俺と佐倉と空飛ぶ少女と
雨後野 たけのこ
第1話 「こだわりのコーヒーも付いてくるよ」
耳元でけたたましく鳴るアラームによって、甲太郎は眠りから覚めた。
枕元に手を伸ばし、アラームを鳴らし続けるスマホを持ち上げる。ねぼけ眼が徐々に開いていき、画面に表示された時刻を捉える。ぴったり午前七時。それ以上でも、以下でもない。
即座に解除ボタンを押し、アラームを止める。スマホをベッドの上に放り投げ、布団を深くかぶり直し、たとえ世界が滅んだとしてもというぐらいぎゅっと目を閉じる。全身がけだるい。睡眠不足のためだ。昨夜、自分自身で設定した。
半覚醒状態の甲太郎は、ベッドに気怠い体を起こした。
寝ぼけ眼を擦りながら立ち上がり、カーテンを開ける。暗い室内に光が差し込み、甲太郎の体内時計が正常に調整されていく。寝間着がわりのジャージを脱いで制服に着替え、部屋の扉を開ける。
部屋を出て階段を降りる途中、甲太郎の嗅覚は香ばしい匂いを捉えた。それは階下から立ち昇ってきていて、一段ずつ降りるたびに匂いは強まっていく。
甲太郎はリビングの扉を開ける。
すぐ目の前にはダイニングテーブル。その上に、キツネ色に焼けたトーストと、カリカリに片面焼きされた目玉焼きの皿が並んでいた。
甲太郎が思わず口に出すと、その声に反応して、テーブルの手前側に座っていた少女がくるりと振り返る。
「あ、おはよー甲ちゃん」
「おはよう、理緒。朝飯ありがとうな」
甲太郎が妹ーー理緒に答えると、
「いいよ、今日はわたしが当番だし。
それより、熱いうちに食べよう。
今日はね、トーストと目玉焼き。
さらに今ならこだわりのコーヒーも付いてくるよ」
「こだわり? 良く分からないけどくれ」
「はーい、じゃあちょっと待っててね」
言って理緒はすっと立ち上がり、ダイニングキッチンに向かう。
そして三十秒もせずに戻ってくると、テーブルについた甲太郎の前に湯気の立つコーヒーのカップを置いた。
「おっ、予想外に早いな」
「インスタントだもん」
「そうか。こだわりは?」
「硬度50の軟水を85℃に調整して使い、マイルドな味わいと適度な酸味を引き出しました」
「おお、ガチなやつだな」
「ちなみに粉は特売」
「画竜点睛を欠くってこういう感じ?」
「苗が売ってなくて……」
「まあ美味いよ。美味いけどさ……」
甲太郎はコーヒーを啜る。
「良かった」
そう言ってトーストを齧る理緒は、二年前まで甲太郎が通っていた中学の制服に身を包んでいる。
黒髪を綺麗に揃えたセミショートと、可愛らしい印象を与える大きな目。
中学二年生の平均よりやや低目の背丈。
兄である甲太郎から見ても、端正な容姿を持っていた。
二人で朝食を食べ進める。
その途中、皿の上のベーコンエッグをいじりながらふと顔を上げた甲太郎は、
妹に尋ねた。
「そういや、父さんから連絡は?」
「んーと、あったよ。朝五時に」
「相変わらず早いな。
俺は将来、絶対に船員なんて職業は選ばないようにするよ。
特に、世界一周旅行の船のはな」
「私も。本人は相変わらず楽しそうだけどね」
「九ヶ月も放置される子供たちの気持ちになってほしいよなあ」
「ね。
親のいない家、一人で独占できるなんて幸せな体験、思春期にさせちゃダメだよ。
娘がどんな風に育つか分かんないもん」
「目の前で会話してメシまで食ってる俺の存在を抹消したな、おまえ」
先に朝食を終わらせた理緒はテーブルの上に広げた新聞に目を通しつつ、
コーヒーを一口含んだ。
その後、余韻を味わうように、ふう、とため息をつく。
普段は部活の朝練などで早く家を出てしまう妹なので、
このように余裕のある姿を甲太郎が見るのは久しぶりだった。
「理緒、今日は朝練無いのか?」
「うん、今日は休み。
春休みは毎日やってたしたまには休みがないとね」
「そうか」
「甲ちゃんは結局、今年も部活やらないんだね」
「二年目から入るのはきついだろ、まあそもそもやる気も無いけど」
ふーん、と呟いて理緒はぺらりと新聞をめくった。
会話が途切れたので、
甲太郎はベーコンエッグをトーストの上にのせ、
ケチャップをかけて挟み込む。
染み出た黄身とケチャップの赤色が皿の上に零れ落ちた。
と、理緒がそんな甲太郎の手元を見て、
「その食べ方、おいしいんだけど絶対手が汚れるよね」
「多少見た目が汚くても、味が良ければいいのだ」
「彼女の前ではできないね」
「大丈夫、できたことがない」
「勿体ないよ」
「何が?」
「無駄に消費される甲ちゃんの高校生活が」
「朝っぱらからぐさりと突き刺さるようなことを言うよなあ」
甲太郎は呼吸を落ち着けた後、反論する。
「理緒だって誰とも付き合ってないだろ」
「私は部活に全力投球だからいいんですー、充実してますー」
「……」
「ぐうの音を出せ」
「ぐう」
部活も恋愛もしていない甲太郎には他に返す言葉がない。
そもそもこの妹は兄の贔屓目抜きにしても外見がよく、スポーツもできる、
学業の成績も優秀、何より性格が根元から明るい。
やろうと思えば”充実している”と言われる大抵のことができるのは明白だった。
今は一点に集中しているだけ。
全力投球というのは妹の言い訳などではなく、単なる事実なのである。
そんな妹の目線から逃げるように、
甲太郎は赤と黄のコントラストに塗れたトーストをもそもそと齧った。
と、そこで理緒が、
「甲ちゃん、私に似て見た目は普通にかっこいいのに」
「途中で自意識がオーバーフロー起こしてるじゃん」
「見た目は普通にかっこいいのに、ちょっと捻くれてるもんね、性格。
なんていうか、絡みづらい、すごく微妙に。
全然盛り上がれないわけじゃないのが逆に没個性でつらい」
「上げて落とした上にすげえ具体的に批判するじゃん」
「これは批判じゃなくて愛だよ」
くっくっ、と理緒は笑い、
そしてふと思い出したように壁の時計を見上げた。
「あ、もうこんな時間か。
学校行かなきゃ。ごちそうさま!」
「ん? まだ全然余裕だろ。
部活がないならもう少しゆっくりしてけよ」
「今日は日直なの。ちょっと早く出ないと」
食器を下げに行った理緒は、台所でそれを洗い始める。
「甲ちゃんごめん、今日は自分の分だけ洗うね」
「ああ、いいよ。というか俺が理緒の分もやっとこうか?」
「あ、そこまでは大丈夫」
水島家に元々母親はおらず、父親も仕事で長く海外に居る。
そのため、普段から家事は兄妹での交代制が敷かれていた。
今日は妹の番で、そこには当然食後の食器の片づけも含まれているわけだが、
早く出るというならその限りではない。
甲太郎は洗い物を終えた理緒が二階の自室に上がっていく音を聞きながら、
先ほどまで彼女が読んでいた新聞を引き寄せる。
パラパラと流し読みしてみるが、大した記事は無い。
読み物として面白くないので、机の上に放ってテレビを見る。
こちらも大したニュースは無い。
世界は今日も、至って平和で平常だ。
テレビの電源を切って食べ終わった食器を重ねると、
甲太郎も台所に向かった。
***
七時半に、自転車に跨またがって家を出た。
地方都市とはいえ、多少は賑わっている駅前を通り過ぎて十分ほど漕ぐと、
とある大通りから分岐する、やや角度の急な坂道にさしかかる。
甲太郎は一度自転車を止め、大いにうんざりとした気分で先の見えない長い坂道を見上げた。
甲太郎の通う市立橋爪(はしづめ)高校は、その坂の頂上にあるのだ。
ヒイヒイ言いながらその坂を上る生徒達の列に混じって甲太郎もしばらくヒイヒイと自転車を漕ぐ。
と、急にスッと道が広がると同時に、その向こうに比較的新しい校舎の形が見えた。
吸い込まれるように校門を潜り抜け、本校舎に隣接する駐輪所に自転車を停める。
その後、昇降口で靴を履き替えて三階へ上る。
後ろ側の扉から教室に入ると、室内には八時の喧騒が膨らんでいるのが見て取れたが、甲太郎はその輪には加わらず(加われず)、極めて自然な、空気のような振る舞いで窓際にある自分の机に辿り着いた。
椅子に腰掛けながら机の脇に鞄を引っ掛けると、流れるように机上にうつ伏せになり、腕時計を一瞥(いちべつ)する。
授業が始まるまで、まだ幾らかの時間があった。
特にすることもないので、そのまま突っ伏した体勢でぼんやりと窓の外を眺めてみる。
外の景色は見渡す限り緑色に染まっていて、甚(はなは)だ見通しが悪い。
校舎の三階に届くほどに背の高い木々が鬱蒼(うっそう)と生い茂っているのだ。
橋爪高校の校舎が建つ高台の裏手には大森林と呼んでも差し支えないほど深い森があり、
通学路の長い坂道といい、つくづく生徒に優しくない学校である。
そんなことを考えていた甲太郎の背中を、コツンと叩く感触があった。
「よっ、甲太郎おはよう」
見上げると、そこにいたのは、
周りと比べても一際背の高い男子だった。
名前を牧原十瑠(とおる)と言う。
鋭い眼光が特徴的で、薄めの顔立ちにシャープな眼鏡を掛けており、
一見すると知的なエリートタイプといった風貌である。
が、別に中身まで外見通りというわけではなく、
どちらかと言えばワイルドで積極的なタイプなのだが、
初対面のやつはよく騙される。
また、逆にそのギャップがいいのだと言う者もいる。
実際よくモテる。
「よう牧原、何か用か?」
「水島お前そういうとこだぞ。
なんでただの挨拶にいちいち用事求めてんだ」
「そういう性分なんだよな、これが」
「改善しないと友達無くすぞお前」
「もともとそんなにいないんだよな、これが」
「なるほど。
ところで失うことと初めから持ってないこと、人間にとってどっちがより大きな不幸だと思う?」
「やめろ、悲しくなる」
十瑠とは、入学時のクラス分けで隣の席になった時からの縁である。
どちらが先に話しかけたかなんて覚えてはいない。
自分と比べるとややノリが軽すぎるところがあるが、
基本的に気の合うやつだと甲太郎は認識していた。
「水島さー、彼女とか作んねえの?」
「お前俺の妹?」
「?」
甲太郎と理緒が朝に交わした会話など知る由もない十瑠が、
甲太郎の返事に対しあからさまに疑問符を浮かべる。
なぜ今日はこの手の話題を立て続けに振られるのだろうか、
と
「牧原こそいないだろ」
「今バイト忙しくて暇ないわ」
「バイト?本屋でバイトしてたのは知ってるが」
「先週からそこにコンビニと引っ越しと花屋が加わった」
「何がそんなにお前を突き動かすの?」
「金」
身も蓋もない答えである。
十瑠としばらく談笑していると、
教室前方の扉がゆっくりと開き、担任の教師が入ってきた。
またな、と言いながら十瑠は自分の席に戻る。
授業が始まる。始まったと思えば終わっている、その繰り返し。
いつの間にか甲太郎は放課後の教室の中にいた。
室内に残っているのは自分のような暇人ばかりである。
十瑠はチャイムが鳴った瞬間にはもう既に教室にいなかった。
「ん?」
ふと、左手に気になるものが見えた。窓の外に広がる森。
木々の隙間に黒い何かが動いている。
それは何か布のようなものをひらひらさせながら、ふわりと浮かび上がった。
何の頼りも無い空中を自由に泳ぎ回る姿が見える。
それは静かに森の奥へと進んでいた。
(あれは、なんだ)
最初は鳥か何かだろうと思った。
だが、よく見ているとそれが鳥の大きさではないことに気付く。
布のようにひらひらして見えたのは、チェックのスカート。
そこからすらりと長い足が伸びている。
黒く見えたのは、正しくはその髪の毛。
腰まで伸びた長い黒髪がゆらゆらとなびいている。
灰色のブレザーに包まれたその身体は、
明らかに重力を無視して浮いていた。
(……人間?)
冗談だと思った。何かの見間違いだろうと。
だが瞬きを繰り返すほどその映像は鮮明になり、
驚きと共に脳に焼き付いていく。
結局、
軽やかに飛ぶ"それ"が森の暗闇の中に溶け込むように消えていくまで、
甲太郎はずっと窓のそばに立ち尽くしていた。
その日、水島甲太郎は空飛ぶ少女を目撃した。
***
甲太郎は鞄を掴み教室を飛び出した。
そのまま走って階段を下り昇降口まで向かう。
逸る手つきで靴を履き替え、外に走り出る。
急な運動で息の上がり始めた身体を自覚しながら校舎裏に回る。
目の前には背の高い木々、無造作に生い茂る草。
少しせき込みながら記憶を思い返す。
髪に隠れて顔は見えなかった。
しかし着ていたのは灰色のブレザーにチェックのスカート。
あれは間違いなくこの橋爪高校の制服だ。
それを身にまとった女子生徒がまるで鳥のように宙に浮かび、
枝葉の隙間を潜り抜け、この森の中に消えていった。
(まだこの奥にいるか……?)
甲太郎は森を観察してみる。木々に夕日が遮られ、見通しは良くない。
入り込むにも草が生い茂っているので、容易にはいかないだろう。
しばらく眺めていると、甲太郎は突破口を発見した。
草が生えておらず土がむき出しになっている、獣道のようになっている箇所がある。
それは細い道筋だったが、森の奥に繋がっていた。
だが、甲太郎が気付いたのはそれだけではなかった。
(これは……足跡があるな……)
土の上には、はっきりしない靴跡のようなものが残っている。
古いものか新しいものかは判断がつかないが、誰かがその道を通っていることを確信した。
甲太郎はその跡に従い森の中に足を踏み入れた。
少し入り込んだだけなのに、空気が完全に変わったのが分かる。
春らしい陽気から、涼しさと微かな水分を感じる空気へ。
神聖性の欠片のようなものすら、甲太郎は感じていた。
転がる枝がポキポキと音を立てて靴底で折れていく。
この森は背の高い木が多かった。
見上げると、7、8メートルの高さに縦横無尽に枝葉が伸び、
地面近くには歩いていて邪魔になるくらいに無造作に草が生えている。
上と下を阻む自然の障壁。
宙に浮く女子生徒はちょうどその中間を飛んで行った形になるようだ。
獣道に沿ってしばらく歩いていくと、前方に開けた場所が見えた。
茶色い地面に枯れ枝や落ち葉、木の実などが散らばっている。
広場の中心には腰ぐらいの高さのある大きめの石が鎮座していて、夕日がそこに差し込んでいた。
足跡を追ってきた甲太郎は、驚いて立ち止まる。
その石の傍らに一人の少女が立っていたからである。
標準より低いであろう背。色の抜けた肌。
夕日に照らされてキラキラと光る黒髪はセミショート。
驚くほど痩せており、華奢、というレベルを超えて細く、
言い方は悪いが、まるで病人のようだと思う。
儚げに開く大きな目と、小さな唇、物憂げな表情がそれをさらに印象付けていた。
衣服は灰色のブレザーにチェックのスカート。彼女も橋爪高校の生徒なのだろうか。
少女は持っているスマホをじっと見つめ、動く様子がない。
自分には気付いていないようだ。
このままこうしていても埒が明かないので、甲太郎は少女に話しかけてみることにした。
「わっ」
甲太郎が枝を踏み鳴らしながら近づいていくと、
少女はスマホから目を離して音の鳴った方を向き、驚きの声を上げる。
そして甲太郎の姿を認めると、何やらほっとしたようなため息を一つついた。
「なんだ人かあ」
第一声がそれだった。
「人かあ、ってなんだよ」
「なんか動物でも出てきそうなところじゃん、怖いよ」
「本当に怖がってるやつは最初からこんなところに来ないと思わないか」
「いやあ、こんなに深い森だとは予想外で……」
「ん? 皆知ってるだろ?」
「私、4月から転校してきたからほら」
「ほらと言われてもな……」
そこまで言葉を交わしてふと思い出す。
そういえば、隣のクラスに転校生が来ていたような気がする。
「もしかしてC組の?」
「そうそうよく知ってるね~」
「俺はB組だからな」
「じゃあ同い年か~。あ、私、佐倉陽花ようかです」
「あっ、これはどうも、水島甲太郎です」
佐倉陽花はふと甲太郎の顔を見つめてきた。
なので、甲太郎も陽花の顔を見つめてやる。
たぶん、お互い言いたいことは同じだろう。
「で、佐倉は何でここにいるんだ?」
「あ、先に言われた」
陽花はあ~あ、と首を振った。
こうして話していると、最初の病弱そうな印象とのギャップが激しい。
どちらかと言うと活発なタイプではないだろうか。
「先に聞かれちゃったから答えるとさ……ちょっと探し物してるんだ」
「探し物。こんな森の中で?」
「う、うん」
「転校してきたばっかでここのこともよく知らないのにか?」
「ごめん白状すると空飛んでる人を見たから追いかけてきたの」
「あっ、もう言っちゃうのか」
陽花はちらりとスマホに目を落とし、すぐに甲太郎に向き直った。
「もしかして、そっちもそうなの?」
「まあな。窓から外見てたら飛んでる女子がいたんで、様子見に来た」
「あ~……そうなんだ……よかった……」
そう言うと陽花はしゃがみこみ、膝を抱えて甲太郎を見上げる。
「よかったって?」
「だって、空飛ぶ人間を見ましたなんて、普通にそんなこと言ったらばかみたいじゃん。
同じものを見た人がいて安心した」
「それはそうだな。
俺も見間違いの可能性を捨てきれなかったけど、佐倉の話で自信が持てた」
たしかに陽花の言ったとおりだった。
いくら不思議なものを見ても他人が証明してくれない限り、
自分の妄想に終わってしまうかもしれない。
他に見た者がいるのなら、正直心強い。
「そういえば、佐倉はどうしてここで立ち止まってたんだ?」
「それがさ、見失っちゃったんだよね飛んでた人。ここまでは来られたんだけど」
陽花は森の奥の方向を指さす。
「たぶんあの先かなあとは思うんだけど、これ以上行く勇気がちょっと」
その方向にはこれまで以上に雑草や植物が生い茂り、進むのが困難なのは明白だった。
ましてや転入生の陽花は地理も詳しくないはずだから当然だろう。
「なるほど……」
そしてそれは甲太郎にとっても同じことだった。
姿を見失い手がかりもない今、
あの女子生徒の後をつけてさらに深いところに入っていく、というのは無謀だろう。
「じゃあ一緒に戻ろうぜ。俺ももうこれ以上進む気はしないしな」
「うーん……」
陽花は迷っているようだった。無理もない。
今までの日常に無かった不思議な出来事、それを目撃した彼女を動かしているのは好奇心だ。
頭で分かっていても好奇心は首をもたげてくる。
「そうだね、そうしようかな」
とはいえ、陽花は割とすぐに追跡中断を決め、立ち上がった。
そのまま甲太郎の横を通って高校の方に歩き出す。
辺りもだんだん暗くなってきているし、妥当な判断だと甲太郎は思った。
改めて森の奥を眺める。夕焼けの赤い光が遮られ、暗闇に支配された空間。
こんなところに入っていくとしたら、どんな用事があると言うのだろう。
飛んでいく理由もわからない。本当は自分たちは、幽霊でも目撃したのだろうか。
「帰らないのー?」
後ろから声がかかる。振り返ると、少し離れたところに陽花が立っていた。
待っていてくれた彼女を追い、獣道を戻り出す。程なくしてその小さい背中に追いついた。
「見つからなかったね、結局」
「そうだな」
前を歩いていた陽花が話しかけてくる。
「浮いてたよね、あの人」
「俺ら二人が揃って見間違ってない限りはな」
「ああ、びっくり映像だったなあ。人間て飛べるんだね」
「普通は飛べないと思う」
雑草をかき分ける音が、静かな森に響く。
「制服」
「え?」
「制服、着てたよね」
「ああ、そうだったな」
「てことは、この学校の人ってこと?」
「たぶんそうなんじゃないか。制服を普段から着てる一般人はいないだろ」
「それなら、探せば見つかるのかな」
「どうだろうな。分かってるのは女子だってことと、髪型くらいだし。
佐倉は顔は見えたのか?俺は見えなかったけど」
「ごめん、私も見えなかったんだ。後で確認してみるけど、たぶん映ってないし」
目の前に高校が見えてくる。
「……ん? 確認って何を?」
「動画だよ」
「もしかして、撮ってたのか?」
「うん、スマホで」
「へえ……」
それは盲点だった。
というより、甲太郎が教室から飛び出した時には既にその姿は見えなくなっていたので、
撮ろうという選択肢自体浮かんでこなかった。
「もし良かったら、後で見せてくれないか?」
「別にいいよ。やっぱり気になる?」
「そりゃあ、な」
「ぶれっぶれだから期待しないでね」
話をしている内に、そこはもう校舎の裏だった。
「あああ、靴下がやばい……」
「俺もだ」
草の中を歩いてきたので、靴や靴下はすっかり汚れてしまっていた。
上着にもところどころに草葉の欠片がくっついている。
二人してそれをパタパタとはたき落とした。
「水島くんて、この後何か用事ある?」
スカートの裾をはたきながら、陽花が聞いてきた。
「いや、特にないけど」
「部活とかやってないの?」
「帰宅部なんだ。そっちは?」
「私も何にもやってないよ、転校してきたばっかりだしね。
そっかー、用事無いのか……」
考えるような素振りを見せつつ、上目遣いで甲太郎を見る。
その目つきがあまりに可憐なので、甲太郎は何となくドキリとする。
実際は、身長差があるせいでそうならざるを得ないのだが。
「じゃあ、今からファミレスでも行かない?」
「ファミレス?」
「動画も見せたいし、出来れば見たものについてもっと共有しておきたいもん」
「それは……」
元々、理緒が遅くまで部活をしてくるために、水島家の夕食は遅くなることが多い。
陽花に付き合う時間は十分にあった。
「そうだな。……そういうことなら、行くか」
「やったー、何食べようかな」
夕日が照らす中、二人は並んで歩き始めた。
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