第一章 青バラとマントル
第5話 汚部屋の天使に捨てられて
「青いバラ、か」
ビルを出ると、気温が少し上がっていた。裏路地はやはり薄暗いものの、灰色の空気は九月の残暑を感じさせる。鶴屋はコジロウの呟きを聞きつつ、ネクタイを緩めた。バーベルのような疲労が全身にのしかかっている。
「えっと……どうします? 青いバラって確か、すごく珍しいんですよね」
しかし疲労のおかげか、コジロウへの緊張は薄れていた。あるいはコジロウの弱さに触れて、警戒の必要はないと感じたのかもしれない。ごく自然に発された問いに鶴屋自身も驚いていたが、コジロウはさらに驚いた顔をした。切れ長の両目がキョトンと見開かれている。
「どうしますとは、おぬし、まことにそれがしを手伝うてくれるのか?」
「え、あぁ、まぁ……」
侍の驚きは、鶴屋のそれとは少しズレているようだった。予想外の質問に面食らい、頭を掻く。改めて言われると気恥ずかしく、歯切れの悪い肯定になった。
コジロウを手伝い、総長の知り合いから内定をもらう。怪しくはあるが、もし本当なら決して悪い話ではない、と鶴屋は思っていた。たとえ事業が違法だろうと企業は企業、内定は内定だ。とにかく内定さえ出れば、今、この就活を終わらせられる。履歴書を手書きして最後の一行で書き損じることも、真っ黒なスーツで残暑の日差しに晒されることも、面接官の退屈そうな視線と見つめ合わされることもなくなる。
そして何より内定が出れば、集団の中に入れるのだ。所属の盾を得て、集団の強さに守られながら生きていける。社会の中で孤立せずに済む。教室の中で感じた孤独を、世の中という広い世界に感じずに済むのだ。
今日は九月十四日。今や大半の就活生は元・就活生となって、十月頭の内定式を待っている。その焦りと総長の神秘的な微笑みが、鶴屋の理性を狂わせていた。蜘蛛の糸に取りつくように、頷く。どんなに不確かな希望であっても、今はどうしても信じたかった。
「せっかくなので、やってみようかな、と」
「おおぉお!」
震えた声をあげ、コジロウは鶴屋の手を掴んだ。鶴屋はわっと後ずさるが、骨ばった指は解けない。冷たく汗ばんだ手のひらの感触が不快だ。が、不快な手の主は感激の表情で声を詰まらせた。
「恩に着るぞ! 総長の前ではああ申したが、それがしも行く末が不安で不安でならなんだのだ。おぬしが手伝うてくれるのならば、心強きことこの上ない!」
「は、はぁ」
「おぬし、ツルヤと名乗っておったな」
侍の指に力が入る。宿を借りておきながら、コジロウに名乗っていなかったのだ。罪悪感を覚えつつ、「はい」と正直に答える。と、コジロウはクゥッとたまらなそうに唸った。握りしめた手を上下に振って、弾んだ声を響かせる。
「ツルヤ! これからおぬしとそれがしは、志を同じくする輩(ともがら)よ! 我ら相互いに魂を
重ね、必ずや悲願を達成しようぞ!」
「はぁ……」
振られる手首の痛みに耐えつつ、鶴屋は気の抜けた声を返す。
トモガラ、という堅い響きは、耳にも心にも馴染まなかった。もちろんコジロウは恩人であり、彼の苦労には同情も共感もできるものの、それとこれとは別の話だ。「トモ」というのは、もっと重大なものだろう。たったこの程度の関係に、そんな響きは似合わない。そう感じた。
「あの、それで結局、どうします? 青いバラは」
とはいえ、侍の喜びに水を差すのも憚られる。無理やり話題を元に戻すと、コジロウはひらりと鶴屋を離した。その手を頼りない腰に当て、エッヘンと胸を張ってみせる。
「それはひとまず、このコジロウに任せてみよ! それがしとてこの裏路地の住人、わずかばかりの伝手ならばないこともない!」
「ないこともない、ですか」
鶴屋は苦笑する。しかしコジロウはすっかり悦に入った様子で、足取り軽く歩き出した。ひとけのない路地に風が吹き、侍の長髪がごわごわと揺れる。そのさまがまた頼りなかった。
だが今は、何にでも頼るしかないのだ。念願の内定を勝ち取るために、集団の中に入るために。自分が面接に受かる確率より、侍の伝手が機能する確率のほうがわずかに高いような気がした。思考を無理やり麻痺させて、鶴屋はコジロウの後を追う。頭上を通る電線が、革靴の先に影を落とした。
*
「無理だね」
青年はそう言って、回転椅子ごと振り向いた。カールした金髪がふわりと跳ねる。工具、空き缶、コンビニ弁当の容器に電子機器。硬質なモノで溢れかえった部屋の真ん中に、鶴屋とコジロウは立ち尽くしている。
「む」コジロウが気弱な声を出した。「無理か」
「無理だね」
さきほどと寸分違わぬ調子で、青年は繰り返す。真っ白なTシャツの上で、薄桃色の頬が笑った。部屋に充満する油と鉄と砂糖のにおいにそぐわない、きらめくような微笑みだ。
「まぁ無理といっても、未来永劫百パーセント不可能ってわけじゃないかもしれない。僕らがこのまま中年になるか、あるいは高齢者になるか、数世代後に託すかすれば、作れるようになってるかもね。だけど今この時代に、個人の力だけで青いバラの生花を作り出すことに限定すれば、まず不可能と言って差し支えない」
くりくりとあどけない目つきに反して、やけに小難しい物言いだ。そんな青年へ向け、コジロウは一歩踏み出した。ガシャ、とゴミが鳴るのも構わず、縋るように食い下がる。
「天使、おぬしの力をもってしてもか」
呼ばれた青年は間髪入れず、潤いのある唇を開いた。くるくるとした金色の巻き毛に、彫刻のように整った童顔。まさに宗教画の「天使」そっくりの彼は、朗らかな声であっさりと繰り返す。
「無理だね」
回転椅子の背後のデスクで、PCモニターが光っている。頭を抱えるコジロウを見て、鶴屋も密かに溜め息をついた。
裏路地を抜けてすぐ右手に建つ、分厚い低層マンションの角部屋。そこに「天使」の作業場はあった。どのグループにも属すことなく口コミだけで仕事を集めるこの天使は、裏路地随一の「技術者」らしい。各種文書や身分証の偽造、市販の盗聴・盗撮器の改造、防犯センサーにトラップの製造、企業データへのハッキングなどを難なくこなし、さらには美術品や宝石類の贋作まで手掛けるのだ。
そんな彼を、裏路地のあらゆる仕事人たちが一度は頼っているという。天使という呼び名の由来はその容姿だけでなく、客の願いを完璧に叶える優秀さにもあるようだった。
コジロウはそんなエリート天使に、二度ほどネジを届けたそうだ。二度目の際に賞味期限切れのエナジードリンクを与えられ、味の濃さに衝撃を受けた……というどうでもいい話を、鶴屋はここまでの道中で聞いた。
コジロウと天使、ふたりの繋がりは極めて希薄で、「伝手」というにはあまりに弱い。だが他にすがれるものもなく、鶴屋も正直、ほんの少しだけ期待していた。
だからこそ、「無理だね」に対する絶望は深い。鶴屋はスーツの腹を握り込み、唇を噛んだ。どうにか心を落ち着かせようとするものの、目の前では侍が項垂れている。それを見ていると落ち着けず、結局焦りに口を開いた。初対面の緊張に締まる喉を、無理やりこじ開けて声を出す。
「や、やっぱり、そんなに難しいものなんですか」
天使の瞳が鶴屋に向く。その眉の角度からは、見慣れない人間への警戒心が見て取れた。鶴屋は思わず身を硬くする。しかし天使はさらりと目を逸らし、椅子を回してデスクの上のキーボードを叩いた。
「難しい、の基準をどこに設定するかにもよるけど、一般的な感覚に基づいて言えば『相当難しい』ということになるだろうね。今まで色んな研究所や大企業や、海外のベンチャー企業なんかが開発に挑んで、一応完成させてはいるけど……専門家やら研究者やらが寄り集まって知恵を尽くして、出来上がるのはこれだから」
カタ、と打鍵音が止まる。キーボードの奥のモニターに、バラの写真がずらりと並んだ。鶴屋は首を前に出し、液晶の中の花々を見つめる。項垂れていたコジロウも、う、と呻いて顔を上げた。
「これ、は……」
「……紫、ではないか?」
「だよね」
モニターに映るバラはどれも、明らかな薄紫色をしていた。じゅうぶん美しくはあるが、「夜明け前の晴れ空」にはとても見えない。呆然とする鶴屋たちに、天使は軽やかな声で続ける。
「でも、これが現状における人類の限界なんだ。白いバラに青い水を吸い上げさせるとか、他色のバラを脱色してから染め直すとか、そういう手段を講じれば君らが想像しているだろう真っ青なバラも作れるけど。でもそれは、あえて幼稚な言葉を使うなら『ズル』に当たってしまうわけで、それをあの総長に献上するのもね」
「考えられぬな」
コジロウは肩を落とす。鶴屋もまた、谷底に落とされた気分だった。裏路地のエリート技術者にも、表の世界の研究者にも作れないバラ。そんなものを自分が手にできる気はしなかった。
輝いていた「内定」の文字が、リニアモーターカーめいた速度で遠ざかる。俺にどうしろっていうんだ! そう叫ぶ気力ももう湧いてこない。足にコツリと何かがぶつかり、見下ろしてみるとストロングチューハイの空き缶だった。もう何もかも最悪だ。
一方天使は、ふたりの絶望もどこ吹く風だった。傍らの棚からはんだごてを取り出し、作業の準備をし始める。
「ま、そういうわけだから、ごめんね。僕にも僕の仕事があるんで」
「……力を貸してはくれぬか?」
にべもない技術者を、侍はそれでも諦めなかった。が、粘り強さというのも万能ではないのが難点だ。
「あはは、お断りします」
天使は愛らしい微笑みで、コジロウをあっさり突っぱねた。パンフルートにも似た声が、そのまま滑らかに連ねられる。
「貧乏侍からの報酬で青いバラなんて作るより、もっと採算のとれた仕事をたくさん抱えているものでね」
そう言って、天使はふたりに背を向けた。血色のいい唇から放たれた血も涙もない断り文句に、鶴屋は気が遠くなる。ぐうの音も出ない、とはこのことだった。コジロウもまた蒼白になり、よろめくように後ずさって、床に転がる六角レンチをしたたかに踏む。痛みにパクパクと口をわななかせる姿を、鶴屋は虚脱感と共に見た。
そうするうちに「さようなら」と熱したはんだごてを突きつけられ、ふたりはマンションを逃げ出した。ぼんやりとしたまま歩道に立ち、顔を見合わせる。コジロウの出で立ちをチラチラと見る通行人を見送ってから、鶴屋はやっと舌を動かせた。
「ど、どこが『天使』なんですか、あの人」
引きずり出したのは怒りの声だ。絶望が遅れて沸騰して、煮えた苛立ちに変わっていた。汚部屋でストロングチューハイを飲んで焼きごてを振り回す天使なんて、この世に存在してたまるか。膨らむ悔しさを掻き消すように、心の中の自分が叫ぶ。対するコジロウは未だ真っ白な顔をして、唇をひくひく引き攣らせていた。
「是非もない。それがしは神に見放されし侍ゆえ、天使にもまた然るべし」
「だからってひどいですよ、ちょっと神に見放されてるくらいで……」
自虐をそのまま肯定し、コジロウを俯かせる鶴屋。しかしもう、侍のことなど目に入らなかった。眉間にシワを刻み込み、暗い思考に沈んでいく。
自分もきっと、神に見放された人間だ。陰気で孤独で臆病な、どこまでも弱い人間だ。だから内定を目指そうと、ほんの少しでも強くなろうとしているのに、どうしてこんなに上手くいかない? 神様でさえ、強い者しか助けないのか。苛立ちがゴポゴポと音を立て、温度を上げていく。鶴屋は無意識のうちに、親指の爪を歯で削っていた。
「まぁ、なんだ、繰り言を言うても事は進むまい。ここはひとまず昼餉にでもして、今一度落ち着こうではないか。のう」
宥めるように言い、コジロウが鶴屋の肩を叩く。軽い衝撃に我に返って、鶴屋はしぶしぶ頷いた。実際、腹は減っている。空っぽの胃に意識を向けると、徐々に苛立ちは薄れていった。明るい歩道を歩き出す。裏路地よりも爽やかな空気に、肺を満たされる。
「ツルヤよ、それがしはな、うまいラーメン屋を知っておるのだ!」
「ラーメン、ですか? 食いたいです」
「であろう、であろう! かの店の味噌ラーメンはまっこと絶品だぞ! そのぶん、ちと値は張りおるが」
「え、だ、大丈夫なんですか」
「なっ何を言うか! 大丈夫に決まっておろう。そも、今日はおぬしに奢ってやろうと思うておったのだ!」
「あ、そう、なんですか? それはありがたい、ですけど」
「う、うむ! そうであろう……」
「……あの、貧乏って言われたの、やっぱり気にしてます?」
「ばっ馬鹿を言うでないわ!」
他愛ないやり取りを交わしながら、ふたりは残暑の街を行く。平日の昼間は人通りが少なく、しかしその中でも、侍は注目を集めていた。が、コジロウはまるで気に留める素振りも見せない。それが鶴屋には不思議だった。
鋼の心臓を持つタイプにも見えないが、この種の視線には苦しまないのか。あるいは、すっかり慣れてしまっているのか? というかそんなことよりも、隣を歩く自分のほうが耐えられなくなってきた。羞恥のせいか、体も熱くなってきたし……ん?
ふと違和感に気づき、立ち止まる。「いかがした?」と振り向くコジロウにも構わず、スラックスのポケットに触れた。体が熱いのではない。このポケットの中が熱い。ごつごつとした感触が、薄い布越しの指に触れる。ポケットに手を滑り込ませ、イチゴ大の熱源を取り出してみる。
隕石の欠片が、またしても銀に光っていた。
「おいツルヤ、答えぬか。いかがした?」
鶴屋と隕石を交互に見比べ、コジロウが問う。鶴屋は光と見つめ合ったまま、答えた。
「これ、勝手に光り出したんです。撫でても触ってもいないのに」
「なぬ?」
コジロウが怪訝な声を出す。鶴屋もまた、目の前の輝きを疑っていた。
隕石はなぜ、突然光り始めたのだろう。自分の体の一部であれば手でなくとも、直接触れずとも光るのか? あるいはもともと、自分とは何ら関係なく光るものだったのか? これまではただ偶然に、撫でたタイミングと重なっただけか。考えているうちに「見せてみよ」とコジロウが歩み寄ってくる。彼に隕石を見せるべく、鶴屋は手元から顔を上げた。
と、侍の狭い肩幅の向こうに、キラリと鋭い光が見えた。
秋の陽が照らす景色の中で、その光だけが妙に明るく浮いている。自動車のウインカーや電光看板などとは違う、くっきりとして自然な光だ。
何かおかしい。焦りにも似た直感を覚え、鶴屋は唾を飲んだ。眼鏡の高さを直し、目を凝らす。
その光は歩道の先、学習塾とドラッグストアの狭い隙間にあった。スパンコールを散らしたような、チラチラとした銀色の輝き。それはどう見ても隕石の光と同じもので、その銀色の向こうに、何やら鮮やかな色が見える。凝らした両目をさらに細めて、鶴屋はその色を確認した。
そして、呼吸を忘れる。
それは鮮やかな青だった。深く、どこかしっとりと湿った、眩いほどの強烈な青。
「あ、あ」
喉が急速に乾いていく。鳥肌が立つような喜びと、足が浮くような驚愕が全身を駆け巡る。この感情を表現したくて、大声を出して飛び跳ねたくて、だがどちらもできないほど体中の筋肉が混乱していた。体のすべてが思い通りに動かせるようで、しかしその実、関節のひとつも動かせない。「おいツルヤ、しっかりせぬか!」コジロウに肩を揺さぶられてようやく、腕だけが動くようになる。
「あれ」
指差すと、コジロウは素早く振り返る。その肩の向こうにあるものから、鶴屋もまだ目が離せなかった。
「……あ!?」
夜明け前の晴れ空のような、真っ青なバラが一本、光を纏って咲いていた。
「きっ」
コジロウが声を裏返し、鶴屋に向き直る。その目は瞼がなくなるほど開かれていた。
「気づいておったのなら早う言わぬか! 何をぼやぼやしとるのだおぬしは!」
「だってこんなの、び、びっくりしちゃうじゃないですか」
「ええいもうよい、行くぞ! とっとと摘み取って総長へ献上するのだ!」
長髪を翻してコジロウは走り出す。鶴屋は一秒ほどぼんやりとしてから、慌てて隕石を仕舞い追いかけた。コジロウは相変わらず鈍足だが、鶴屋の足も固まっていて上手く地面を蹴ることができない。頬に生ぬるい風がぶつかり、今度こそ体が熱くなっていく。徐々に近づいてくるバラに、充血した脳が動き出す。
なぜ青いバラが咲いているのか、なぜ隕石は光ったのか、バラと隕石に関係があるのか、隕石がバラを連れてきたのか? あのバラは本当に、摘み取ることができるのか。いや待てよ、そもそもバラとは、どうやって摘むものなのか?
「あっ、あの、バラって、普通に手で摘めるものなんですかね!?」
「なぬ!?」
疑問をそのまま口にすると、コジロウはまた素っ頓狂な声を出した。足を止めることなく、首だけで鶴屋を振り返る。
「バラは、手では摘めぬと言うのか!?」
「い、いやなんか、ハサミみたいな刃物で切り取るイメージが……あっコジロウさん、刀!」
鶴屋も走り続けたままで、コジロウの腰を指差した。そこには昨日と同じく、臙脂色の棒が差さっている。が、どういうわけか侍は激しい動揺を見せた。
「なっ、そっそのそれは、あの、すまぬ!」
「え、何が……」
「これは、は、刃物ではないのだ!」
「はぁ!?」
コジロウはバタバタと走りつつ、腰から「それ」を勢いよく抜く。高く掲げられたその棒を見て、鶴屋は愕然とした。侍が腰に差すのは刀。そんな先入観にとらわれていたが、よく見てみればそれはこれっぽっちも刀ではなかった。
「そ、それ、突っ張り棒じゃないですか!」
「つつつ突っ張り棒ではないわい! 物干し竿と呼べ、名刀・物干し竿と!」
と、その瞬間、前方に小さな人影が見えた。「ああっ」鶴屋が声を上げると、「む!?」と侍も立ち止まる。「今度は何だ!?」悲鳴のように叫び、コジロウは再び前を見る。「あっ!」
ふたりが見つめる先には、小柄な男が現れていた。グレーのセーターに身を包んだ、決して若くは見えない男だ。学習塾とドラッグストアの狭い隙間、その奥から駆けてきた男は、青バラの前で立ち止まる。そしてそのまま、鶴屋とコジロウに背を向けてしゃがんだ。ほんの一瞬、静寂の間が空く。それから男は立ち上がり、再び隙間の奥に消えた。
鶴屋とコジロウは、その男をじっと視線で追う。見えなくなるまで見送って、それからゆっくりと、狭い隙間に視線を戻す。
バラの花はもう、跡形もなく消えていた。
「あぁーッ!!」
コジロウが叫び、虚しく残された茎に駆け寄る。鶴屋も侍の隣へ走った。輝きを失った細い緑を、ふたり並んで覗き込む。
「あやつ、手で摘んでいっておるではないか!」
侍の嘆きに、鶴屋も血の気が引いた。茎の断面はギザギザとして、明らかに引きちぎられている。ハサミや刀など使わなくとも、バラを摘むことはできたのだ。そうだったのか、と焦点のズレた衝撃を覚え、それから遅れて罪悪感に襲われる。
ハサミの話などしなければ、先に摘めていたかもしれない。あるいは「あぁっ」と声を上げなければ、コジロウは立ち止まらなかったかもしれない。そもそも男をただ見ていないで、殴りかかってでも止めていれば、こんなことにはならなかったかも。
考え出すと止まらなくなる。せっかくの青いバラが、自分の間抜けな行いによって台無しになってしまったのだ。今からあの男を追ったところで、自分たちでは追いつけないだろう。きっともう二度と出会えない、奇跡に満ちた青いバラを、永遠に失ってしまうなんて。じゃあ一体俺の内定は、人生はどうなる? 焦り、恐れ、怒り、憎しみ、その他とにかく負の感情が鶴屋のはらわたでドロドロと溶け合い、
「いや、待て」
低い声に釣りあげられた。軋ませていた上下の歯を離し、声の主を見上げる。侍の顔からはいつの間にか、動揺の色が消えていた。その代わり、粘ついた微笑みが青白い膜を張っている。
「そうだ、思い出したぞ。それがしはあの男を知っておる。あの者はマントル。『代行屋』を生業とする、裏路地の弱き者どものひとりよ。一度だけだが、しかとすれ違うたことがある。それはまさしく、あの卑屈な面構えであった。あぁ、よく覚えておる」
そう言って笑い、コジロウは鶴屋に目を向けた。どこまでも頼りなく、陰気で、嫌な予感だらけの緊張感に鶴屋の喉が硬く鳴る。
「案ずるな。我らはまだまだ終わっておらぬぞ」
九月中旬の陽光の下、侍の笑顔だけが暗く、影に覆われたように見えた。に、と笑う歯並びを見ながら鶴屋は、空っぽの腹を手のひらで撫でる。
味噌ラーメンは、しばらくお預けになりそうだ。
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