第2話 満たされたい少女


「ねえ」

『何だい』

「わたしのこと、どう思う?」

『そりゃあ、僕の知らない世界を教えてくれるかけがえのない存在さ』

「そっか」

『ご不満かい?』

「不満はないよ。ただ、不思議だなって」


 この声の主に実体はない。強いて言うなら机に置かれた本が正体だが、『僕はトマス。人間だ』と強く言われたので、これを本だとは言ってはいけない気がした。

 とはいえ声だけだというのも味気ないので、雰囲気から彼の姿を想像してみる。


 ――凛とした声、低すぎず高すぎず。けれど子供らしさはない。スラリとした高身長の成人男性、それも雪のように白い肌をした。


「どう?」

『……合ってるのかな。身長の割に細身だと言われるし。肌色は雪に近いと言われればそうかもしれない』


 殆ど合っているも同然と言える、こんな偶然あるんだろうか。何もかもがちぐはぐで不思議な世界だ。


『はあ、早く君の世界に行ってみたいな』

「それはわたしの台詞だよ。毎日が変わらずに終わるだけ」

『それは君が幸せだからだよ。何かに脅かされることもなく、自分らしく在れるからさ』

「そうなのかな。貴方と話すまで毎日がつまらないと思ってた」

『贅沢はね、毎日のように浴びていると当たり前になるんだ。戦場ではカビの生えたパンだってごちそうになる、そう思うと我に返るだろう?』

「経験したことないからわからない。けど、当たり前をありがたく思えって言いたいなら納得はできる」

『そう、僕が言いたいのはそういうことなんだ』


 淡い日差しによって目が覚め、外を眺めながら一日が終わる。今日も白い鳥が空を飛んでいる、雨に打たれて苦しそうに見えた。外に出たいと願う私を拒んでるみたいだ。


「生きるって苦しい?」


 トマスに尋ねると、少しだけ沈黙の後、熱が籠った声でハッキリと答えた。


『いいや、生きることは苦しくない。苦しく思うのは周りが生きようとするのを邪魔するからだ。何の障害もなく生きられたなら、自分のやりたいことに没頭できる。やりたい事が出来たなら幸せになれる。幸せになれば、毎日が充実する』


 それが、たった一つの不幸で全部無駄になる。


「え?」

『どうしたんだい?』

「今、何か不幸がどうって――」

『そんなこと言った覚えはないけどな。気のせいじゃない?』

「……そうだね、ごめん。気のせいだ」


 わたしにとっての不幸は何だろう。

 わたしにとっての幸せとは何だろう。

 ただ一つ言えるのは、ここから出たいという欲求はまだ残っている。それが何故なのかはわからないが、そこにわたしがここに居る理由の答えがある気がした。


 何気ない談笑は続いた。彼はわたしにこの世界がどうなっているのかを事細かく尋ねて来た。

 狭い部屋に一人しかいないこと、窓の向こうには曇り空と郊外の街並みが映っていること。ずっと部屋の中で物思いにふけっていること。思いつく限りに目に映る景色を上げてみたが、どれだけひねっても五個も出せなかった。そんな自分がとてもつまらなく思えたが、それを聞いた彼は何故か心躍るように素晴らしいと口にした。


「こんな世界がいいの?」

『こんなとは酷いな。誰にも邪魔されず誰にも脅かされず思うがままに毎日を生きる。これほど素晴らしいことはないよ』

「そっか。じゃあ、貴方のいる世界は違うの?」


 何となく聞いてみただけだった。しかし、彼は酷く落ち込んだようにこう答えた。


『そうだ、ここは君の世界と違って酷いもんだよ。毎日が誰かの手で歪められている。自由に何かを書くことも表現することも許されないんだ』

「何かを書くって、どういうこと?」

『詩を書いているんだ。旅をしては目に留まったものを書き連ねている』

「へえ、どんなものに惹かれるの?」

『そうだね、例えばカーネーションかな。一輪だと何の変哲もない花だけど、一面に咲く姿を見るとその力強さには目を見張るものがある』

「カーネーション……あの赤いやつ?」

『そうだよ。僕の地元には花畑があってね、そこでカーネーションを栽培してるんだ。その時の景色がとても良くてね』


 そっちの方がいいじゃないか。曇り空なんかよりよっぽど良い。けれど、彼の声はめっきり沈んでいた。


『全部燃えてしまったよ。誰の悪意でもない、自分達の尊厳を守るだなんて勇み足で駆けていった若者達の手でね』

「ここにはそれがないのね」

『そうだよ』

「……聞かせてくれる? 貴方の詩。貴方が見て来たものが想像できるような、そんな詩を」

『……そうだね、いつかその時が来たら』

「わたしじゃ、駄目なんだね」

『まだ、完成していなくて。決して君のせいなんかじゃない』

「じゃあ、わたしを連れてってよ」

『それは駄目だ。あまりに危険すぎる」

「そういうことに、しておくね」

『必ず君に綺麗な花畑を見せてあげる。その時が来るまで待っていてくれ、約束だ』


 約束だなんて寂しい事言って欲しくない。けれど隣に居させてくれだなんて我が儘はきっと彼は望まない。


「そうだね、約束だよ」


 神様、どうか嘘を付くわたしをお許し下さい。彼の苦しみも全てわたしに置いていってください。


 言葉を交わすだけの時間はゆるやかに、しかし確実に消費され、その時はやってくる。


 夜が来た。


「駄目だったかぁ」

「どうしたの?」

「また、会えなかったな。って」

「明日、また話をしよう。僕の見て来た綺麗な自然を聞かせてあげる」


 結局わたしは外に出る事が出来なかった。

 折角色々な話が聞けたというのに今日という日の最後は間近にまで迫って来ていた。待っているだけで良いと言われた。言われた通りにしたらこうなった。

 何もしなかった『わたし』が羨ましかった。楽しいと悲しくなるんだ、必ずやってくる終わりがもっと辛くなるから。


「いつか見せてね。その景色」

『ああ、必ず。君の世界に届けよう』

「嘘つき。会えるのはこれで最期でしょう?」

『それは違う。明日になればまた君と僕は一緒だ』

「……そうだね、さよならじゃないね。また明日」

『ああ、また明日』


 きっとわたしにとっての明日はやってこない。変わらない日常の記憶は残されたとしても、次のわたしは別の事を思うだろう。その日のわたしが何をして何を思ったのか、それはきっと誰にもわからない。だって今のわたしがそうなのだから。


 けれど、それでいい。

 優しい彼の嘘も、今という時間へのわだかまりも次のわたしに託す必要はない。わたしが受け入れて、わたしが終わらせることで、わたしだけの思い出になるのだから。


「あーあ、もっと話したかったな」

『明日もまた話そう、その時の為にもっと楽しい話を沢山用意するから』

「ありがとう、楽しみにしてる」


 ベッドに横たわると、ゆっくりと眠気が迫って来た。

 このまま消えてしまうのはやっぱり怖い。この贅沢な気持ちを引継げれば、夜更かしして耐えられれば。って駄目か、そんなことしちゃ。もし寝相が悪かったら次のわたしが大変だものね。

 明日のわたしはきっと違うわたしだから。


「じゃあ、おやすみ」

『ああ、おやすみ』


 夜を照らす月の光は、ゆっくりと闇の向こうに消えていった。

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