第17話 恋はいつだって驚きと一緒ね
『はい。予定はありません』『わかりました』『よろしくお願いします』
淡白に並ぶ文字列を眺め、思わずがっくりと肩を落とす。スマートフォンの液晶は、昼の陽光を反射して見づらかった。親指で軽く液晶を撫で、画面をスクロールする。反射に光る吹き出しに、あのメッセージが表示されていた。
『阿潟です。夜分遅くにすみません。明後日あたり会えますか?』
そのメッセージが届いた夜、コジロウの長屋に戻ってから、鶴屋はすぐに返信にかかった。文章を入力しては消去、入力しては消去を繰り返し一時間ほどを消費して、どうにか送信できた文章が『はい。予定はありません』だ。もっとかっこよく、もっとスマートにと装飾を増やし、最終的に気恥ずかしくなってすべての飾りを取り去った結果、感情のないロボットのようになってしまった。
だが昨夜、仕事から帰った後でようやく届いた返信もまた、ロボットめいて味気なかった。
『前回のゼミのプリントですが、鶴屋さんのぶんも私に配られていたようです。教授から連絡があり、次回までに目を通しておいてほしいということなので、予定がないのなら火曜に渡させてください』
ミヅキらの店を追い出されてからずっと続いていた虚脱感が、そのメッセージを養分にして爆発的に成長した。正直なところ、というか当然、鶴屋はデートを期待していたのだ。
しかしそれもまた当然のことだが、阿潟の誘いは事務的なものだった。その返信を見てからの記憶が、鶴屋にはあまり残っていない。だが、画面に残る『わかりました』と『よろしくお願いします』からは、昨夜の自分の「抜け殻」具合が涙が出るほど伝わってきた。
スマートフォンをポケットに仕舞い、背後の塀に寄りかかる。安っぽいタイルは冷えきっていて、スーツの布越しに体温を奪った。大学の門柱とそれに続く塀は、いつ見ても薄く頼りない。気になる女子との待ち合わせ場所がこんなところであることも、なんだかとても情けなかった。
そうして涙を堪えていると、「昼飯どうする?」と話す一団が門から現れた。彼らは歩道に広がるまいと車道から離れた位置にまとまり、結果、ひとりが鶴屋にぶつかる。「あっすみません」「お前、ちゃんと周り見とけよ」「飯のことばっか考えてるからー」鶴屋が謝罪を返す間もなく、一団の間で会話が広がる。彼らはそのままワラワラと、歩道の向こうへ消えていった。群れた背中たちを見送って、鶴屋は昨日の、アサヒコの台詞を思い出す。
俺たちのこと、壊さないでくれって。
ミヅキ、ニーナ、アサヒコ。彼らは初めこそ、完成された集団に見えた。しかしその実、ギリギリのバランスでその完成を保っていたのだ。
ニーナが指輪を手放した。たったそれだけで揺らいでしまうほど、彼らの関係は脆かった。
鶴屋にはそれがどうしようもなく、虚しい。自分が属せたことのない、あの恐ろしい集団が、そんなものだとは知りたくなかった。着ぐるみの中身を見てしまったような脱力感が、鶴屋の血液を冷やしていた。
それに、問題は他にもある。
ミヅキたち三人の脆い関係を、鶴屋とコジロウはまさに壊そうとしているのだ。天使が作る偽物の指輪も、破壊を誤魔化す接着剤に過ぎなかった。
他人の友人関係を壊し、誤魔化す。その罪に、鶴屋は怖気づいていた。罪悪感と、罪悪感を背負うことへの恐怖が肩にのしかかる。
他人の友情を勝手に壊して平気でいられない程度には、鶴屋も良心を持っていた。だからこそ、良心に苛まれ続けることが怖いのだ。
アサヒコの台詞が思考から薄れ、今度はコジロウが思い出される。「七万」と言い放つ、あの強張った横顔の記憶だ。七万円。彼はそれだけの覚悟をもって、課題に立ち向かっている。その覚悟で他者を傷つけるとしても、おそらく止まりはしないのだろう。
それがしは、あやつにはならぬぞ。そう言った侍の声色を、鶴屋は忘れられていない。どれほどの罪を背負ってでも、コジロウは目標に向かっていくのだ。総長一行に、強い「集団」に加わるという、目標に。
「……強い」
誰にも聞こえないように、口の中だけで呟いてみる。強い。強い集団。ニーナとミヅキとアサヒコ。総長の下にいるのなら、彼女らも強い集団だろうか。自分は、彼女らに憧れられるだろうか。
「すみません、お待たせしました」
悩みがばつりと断ち切られ、鶴屋はハッと目を上げる。すぐそこに、阿潟の気だるげな顔があった。どっと心臓が強く脈打ち、さきほどまでの思考が吹っ飛ぶ。
「あっ、い、いえ」
思わず後ずさろうとするが、背中は既に塀についている。阿潟の細く落ち着いた目が、正面から鶴屋を捉えていた。左胸の筋肉が、ピキッと
「とりあえずプリント、渡します。ちょっと待ってください」
鶴屋の挙動不審も気にせず、阿潟はリュックを胸の前に回す。黒無地のリュックには飾り気がなく、ファスナーの縁がかすかに白く煤けていた。阿潟の右手がファスナーを開け、鞄の中身を探るのを、鶴屋は黙ってただ見つめる。あまり見るのも不自然かと思い空へ視線を逸らしたが、それもかえって変だったので目を戻した。
阿潟が自分の目の前にいる。自分の目の前で動いている。それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「あ、ありました。どうぞ」
しかし、喜びの時間はいつでもすぐに終わるものだ。ペラ、という軽い音と共に、A4のプリントが差し出される。味気ないモノクロ印刷を、鶴屋は大人しく受け取った。阿潟が触れた紙、と思えば嬉しくなくもないが、それを喜ぶのは「キモい」気もする。
「えと……ありがとうございます」
「いえ」
阿潟はあっさりと返事して、リュックを背負い直す。これで今回の用事は終わりだ。阿潟はきっと、このまま帰ってしまうだろう。かといって引き留める話題も思いつかず、鶴屋は黙って目を伏せた。と、
「まだ、お家は見つからないんですか」
不意に話題が降ってくる。「えっ?」と声が出て、「あ、いや」と慌てて誤魔化した。が、誤魔化せたとは思えない。
あの阿潟が、この四年間ずっとひとりでいた阿潟が、自分に話しかけてくれた。それもこれが初めてではない、前回のゼミを数えれば二度目だ。信じられなかった。やはり自宅に隕石が落ちたともなれば、心配してもらえるものなのか? だとすれば隕石には感謝せねばならないが、やっぱりそれも癪だった。
額が熱くなり、気が遠くなる。しかしどうにか意識の裾を引っ張って、自分の手元へ引き寄せながら声を返した。
「え、あ、ま、まだ、はい。全然、駄目で」
「大変ですね」
「や、ほんと。ほんとにあの、たっ大変で」
投げられた言葉に言葉を返す。そのラリーだけで精一杯で、会話を広げる暇がない。そうしてできた不自然な間は、ハハハ、という曖昧な笑い声では埋められなかった。
何か、とにかく何かを言わなければ。できるだけユーモアを含んだ何かを。そう考えてどうにか手近な話題を掴むも、鶴屋にとっての手近なユーモアとは、自虐以外にないのだった。
「しゅ、就活も全然上手くいかないし、踏んだり蹴ったりもいいところっていうか、どうしてこうなっちゃったんだって、いう、ハハ」
「そうですか」
静かな相槌に内臓が冷える。なぜこんなにもつまらないことを言ったのか? だが後悔しても手遅れだ。阿潟の表情をチラリと窺う。いつも通りの気だるげな顔だが、失望しているといえば失望しているようにも見えた。まだまだ冷静にはなれない。
とはいえ多少頭は冷えて、いつかネットか何かで見た、「会話を長く続けるには、相手に適切な質問をすること」というアドバイスを思い出す。
「あ……阿潟さん、は、就活は?」
これもまた口に出してから、果たして「適切な質問」だったかと後悔する。さすがにちょっと、プライベートに触れすぎではないか。いよいよ泣きたくなってきて頭を抱えそうになるが、その寸前で「私は」と声が返ってきた。
阿潟の顔を見る。彼女は快も不快も表さないまま、淡々と言葉を紡いでいく。
「私は、就活しないつもりなんです。教授には言いませんけど」
「え、あぁ、そう、なんですか」
「はい。なんていうか……生活していくだけのお金は、とりあえずありそうなので。心配しないでください」
「あ、あぁ」
堂々とした彼女の言葉に、鶴屋は気圧される。生活していくお金はある。ごくさりげない口調だったが、これほど強い台詞もなかった。思わず黙り込んでしまい、そうする間に気まずい沈黙が広がっていく。目の前にある阿潟の顔がわずかに曇ったように思え、鶴屋は焦った。
まずい、会話を繋げなければ。適切な質問。今度こそ、適切な質問をしなければ。熱を持つ脳に急かされるまま、声を出す。
「な、なんかあれ、ですか。バイト、かなり頑張った感じ、というか、ですか」
「あー、そうじゃなくて。……これ、言っていいかどうか分からないんですけど」
そこで一旦言葉を止めて、阿潟は周囲を見回した。それから口の脇に手を当てて、ふっと、鶴屋に顔を寄せてくる。突然のことに鶴屋は慌てて仰け反ろうとしたが、未だ背中は塀にくっついたままだった。
白い頬、紫がかった桃色の唇、ほのかな柔軟剤の匂い。高揚と同時に、恐怖にも似た緊張が胸に広がった。全身の筋肉が収縮し、視界がぐるりと一回転しそうになる。そうして遠のく意識の中、目の前の唇が小さく動くのが見えた。
「私、宝くじで一等、当てたんです」
「……えっ?」
「夏の宝くじで、十億円。贅沢しなければ、これでじゅうぶん生きていけますから。会社で……集団の中で生きていくのは向いてないと思うので、まぁ、ちょうどいいのかなって」
阿潟はさらりとそう言いながら、近づけた顔を引っ込める。鶴屋は彼女の香りの余韻と、打ち明けられた内容への驚きで、頭が真っ白になっていた。
夏の宝くじ。十億円。数日前、布団の中で読んだニュースが蘇る。鶴屋が家を潰された一方、十億円を当てた者もいる。妬ましくてならなかったその人物が、どこか遠くの、見知らぬ何者かだと思っていたその人物が、すぐそこに立つ阿潟だったのか?
とても信じられそうになく、しかしなぜだか納得もできて、全身の脈は落ち着いていく。蒸発する汗に冷えていく肌が、感情の混乱を体現していた。
呆然と正面を見続ける。眼前の一等当選者はやはり眉ひとつ動かさず、眠たげな目で鶴屋を見ていた。そしてその柔らかな唇を、また淡々と動かしてみせる。
「でも、死ぬまでずっとひとりぼっちって、やっぱり悲しくなるものですかね?」
その問いに、鶴屋は答えようとした。しかし答えを思いつく前に、阿潟は「では」と片手をあげて踵を返す。鶴屋は遅れて手をあげ返し、遠ざかるリュックを見送った。阿潟の背筋は伸びているとも言えなかったが、猫背であるとも言えなかった。
自分が答えるまでもなく、彼女は答えを知っているのだろう。鶴屋はそう考えながら、阿潟の唇の桃色を思い出していた。
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