ある老人の話(下)
ただの風邪かと思われたが、何日経っても熱は下がらなかった。
幸い、水は飲めたので大事には至らなかったが、
子供が倒れている間、珍しくも村の者が代わる代わるに見舞いと療養の世話をしに訪れた。
「大丈夫か?」
「体調はどう?」
「大事な村の子供なのだから」
「お前のおかげで、村が救われた」
甲斐甲斐しく世話を焼かれていると、人の温かみに不意に涙が溢れそうだった。
倒れてから1ヶ月して、ようやく熱も下がった子供は水以外のものを口に出来るほど回復していた。
柔らかく煮込んだ野菜と肉のスープは、病み上がりの子供でも難なく噛み切れるほどに柔らかく、久々に口にするという事もあってかこの世のものと思えない美味しさだった。
それからさらに20日経ち、子供はようやく起き上がれるようになった。
何日も寝たきりで弱りきった体は重く、家の中を歩くのにも一苦労だった。大人たちは無理をするなと言ったが、子供は早く獣に会いに行きたい一心で体に鞭打った。
さらに10日、子供は平坦な村の中ならば難なく歩き回れるようになった。
この頃、村に生じた違和感に子供は気付いていた。
見慣れない人間がいる。身なりも良い見知らぬ人間が、村の中を我が物顔で闊歩していた。
なにより、村全体に活気があった。
こぢんまりとした村は穏やかで、陰気とは違うもののもっと静かだったはずだ。
倒れる前とは明らかに違う様子に、子供は戸惑った。
「あの人たちはだれ?」
「ああ、彼らは町の名だたる商人たちだよ」
道ゆく村人に聞けば、そんな答えが返ってきた。しかし、商人というにはやや荒々しい見目の大人も数人見受けられる。なんだか少し恐ろしくなって、子供は目立たないよう物陰を選んで歩いた。
「まさかあんな獲物がいるとは」
「残念ながら、使える部分が少ないのが惜しいところだな。皮でもとれればとても良い値段で売れるだろうに」
「肉質もとても良いのに……一日置くとすぐに腐ってしまうから、食材としても扱い難いのは難点だ」
「生捕りが理想だが、罠からもすぐに逃げてしまうからな。傷は付けられるから、狩れるだけでも幸いだろう」
「だが、角と目玉……それに毛だったか?あれだけでも十分な利益になる」
聞こえて来る会話の全てを理解する事はできなかったが、子供は"村の新しい収入源"の話を聞くたびに落ち着かない気持ちになった。
なにか良からぬことが起こっているのではないかという、漠然とした不安。
子供は無理にでも体を動かして森へ足を伸ばすようになった。
歩きにくい道なき道を何度も転びながら、湖へ向かった。道中、森の気配がどこかおかしい事に子供の不安はさらに濃いものとなった。
木々のざわめきが、遠い。
湖を超えて目的の場所に辿り着いた時、子供は思わず悲鳴を上げてへたり込んだ。
「どうして!どうしてこんなことが出来るの!?」
獣たちの楽園では、彼らが何体も倒れ伏していた。
皆一様に目玉をくり抜かれ、角は折られ、頭髪にも見える毛は剥がされている。縋りつこうとした子供が触れた途端、皮はサラサラと砂のように崩れてしまった。
「ひどい……こんなひどいこと……」
呆然と座り込む子供の耳に、草を踏みしだく音が聞こえた。ハッと顔を上げると、1匹の獣が───間違いなく、子供の友人の獣が茂みから現れてこちらをジィッと眺めていた。
その瞳が、涙で濡れているように見えたのは気のせいではなかっただろう。
子供は弾かれたかのように友人に駆け寄り、その獣の胴に飛びついた。生暖かい、生きた感触。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
子供はひたすらに友人へ謝罪を続けた。
自分が直接何かしたわけでなくとも、その原因の一端を担っている事は明らかだった。今まで誰も知らなかった獣たちを、自分が暴いてしまったのだ。
毎日湖へ向かう子供を、大人が怪訝そうな表情で見ていたのは知っていたのに。
誰かが、きっと獣の存在を知ってしまったのだ。
あの時歌わなければ、あの時友人にならなければ。
───棲家に、案内されなければ。
泣きながら謝罪を続ける子供の背に、獣の手が回された。
「まだ居るぞ!!」
空気を裂く声に、子供の肩が跳ねた。
子供は慌てて友人の体を突き飛ばし、距離を置いた。
戸惑う瞳が子供を見つめている。子供は精一杯の声で叫んだ。
「逃げて!」
途端に、子供の体を誰かが掴んで地面に縫い付ける。
視界に草花しか見えなくなっても、少年は在らん限りの声で叫び続けた。
「逃げて!誰もいないところに、早く!」
「逃げるぞ、追え、追え!!」
飛び交う怒号と、草をかき分ける音。矢が空を裂く細い音まで。
何もできない子供は気が気ではなかったが、荒々しく引っ立てられるとほんの少しだけ安堵のため息をついた。
怒りに顔を染める大人たちの誰の手にも、友人のものは握られていなかったからだ。
子供は村の小さな穴蔵に閉じ込められた。
「なんで邪魔をしたんだ」
「みんなこそ、どうしてあんな酷いことをするの!?」
「酷い?獲物がいれば捕えるのは当たり前のことだろう?それも、こんな辺境の貧しい村が潤うほどの利益を生み出してくれる」
「彼らの姿を見たでしょ?神の獣かもしれないのに!」
「神の獣?」
子供の言葉に、大人たちは声をあげて笑った。
「ただの獣だ。見た目こそ珍妙な、な」
「神の獣なら、既にこの村には天罰が落ちてるだろうさ。だがどうだ?発展しこそすれ、悪い事などなんも起こっちゃいないだろ?」
「お前があの獣たちの棲家を見つけてくれたのは感謝するよ。おかげで、存在を知ることができたからな」
子供は絶望した。大人たちには、何を言っても通じないということが分かってしまったからだ。
獣の情報をもたらした者として、村人は一定の扱いはするつもりのようだったが、子供は放り込まれた穴蔵から出してもらえる事はなかった。
穴蔵の中の生活は窮屈ではあったが、食事は与えられ清潔は保たれ、生きるのになんの不足もなかった。
食事を持ってきた大人から、"獣の末路"を聞いた。
曰く、角は工芸品としても置物としても売れるそうだ。村の細工師も四苦八苦しながら彫り物をしているらしい。素材そのままで、他の町村へも多々出荷されたという。
曰く、目玉は石のように磨けるのだという。磨き切った目は丁度装飾品にピッタリで、指輪なんかに利用されているのだとか。問題は、対の目を引き離すと不幸が起こるため、片時も離れない夫婦用に結婚指輪を作ったそうだ。
近くにあるうちには、指輪は持ち主を強く守ってくれる御守りになるという。長寿を願って送り合う者も出てきたようだった。
曰く、毛は織物にすると剣すら弾くらしい。鎧にも利用されているのだとか。金持ちの好事家が禿げた頭を隠すのに、
そんな話を子供は淡々と聞いていた。
心を掻き乱されるには、過ぎた情報だった。
もたらされる利益で、村はどんどんと発展を遂げた。同時に、僅かばかりに不穏な話題も耳にすることが増えてきた。
曰く、世界が少しずつ闇に沈んでいっているのだと。
村には関係ない、とても遠くの場所の話だった。だからそんな不穏な話題も、遠くの出来事だとして大人は面白おかしく語るのだ。
それが、自らの身に降りかかるまでは。
───終焉は、ある日突然訪れる。
「闇が来た!村が沈むぞ、早く逃げろ!」
唐突に外が騒がしくなったかと思えば、それは悲鳴に変わった。
穴蔵を監視していた大人が慌てて子供を外へ引き摺り出し、当の本人は脇目も振らずに村の外へと逃げていく。状況もわからず放り出された子供は、戸惑うままに村の状況を見回した。
「……ほら、これが天罰でしょ」
湖があった方の森から、煤のような黒い塊が壁となってじわじわと村を侵食していた。塊に触れた木々や家屋は瞬く間に黒に染まり、煤のように崩れ落ちる。
それは、人間も例外ではなかった。
逃げる時に倒れた者が、逃げれるほどに足の速くない老人が、塊に触れて煤と化す。
それはまさに、世界が闇に沈む瞬間だった。
眺めるだけで動こうとしない子供を、誰かが抱えた。
視界の端で白い輝きがチラつき、子供は思わずその姿を見上げた。
「あぁ……」
言葉らしい言葉は出なかった。しかし友人は言葉など介さずとも、言いたいことを理解したようだった。
人に似た腕で子供を抱えて、獣はひた走った。
ただひたすら、闇に背を向けて。
丘を越え山を越え、かつての村が遠く見えなくなっても獣は走った。
子供はそんな腕の中、いつしか獣の無事に安堵を覚えてゆっくりと意識を手放した。
目覚めた時、子供は独りぼっちだった。
全く見知らぬ町、見知らぬ風景。
その片隅で眠り込んでいた。
獣は───友人は、もう傍にはいなかった。
子供は泣いた。涙が枯れるまで泣き腫らした。
もう会えないのだと、漠然と理解した。
共にいるには、獣に対して犯した罪は重かった。
共にいるには、獣はまた命を脅かされるかもしれない。
友人であるままに別れを告げる。
それが、獣の下した答えなのだと。
涙が枯れた後、子供は獣のいない世界で生きていくことを決めた。
自分を生かした獣に報いるためにも、売られてしまった獣の家族の体を探しながら。
それは途方もない旅路だった。
「幾つもの角を埋葬し、幾つもの毛を燃やしました。指輪は全て対を探し、共に眠りにつかせました」
老人は感情の読めない目で歴史官の男を見つめた。
男は、たった今聞いた歴史を飲み込めずにいた。その証拠に書き記さなければいけないペン先は止まり、記録は中途半端に終わっている。
「……数十年前、美しい角を持った神獣が見つかった、という御触れを見た私の気持ちが分かりますまい?百幾十年かけて、
「百……貴方は、いったい」
男が呆然と呟くと、老人はカラカラと笑った。
「言ったでしょう?病み上がりに、この世のものと思えぬ美味さのスープを飲んだと。……まさか、角と目玉"だけ"に不思議な力が宿るなんて都合のいい事はありません」
「まさか、食ったのか……?神獣様を!?」
「さあ?あくまで予想でしかないですよ」
固まったままの男から目を離し、老人は窓から神獣の巣を眺めた。つられるように男も巣へと視線を向けた。
「───神獣と呼ばれるそれが、かつての友人でない事を願いました。友人には、自由な場所で自由に生きていて欲しかったからです」
そこでは神獣が天井を見上げて瞳を閉じていた。
膝をつき座り込んだ姿は神々しくもあり……何処か寂しげにも見えた。
「
老人は、スッと男の手からペンを抜き取った。
動きを止めていた男は咄嗟に反応できず、慌てて取り返そうとする。だが、老人の動きは思った以上に素早く、男はつんのめって転倒してしまう。
若い頃のように動かない老体は、すぐに立ち上がろうにもいう事を聞かなかった。
「指輪は対で残してくださっているようですので、諦めましょう。老体でできる事は限られますのでね。ですが───こちらは、頂いて行きます」
躊躇いなく背を向けた老人が、巣に至る前の扉に手をかける。
男は「待て」というありきたりな言葉しか口にできず、机に手をかけて漸く立ち上がった。
そんな男の姿に、老人は振り返る事なく言った。
「後生ですから、水を差さないでくださいね。……もう会えぬと思った友人との再会なのです」
血を吐くようなその声音に、男はそれ以上動く事はできなかった。
老人が神獣に向かって手を広げる。
それはまるで、旧友との再会の歓びを全身で表しているようだった。対して神獣は、他の老人の時同様……無感動に腕を伸ばす。
無情にも、角が光を放ち始めた。
───老人の唇が、僅かに動いたのが見えた。
その瞬間、今まで感じたことのない眩い光が世界を包んだ。男が目を閉じても光は瞼を突き刺し、溢れ、迸る。
白。
白。
白。
永遠と思われた白い光の奔流。
それは存外にあっさりと終わりを告げた。
眩さが失われ、元の明度を取り戻した世界。
恐る恐る目を開けた男は、巣の中に広がる光景に言葉を失った。
老人は、消えていた。
同様に神獣も、その姿を消していた。
巣の中に残るのは、一本の大樹のみ。
大樹は天井を突き破って大きく枝葉を広げ、空から降り注ぐ光を受けて輝いていた。
どこまでも白く、白く。
優しい輝きは、いつまでも遍く世界を照らしていた。
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