二十五人目を押し込んだ。鶴屋とコジロウも空いたスペースに無理やり乗り込む。
「いやー、疲れた疲れた」
助手席に座って、アサヒコがフゥと息を吐く。鶴屋は女性の体に触れないように極力体を縮めつつ、奥歯を擦り合わせた。二十五人もの人間を、五時間もかけて運びきったのだ。疲れた疲れたと嘆きたいのは俺のほうだ、と苛立たずにはいられなかった。
向かい側では、コジロウが恐怖に満ちた表情で袴の膝を抱えている。おなごが不得手、という彼の告白はどうやら嘘ではなかったらしい。
「意外にスムーズだったけど、全員大人しく水は飲んだの?」
車が動き出すと同時に、運転席のミズキが問う。サァ、と強まる走行音の中、アサヒコの答えが鶴屋にも聞こえた。
「大体はそうだったかな。ちょっと時間かかる子もいたけど、向こうはホテル備え付けの水だと思ってるわけだし」
「そう。まぁパパ活やろうなんて女は大抵、迂闊なのかもね」
ミヅキの声を聞きながら、鶴屋は首筋に汗を滲ませた。ペットボトルに薬を仕込み、キャップを未開封のものにすげ替え、ホテルの冷蔵庫に入れる。それらはすべて鶴屋とコジロウの仕事だった。
罪悪感が胃液と共にこみ上げてくる。それをとっさに飲み込むと、食道が焼けてチリチリと痛んだ。
いや、大丈夫だ。これまでのこともこれからのことも、全部指示されてやったこと。主犯はあくまでもミヅキたちなのだ。そう思おうとしてみても、後ろめたさは胃でゴポゴポと泡立ち続ける。そのうるささにはとても耐えられそうになかった。罪を背負うことには、やはり強烈な苦痛が伴う。
だが鶴屋はまだ、罪を重ねねばならないのだ。
左手をこっそりと、スラックスのポケットに入れる。指先に触れた硬い感触を、そっと摘まんで優しく撫でた。滑らかな質感と、年月と値段を感じる重み。今日の昼に天使から受け取った偽物の指輪は、手触りすらも本物に似ていた。
今夜のミッションは、女たちの運搬だけではない。偽物の指輪と本物の指輪を、ニーナに交換してもらうこと。それが鶴屋らの隠されたタスクで、最も重大なタスクだった。ミヅキらとの仕事は今日で最後。今日中に交換を果たせなければ、指輪のための苦労はすべて無駄になる。
指輪から手を離し、反対のポケットに右手を突っ込む。そこにはいつも通り、隕石の欠片が収まっていた。指輪とはまるで対照的な、ゴツゴツと垢抜けない感触。今回の課題では結局、隕石は一度も光らなかった。前回が本物の奇跡だったのか、それともウダウダと悩む自分に、隕石が愛想を尽かしたのか。考えてみても答えは出ないが、隕石を握ると多少落ち着くことはできた。
この先何が起こっても、すべは隕石のせいなのだ。心で繰り返しそう唱えると、胃の泡立ちが和らぐ。気がする。
そうする間にも、バンは着実に進んでいく。走行音、ウインカーの音、アサヒコが時折つく溜め息と、女たちの寝息。街灯やコンビニが放つ光が、車窓から鶴屋を照らしては過ぎ去る。寝息にときどき呻き声が混ざり、鶴屋はその度に怯えたが、女が目を覚ますことはなかった。
即効性と眠りの深さから考えて、あの睡眠薬が普通でないのは明らかだ。しかし鶴屋は決して深く考えないよう、通り過ぎていく光を数えて時間をやり過ごそうとする。一、二、三、四……そうして百三十ほど数えた頃に、ぴたりと走行音が止んだ。
「着いた。すぐ運び込んで」
指示を飛ばしつつ、ミヅキが運転席から降りた。外からバックドアを開かれて、鶴屋とコジロウも降車する。風俗店のスタッフルームへ続く扉が、ふたりへ向けて開かれていた。
すると、「お疲れ様ー!」と声が飛んでくる。開かれた扉から、ニーナがこちらに駆け寄ってきた。彼女はパタパタと軽やかに進み、バンに寄り添って立ち止まる。ミヅキとアサヒコの間の空気が、濁って固まるのが分かった。
ニーナの手には今日も指輪が光っており、鶴屋は思わず猫背になる。左ポケットで偽の指輪が重くなった。濁った空気、ミッションに対するプレッシャー。だがそのどちらにも、潰されているわけにはいかない。仕事はまだまだ残っているのだ。
残された体力をかき集め、荷室で眠る女の頭を持ち上げる。向かいで足を持つコジロウも、ほとんど喘ぐように息をしていた。ふたりはそれぞれ余裕のない顔で、店の中へと踏み込んでいく。その後ろでは、アサヒコとミヅキも女を抱え上げていた。
スタッフルームを抜け、寒々しく長い廊下を進む。ここまで入るのは鶴屋もコジロウも初めてだったが、この廊下にも、スタッフルームとまったく同じアロマの香りが籠っていた。ヒィヒィ鳴る喉に甘い空気はじりじりと堪え、鶴屋の視界は霞む。コジロウが何か応援を口にしたようだったが、その声もまるで聞き取れない。とりあえず「はい」と返そうとするも、荒くなる呼吸に阻まれた。
ゼェゼェ、ゼェゼェ。廊下は想像の二倍も長い。重くなる足を切れかけの気力で持ち上げながら、やっとの思いで廊下の果てに辿り着く。突き当たりの戸を足で開いて、その先の部屋へ踏み込んだ。
その広い部屋は宴会場になっているらしい。大きなテーブルと分厚いソファーが、凝った配置で並べられていた。一番奥のソファーの上に女をそっと横たえる。そうしてやっと一息つけるが、膝に手を置いた瞬間、おい、と肩を叩かれた。
「行くぞ」
そう言って、コジロウはせかせかと部屋を出る。侍の早足の意図が分からず、かといって考える余裕もなく、鶴屋は擦り切れた袴を追う。人を抱えていないおかげか、足はいくらか軽かった。とはいえとても楽とは言えず、廊下の途中でミヅキらふたりとすれ違っても、ちらと見ることすらできなかった。
へなへなとした小走りで、コジロウの真後ろにどうにか追いつく。すると侍は真っ直ぐ前を向いたまま、掠れた小声を投げてきた。
「ツルヤ、今だ」
「え?」言葉の意味するところが掴めず、鶴屋は小声で訊き返す。「な、何がですか」
「この隙に、指輪を交換せしめようぞ」
コジロウがほんの一瞬、廊下の先を指差した。鶴屋もそちらに目を向ける。廊下の先のスタッフルーム、さらにその先の暗い車道。バンに背を預け、ニーナが夜空を見上げていた。彼女の役割はバンの見張りのはずだったが、見張っているとは思えない。
「い、今……できますかね」
鶴屋の背後では、ふたつの足音が着実に遠ざかっている。ミヅキとアサヒコ、ふたりが戻るまでに指輪の交換を終えようというのは、なかなかの賭けに思えた。
「できるか否か、ではない。やるのだ。我らの仕事はこれが最後。この機を逃せば、ミヅキ殿からニーナ殿を引き離すことなどあたわぬと思え」
「で、でも……」
「でも、ではない!」
小声を保ちながら、コジロウはぴしゃりと鶴屋を制した。束ねた長髪がひらりと揺れて、侍の目が振り返る。鶴屋を睨む黒い右目は、廊下の闇と同じ色をしていた。その瞳には鶴屋の顔も、光も、何もかも、映っていない。
「左様なことでは、おぬし、内定を得られぬぞ」
侍の声からは、明らかな懐疑と軽蔑の響きが感じ取れた。鶴屋は何も言えなくなる。
内定。内定は欲しいに決まっている。内定を手にして、企業に入って、集団に属して、集団の強さに寄りかかりたい。簡単に崩れることのない、強固な集団の強さを借りたい。それが鶴屋の、何よりの望みなのだ。それに間違いはなかった。
しかし鶴屋はニーナたちに、彼女ら三人の関係に、傷をつけたいわけでもないのだ。
マントルの顔を思い出す。鶴屋は彼を、自らの目的のために傷つけた。いたずらに期待させ、欺いた。この先もそうやって罪を重ねて、罪悪感に苛まれながら、責任を負い続けるしかないのか。苦しみながら、強さを目指すしかないのか。
死ぬまでずっとひとりぼっちって、やっぱり悲しくなるものですかね? 阿潟はそう言って鶴屋の前から去っていった。その問いに彼女が持っている答えは、一体どちらなのだろう。もしも「悲しくならない」のなら、それが本当なのだとしたら、自分はこのまま内定を目指すべきなのだろうか。
「ニーナ殿」
しかし思考がまとまる前に、体は路地へ出てしまう。
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