54話 戦う人に栄誉を
「ここは観光名所ではない。船職人の聖域だ。いい年をしてまだそんなことも分からないのか」
シレーネ大叔母様の父親は、彼女の顔を見るなりそう言い放ち、私は背筋にぶわっと鳥肌が立つのを感じた。
フェネストラ商店の支配人は、顔立ちだけならシレーネ大叔母様によく似ていた。特に、針金のように痩せているところと、眉間寄った皺の角度がそっくりだ。
「なんですって! ここはうちの領地です、図々しく入り込んだのはあなたの方だわ、誰が勝手に呼んだんです!」
たちまちシレーネ大叔母さんは眉をつり上げて、金切り声で支配人を糾弾した。
シレーネ大叔母さんのキンキン声に、作業をしていた船大工達が顔をあげる。
支配人は、腐った食べ物に顔を近づけたかのように、鼻に皺を寄せてシレーネ大叔母さんに冷ややかな目を向けた。
「竜のレガリアからご招待をいただいたのを知らされていないのか。相変わらず、家での扱いが軽いと見える」
うわあ、とウィルが私の肩のあたりでふわふわ浮きながら、思いっきり引いた声を出した。
「この人、門番にはすごく丁寧だったのに……」
私も、正直前世の嫌な記憶が勢いよく蘇ってきて、全身に鳥肌が立ち、胃のあたりがムカムカしてきた。
ショーン大叔父さんから何となく聞いてはいたけれど、ここまでとは思わなかった。
「私は伯爵家になくてはならない存在、いわば重鎮です! たかが雑貨商がこのような口を利いて、どうなるか分かっているのでしょうね!」
「たかが雑貨商? 私の仕事は多岐にわたり、もはや扱っていないものはないとすら言えるのに、まだそんな意識でいたのか」
「わかるわかる、手を広げすぎて密輸にまで染まっちゃってたもんね」
「ウィル、しっ」
誰にも聞こえないような小声で王子様を叱って、私は二人の間に入った。
「どうか喧嘩をしないでください。ごめんなさい、シレーネ大叔母様。この人を呼んだのは私なんです」
「なんですって! せっかくショーンが、この男にスペラード伯爵領へ二度と足を踏み入れないと約束させたというのに、何てことをするの!」
きいっと歯ぎしりをするシレーネ大叔母さんにあからさまに背を向け、支配人は急に穏やかで知的な顔で胸に手を当てた。
「私を呼んだ……つまり、あなたが幼き金の雛、竜のレガリアなのですか?」
「はい、ユレイアと申します」
「ああ! あなたがフェネストラ商店の虹の女神なのですね。カテーナ・フェネストラと申します。お会い出来て光栄です」
丁寧な一礼の変わり身は、流石商人と思える見事なものだった。
あからさまに無視をされて、わなわな震えるシレーネ大叔母さんをしみじみ見つめたウィルが「本当にすごい演技力だね……全然王城でやってけるよ」と拍手している。
私は、優しく微笑む支配人の糸目になった目を見つめ返しながら、お行儀の良い子供のふりをして微笑んだ。
「お伝えしたように、これからスペラード伯爵家は、様々な新しい商品を国中に届けようと考えています。これからどんな船が必要か、教えていただきたくて」
「それならば私が適任です! よく呼んでくださいましたね。いや、誰かと違ってあなたは賢い子です。こんな娘が欲しかったものです」
支配人は飛び上がらんばかりに目を輝かせて、舌なめずりしそうな目で周りを見た。
「あそこで作っているのは小型の帆船ですね。幅が中央通りの水路を超えるものは出来ないのは当然でしょうが、街の中に入れなかったとしても、もっと大きい帆船を作るべきです。スペラード伯爵家の船として相応しい姿、というものがあります」
その場合、作るのもお金を出すのもスペラード伯爵家なんだけど。
笑顔をちょっとひきつらせそうになっている私の額近くで、ウィルが「まあ、威厳って馬鹿に出来ないってところは認める」と腕組みしながら渋い顔をする。
「特に、厨房を充実させ、上流の方々にお届けするのでしたら、いっそ船の中に広間を作りもてなした方が、社交をする上では上等かと。私に任せてくだされば、一級品の帆船を作ってご覧に入れますよ」
高らかに自信ありげに語る支配人が、賛同の声を待ち、期待を込めて「いかがですか?」と聞いた。
ウィルが「でも、僕は気に入らないな」とつぶやき、頬に手を当てて首をかしげるので、私は同じような仕草を鏡合わせにして、いかにも素朴なお嬢様という顔で首をかしげた。
「困りました。船のことは皆シレーネ大叔母様に任せておりますので、これが良いことか悪いことか分からないのです」
え、と支配人が目をむいた。
彼の真後ろで唇を噛んでいたシレーネ大叔母さんまで、目を丸くしている。
私はにっこり無邪気に笑って彼女の方へ走って行くと、手を掴んで顔を見上げた。
「どうしましょう、お誘いを聞いてもいいですか?」
「ええ……そんな……まあ……」
一瞬、演技の対応をするべきか、それとも厳しい叔母の顔をするべきか迷ったのか、シレーネ大叔母さんが本格的に戸惑った顔をする。私はかわいい親戚の子供の顔をして、ねえ、とシレーネ大叔母様の手を握ったまま揺らす。
「シレーネ大叔母様、この後どのくらい船が必要なのですか? スペラード伯爵家を守るために、色々教えてくださるって言ったじゃありませんか。この人の言葉は、正しいのですか?」
私の侍女として、未熟な主を指導してくれるのでしょう?
言葉の外に乗せた質問を、シレーネ大叔母様はすぐさま受け取った。
そして、本当に珍しく、何かに怯えるような顔をして、わずかにうつむいて囁くように答えた。
「……間違ってはいません。普通の貴族が事業を行う場合、いずれその規模の巨大帆船が必要になることでしょう。まして、あなたは竜のレガリアです。よその船に招待されるより、ご自慢の船をお作りになって招待してしまった方が、幾分安心でしょう」
いやいや、と混乱からすぐに立ち直った支配人が、呆れたように手を振って寄ってくる。
「レガリア。いいです、いいです。その人に聞いても何もわかりませんよ。どうせ私の意見をなぞるしか」
「まあ! 私は喋っていいと言いましたか?」
まるで深窓の令嬢のように、私は驚いた顔で支配人を見た。
ウィルが「いいよ! その調子だユレイア、それっぽいよ!」と励ましてくれるので、彼がこそこそと耳打ちしてくれる言葉を、自分なりに少しアレンジして無邪気に話す。
「驚きました。スペラード伯爵家の貴族に対して話を遮る商人の方など、今まで一度もおられなかったので……。緊張していらっしゃるのですか?」
爵位の高い貴族に会ったのは初めてなんですよね、とばかりにニコニコ笑えば、支配人の顔が一気に赤くなって、こめかみが引きつった。
「いえ、その。……失礼しました。噂とは随分違うので驚いてしまいまして。彼女はレガリアとあまり折り合いが良くないと聞いていましたから」
「あら……どういう意味でしょうか? もう一度、私にも分かるように教えてくださいな。誰とどんな仲でも、大叔母様がスペラード伯爵家の貴族だという事実は変わらないと思うのですけれど……」
「いえ、その」
ウィルが教えてくれる、貴族流の「もっぺん言えるものなら言ってみろ」はよく効いた。
ウィルが私の見やすい位置で、きょるん、と目をくりくりさせている。
彼とそっくりの顔になるようと努力しつつ、困った顔をしたら、シレーネ大叔母さんが小さくため息をついた声が聞こえて顔を上げた。
シレーネ大叔母さんは、苦笑していた。
痩せて厳しい皺のよった目元をゆるめて、しょうがない子、とばかりにほんの少しだけ、微笑んでいた。
「では、話を続けましょうか」
それから、まるでヴェールでも脱ぐようにすっと表情を引き締めて、背筋を伸ばして私を見る。
「大帆船の建設は必要ではあるでしょう。ですが、それは今ではありません。何しろあなたの考えた料理は既に顧客が日々膨れ上がっています。時間が惜しい。帆船を作っている間に、新たな王が決まってしまいます。ですから、スペラード伯爵領で最も作り慣れている規格品の船を領内の職人を使って急いで作らせ、今あるユレイアの帆船三艘が行っている事業を補助する形にした方が、流行りを逃さず、客も待たせず良いでしょう」
厳しい教師のような、最近ではこちらの方が見慣れたシレーネ大叔母さんの顔に、支配人がぎょっとしたように目を見開いた。
「おまえ……」
「そうなのですか。では、せっかく来ていただきましたけれど、フェネストラ商店さんにはまだ何も頼めませんね」
「そんな、レガリア。彼女の言うことはしょせん貴族の遊びのようなものです。私も船に一日乗ってわざわざ来たのですから、このまま何もなしには帰れませんよ」
ふっ、とシレーネ大叔母さんがおかしそうに笑って支配人を見た。
「あなたの都合など、ユレイアには関係のないことです。伯爵家が話を聞きたいと告げて、商人は話し、その提案に魅力を感じないから断ったというだけ。普通のことではありませんか?」
「なんだと……!」
「それともまさか、私の親戚であるから、必ず仕事がもらえると思っていらっしゃったのですか? おめでたいこと」
今度こそ真っ赤になった支配人が、憤怒の形相でシレーネ大叔母さんを睨んだ。
繋いだ手がわずかに強ばったのを感じて、私はぎゅっとその手を握り込んで励ました。
「まだ話したばかりですもの。きっと、フェネストラ商店は、シレーネ大叔母さんがこれはと思う案を持ってきてくれます。何か思いついたら、またいらしてください」
「えっ、ユレイアまだ機会あげるの?」
「そんな、レガリア!」
支配人の悲壮な声と、ウィルの面倒そうな声は同時だった。
「大型帆船は時間がかかります。今すぐ着手すべきです」
「私は、シレーネ大叔母さんの意見の方が魅力的に感じました」
「では、私にこのまま帰れと?」
「他に案がないのでしたら、そうなります」
私がちょっと手を振ってちらりと目配せをすると、控えていた護衛騎士バーナードが、部下と共に支配人を出口に案内しはじめた。
「せっかくはるばる訪れた客人に、することがこれなのですか?」
「そうですね……。確か、訪れた客人には土産を渡すのが慣例ですよね。一艘、小さな船をさしあげますから、後でお受け取りください」
「一艘? たったの? はあ、それはそれは。どうも」
たった船一艘で何になる、とばかりに往生際悪く居残ろうとする支配人に、護衛騎士バーナードが睨みを利かせて圧をかける。
震え上がった支配人は、どうしても腹の虫が治まらなかったのか、シレーネ大叔母さんを睨んで舌打ちをした。
「育ててやったっていうのに、いい気なものだ」
シレーネ大叔母さんが言い返す前に、私が子供らしくもっと声を張り上げた。
「聞こえませんでした。何かおっしゃっていましたか? もう一度大きな声でどうぞ!」
「あ。いや、いやそれは……」
私の質問は聞こえなかったふりをされ、あまりに正直な私の物言いにウィルが空中でお腹を抱えて笑っている。
それ以上何も言えなくなった支配人は、護衛騎士達に囲まれて、丁寧に造船所の外へ連れられていった。
遠ざかる背中を見送っていると、シレーネ大叔母さんばぽつりと呟く。
「……私達のせいね」
「え?」
「あなたが、あんな理不尽な大人の扱いがこうも上手くなってしまったのは」
いえ、前世の経験のせいと、幽霊の王子様のお陰ですとは言いづらい。
「私は助けてもらったけれど、これはあなたにとっての幸運と言って、いいものかしら……」
何か責任を感じてしまっているシレーネ大叔母さんに、私はニコニコして誤魔化した。
ウィルは陽気にシレーネ大叔母さんの周りをくるりと回って
「決めつけるのはまだ早いよ。ここから、ここから」
などと手を叩いている。
まあ、もしかしたらいつか、理不尽な相手を見るなり、一番扱いやすいタイプだと思って大喜びする日が来るかも知れない。
相変わらず苦手だけれど、少しは戦えるようになったと自分を誇らしく思うかも知れないし、相変わらず逃げ回っているかも知れない。
どうなるかは、まだ何も分からない。
「ねえ、シレーネ大叔母さん。昔、馬鹿にされるのが怖いと言っていましたね。その心は今もお変わりないですか?」
居住まいを正して問えば、シレーネ大叔母さんは、ちょっと驚いた顔をしてから「ええ……」と頷いた。
「では、これからは竜のレガリアが後ろ盾となります。これからは、あのような手合いは、今日のように言い負かしてしまって構いません」
シレーネ大叔母さんの演技はすごい。
でも、演技してたって、傷つくものは傷つくと思うから。
へりくだって馬鹿にされながら利益を集め、一人で戦い続けることが、例えばとても有益だったとしても、どこかで心が削れていく。
どんなに嘘だと自分でわかっていても、素直で柔らかい部分が削れていく。
「シレーネ大叔母様は、馬鹿なんかじゃありません」
愚か者のふりをしてスペラード伯爵領を守り、理不尽のふりをして私を助けてくれた、厳しくて賢い、誇り高い人だ。
ずっと優しい訳ではないけれど、私を一人前の人間として扱ってくれた。
「……勘違いをするものではありません」
けれど、シレーネ大叔母さんの声は固かった。
「私は確かに、今でも馬鹿にされるのが恐ろしい。何よりも屈辱で、腹の煮える程悔しいものです」
「だったら……!」
「けれど、何も得られないならとうに投げ出しています。必要だからやっているのです。弱い者の元に来る愚か者の話をも、私は聞かねばなりません」
必要なのは理解できるけれど、だからって他に人が居ないからと仕事を押しつけるなんて納得できない。
私は拳を握って言い募った。
「ではそれは私がやります。お遊びで口を突っ込む子供になります。いいえ、むしろ私は知らなければならないんです、多くの人達が、今何をして、何を考えているのかを学ばなければならないのです」
一人でなんてやらせない。
大好きだからやっているのならばいいけれど、苦しいのに、悲しいのに、他にやる人がいないからやっているというのだったら、私はせめてその荷を軽くしてあげたい。
「私達は領主一族なのでしょう? ああいった人達が、人を傷つければ損をして、人を助ければ得をする仕組みを作る仕組みを、私達が作れるのでしょう? だったら私、作りたいです」
とっさに口から出た言葉に、何故かシレーネ大叔母さんだけでなく、ウィルまで驚いた顔をして私を見た。
「でも、それにはまだ私、何にも知りません。あの人達のこと、何も知らないのに、作れる訳がありません。だから、私にやらせてください」
二人分の視線に緊張しながら、つんのめるように勢いよく言葉を吐く。
「シレーネ大叔母さんは私に選ばせてくれました。私は、それがずっと嬉しかったんです。だから、同じものをあげたかった……」
そう、これが私の『お礼の品』だ。
この人が馬鹿にされずに済む日々を。一番怖い思いをしなくて済む毎日を、私はシレーネ大叔母さんにあげたかった。
自分の身を削ってスペラード伯爵家のために尽くしてくれている姿は美しいかも知れないが、そんなものより、この人の心の方がずっと大事だと思ったから。
「そう……」
シレーネ大叔母様は、不思議なものを見るまなざしで、しばらく私を見ていた。
何かを堪えるように、ほんの数秒黙っていたけれど、ふいに簡素なドレスの裾をつまんで、王侯貴族の中でも見劣りしないような、美しく気品ある仕草で丁寧に一礼した。
「主人からの贈り物は、謹んで受け取らなければなりませんね」
「そっ……! シレーネ大叔母様! 顔を上げてください!」
小声で叫ぶ私に、彼女はゆっくりと顔を上げ、小さな声で囁いた。
「ありがとう、ユレイア……」
まるで長い長い旅路の果てに、故郷の歌を聴いた旅人のように、歓喜と安堵の滲む声だった。
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