第30話

 狼について行った先は山奥の広場だった。洞窟の前に広がる一部だけ開けた草原。人払いは済ませてあるのだろう、人の気配は一切ない。……そこは流石に、連盟の魔術師と言ったところだろう。

「てめェもモチベーション上がらねェだろうから、教えてやるよ。……蝙蝠はあの洞窟の中だ。会いに行きたければ──」

 言いながら、狼の全身が変化し始めた。全身の筋肉が、骨が肥大化し、筋骨隆々になっていく。見えている皮膚に太く鋭い毛が生え、全身を毛皮が包み込み……"狼"は、人狼のような姿に早変わりした。その姿に、小早川さんの狼を見る目が少しだけ変わったのも見逃さない。……小早川さんは俺が狼より身体能力が高いと言っていたが、それは彼らがパートナーを組んでいた頃の話。今は身体能力が大幅に上がっている可能性もある。

 さっきの小早川さんへの攻撃も、目で追えないということはなかったが、本気じゃなかった可能性だってあるのだ。……もしかしなくてもピンチだ。

「──俺の死を、踏んでゆけッ!」

 叫ぶと同時、狼は一歩を踏み出した。

 なるほど──これはヤバい!

 その初速は音速を超え、遅れて地面を蹴った衝撃音が聞こえるほどだ。

 無論、俺には短剣を取り出す時間もなかった。

 自然、俺の全身に、魂から漏れ出る少ない魔力を巡らせ──狼の攻撃を先読みして、両腕を胸の中心で交差させる。

 なんとか狼の伸ばしてきた掌を受け止める──が、その速度と威力に弾き飛ばされた。

「……グゥッ!」

 防御してなかったら、一撃で心臓を貫かれていたであろう攻撃。両腕のヒビが入ったような痛みを無視して、狼の追撃に備える──暇もなく、音より早く近づいた狼の蹴りが鳩尾にクリーンヒットした。

 遅れて、空気を裂くような音が俺の耳に届くと同時、衝撃波が体を遥か彼方に突き飛ばした。ソニックブームという奴だろう、純粋な打撃で、俺は圧倒されていた。

 飛ばされた先で、なんとか着地。血反吐を吐き捨て、短剣を取り出した。

 敵との距離、目算で50メートルは離されてしまった。けれど──狼の速度を考えると、1秒の猶予もない。

 見えたわけじゃない。音が聞こえるわけもない。けれど、6分の1秒のタイミングで横に飛び込んで回避し、なんとか怪我は脇腹に少し負うだけで済んだ。──それが失敗だったのは、考えるまでもない。

 音速を超える速さ故に、狼は慣性で簡単には止まれない。

 それでも、さっきより単純に短い距離を狼は追撃してくるのだ。

 次の攻撃はかわし、その次もなんとか避けることができた。けれど、回避できたのはそこまでだった。

 音速を超える速度の一撃が、顔に向かってくる。避けられないのが分かって、最低限首の保護のために顎を引く。狼の意図通りなら頬を打ち抜いたであろう拳は頬骨を打ち抜き、骨の折れた嫌な感覚と鈍い振動で体が揺れる。けど、揺れただけだ。さっきまでのように弾き飛ばされることもなく、俺はその一瞬の隙で狼の懐に潜り、狼の腕に右の拳骨を振り抜く。狼の右腕に防がれてしまうが、その間に右脚を狼の後首に回して左右の脚で組み付くと、そのまま振り子の要領で投げ飛ばし、地面に叩きつけた。

 物理攻撃は効果が薄いのは、さっきの拳骨で実証済みだ。俺は短剣のスイッチを入れながら狼の頭上に立つと、その凶器を頭蓋に振り下ろす。瓦割りのそれを、狼は左手を咄嗟に犠牲にして受け止めた。

 短剣が握られる。反魔力の激痛が迸るはずなのに、それに臆しないかのように狼は刀身を握りしめる。ギチギチと短剣は嫌な音を立て始めている。

 これを失うことだけは、避けたかった。

 それは魔女を倒す武器だとか、そういう話だけじゃなくて──。

 俺はさらにもう一度、通算六度目のスイッチを押し、反魔力の出力を上げて狼の手から短剣を逃れさせた。

 狼の左手に呪いのような赤い火傷が残り、そこから人狼化が解け始めている。次第に反魔力は狼の腕をそのまま侵蝕して、その魔力を奪っていくだろう。

 触れられたら負け──それは何も俺に限った話ではない。向こうもまた、同じ条件で戦っていたことを今更に思い出す。……もはや、雌雄は決した。命を取るまでもない。

 左腕を奪った以上、俺の勝利は決定的。──されど、戦いは終わらない。

 離れて様子を窺っていると、ゆらりと幽鬼のように狼は立ち上がった。反魔力が半身を蝕んでいく。それでも狼は、立ち上がって右腕を前に突き出し、構えた。

 ここから先は、無駄ですらある。……それでも、戦わないわけにはいかなかった。それは、彼の意地だろう。……俺もそれに応えるべきだ。

 音速を超える速度は健在。狼は音より早く俺に詰め寄るも、左腕の人狼化を失っていることで、バランスを上手く取れなくなっていた。右に重心が寄っている。全身のバランスが崩れ、前に出すぎた狼の右腕を横に払い退けると、胸の中心に左拳を叩き込む。

 狼は魔女じゃないから、核も存在しないだろう。故に胸は弱点とは言えないが、それでも俺の一突きは狼の全身を震盪させた。喀血し、反吐を吐いて──意識を失い、地面に倒れた。

「近江くん!」

 勝負の終わりを見届けて、小早川さんが俺の元に駆け寄る。

 治療しようとしてくれてるのだろうが、幸い、俺の方に怪我はあまりない。頭蓋の痛みも、魔力によって即座に回復できてしまった。短剣のダメージはデカいが、あと一、二回の戦闘なら持つだろう。

 地面に倒れる狼は、気絶したまま泣いていた。狼の右手の先端から、液体のように溶けていく。一度見た現象が──魔女化が、起こっている。

 小早川さんは、それを認めて、呟くように宣言した。心なしか、その肩は落ちているように見える。

「……狼の魔女化を確認。これより、粛清する」

 その言葉は、冷たくはなかった。

 パートナーに対する、慈愛に満ちた、お疲れ様と労わるような宣言だった。

 狼は言った。

 魔女化した小早川さんを殺す名誉は、重責は自分のものだと。

 その真の意味を、ここにきてようやく理解した。

 魔女となった魔術師がパートナーに殺される。それは、死力を尽くした魔術師にとっての最大限の労いなのだ。

 魔術師が魔女となったパートナーを殺す。それは、相方への最後の感謝であり、鎮魂だ。

 小早川さんが指を鳴らす。瞬間──彼女の反魔術は十字架の形を取って、狼の胸の中心を貫いた。

 狼は、魔力の失われた左腕を残して粒子に変わり、宙空に溶けて消えてった。

 その光は、すごく美しくて

 同時にその美しさは、すごく残酷に思えた。

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