51話 星空で幽霊とダンスを

月の美しい夜だった。

澄んだ銀光は夜空をくまなく照らし、闇に溶ける黒色の城を濡れたように浮かび上がらせている。

私は寝巻のままバルコニーの手すりに両肘を寝かせて頬をつけ、ぼんやりと城下町を見下ろしていた。


「まだ夜は冷えるよ」


ウィルが囁くと同時に、ふわふわと厚手のストールが肩を包み込んだ。

ありがとうと微笑んで腕で布地をからめ、私は苦笑する。


「もう寝なくちゃだめ?」

「ううん。僕ももう少し見ていたいな」


そう言って、ウィルは私と並んでバルコニーの前に立った。


黒翼城が見下ろす城下町には、中央水路沿いにいくつか神殿前に広場がある。

騎士団の中隊が並べる程度の広さで、普段は町民達が憩い、週替わりで市が立つ。

けれども今は、まるで金貨をばらまいたみたいにランタンが掲げられ、領民達が私の帰還を祝っていた。

風に乗ってかすかに歌声や楽の音が響き、歓声が波のように高くなり、低くなり押し寄せてくる。

この調子だと、夜通しでも浮かれ騒いで踊り続けそうだ。


「私達、帰って来たのね」

「うん。ようやく、ね」

「何でだろう。ここに初めて来た時は、なんて陰気な城なんだろうって思ったのに、今はすごく戻って来られて嬉しいの」

「僕もだよ。ずっと過ごして来た王城より、なんだかこっちの方が落ち着くんだ」

「ね、不思議な感じ。一緒に幽霊騒動を起こしたのが、うんと前のことみたい」

「うわあ、本当だ、もう懐かしい!」


大げさに声をあげたウィルがそのまま天を見上げふいに静かな表情になって私を見た。


「ユレイア。明日から、きっと忙しくなるよ。竜のレガリアが、王族の屋敷ではなく祖父の領地に居る。それはね、王冠を届けてくれる金の雛が、立派なお店で飾られているようなものなんだ。店主がどんなに売りませんって言っても、明日から長い長い行列がスペラード伯爵領にできるはずだ」

「わかってる。だからお祖父様も、私をすぐに部屋へ帰してくれたんだと思う。今日だけでも休ませてくれるつもりなんだわ、きっと」


私達は鬼ごっこに勝ったのだ。

まだ、自由に動ける時間を手に入れた。

部屋に閉じ込められることもない。

行きたい場所に行くことができる。まだ。


だとしたら、その間にやるべきことは、山のようにある。


「……ウィル。地震を止める方法、思いついた?」


例えば、もしも回帰した先の私が、ウィルのことを覚えていられなくても、彼が迷いなく歩けるようにする、とか。


「……とりあえず、回帰出来たら一刻も早く即位して神官を増やすよ。番人の精霊が言っていたんだけど、各地に建っている大神殿は、地震を止めるためにあるんだってさ」


ウィルは少し意外そうな顔のままそう言い、私は眉間に皺を寄せて首を横に振った。


「大神殿で祈ったって、地震は来るものよ。地震っていうのはね、大陸プレートが重なったところが……」

「? ええと……大きな地面のお皿?」


ウィルが変な顔をしたので、しまったとこめかみを掻いた。

どうやら自動翻訳がうまくいっていないらしい。今更だけれど、私はこっちの世界の言語を覚えた方がいい気がしてきた。


「ええと、地震はね。深い深い地面の底が擦れあう事が原因で起きているの。だから、大神殿で祈っても意味なんかない。もちろん、祈ることは大切だと思うけれど、それだけじゃ災害は遠ざけられないわ」

「君が言うなら信じるけど……。それじゃあ、君の今まで居たところではどんな方法で防いでいたの?」

「頑丈な家を建てて、いざとなったらすぐ逃げる訓練をして、壊れた街でも何とか生き延びられるようにする、とか」


ウィルはあからさまに嫌そうな顔で、ええっと呻いた。


「大本から止めようって思わないの?」

「だから、人の力ではどうしようもない事なんだって。止まらないから、来ること前提で備えるの」

「そんな。でも、逃げるにしたって、アウローラ王国の周辺に逃げる場所なんてないよ。竜背山脈を越えたら人の住めない呪氷荒野や大凍雪原だ」


地理の勉強をまだしたことがない私は、へえっと声を上げてウィルを見た。


「このあたりだけ暖かいの?」

「うん。回帰の竜の恵みだよ。竜背山脈に囲まれた土地の内側は実りも豊かで風も穏やかだ。むしろ、暖かいからこそ、国が栄えているとも言えるね」

「そう。地熱で暖かいのかなぁ……」


だとしたら、もしかしたら探せば温泉とかもあるかも知れない。

マグマと水脈が地上近くまで来ていれば、毎日温泉に入っている地方とか、ありそうな気がする。

まだこの国には温泉に入るという文化はないかも知れないけれど、見つけたら観光地化して湯治も出来る病院なんかも作れないだろうか。

けれど、その恩恵はやっぱり、大地震と共にあるものなのだ。


「それじゃあ例えば、ウィルなら地震が起きる日が正確に分からない? その日だけ揺れる地域の人をどこかに移すことは出来れば、人の命は助かると思うの。そんなに何度も来るものじゃないなら、一度逃げてから帰れば……」

「うーん、いい案だとは思うけど、現実的じゃないな。地震なんてアウローラ王国の人たちは知らないし、信じてくれたとしても、街がめちゃくちゃに壊れるって分かっていて、民の全てが素直に逃げてくれる訳ないよ。その人達が生まれたベッドと、愛しい人と囲んだ食卓と、自分の手で作った畑も全部あるんだから」

「そっか……。そうよね。何かうまく、納得して、自分の意志で動いてもらえたらいいんだけど……」


すぐに納得はしたけれど、生粋の王子様からそんな意見が出てくるのがちょっと意外で、私はからかう顔をしてウィルをちらりと見た。


「王太子殿下ってば、視野が広いのでございますね」

「まだまだ、机上の空論ばかりしか出来ぬ我が身でございます」


適当な敬語がくだらなくってちょっと笑ったら、ウィルは何だか急に不安そうな顔をした。


「……ねえ、ユレイア。僕、本当にちゃんと出来てる?」

「どうしたの、いきなり」

「王都からはじき出されて、君が居ない間、僕は色んなものを見たんだ。オーブの外にへばりつくみたいにして出来た外の街や、関所を往来する貧しい人達を、毎日、毎晩見続けたんだ。きっと、君と一緒だったら、色んな貴族の邸宅に行って噂話を聞き出して、何もかもを知ったつもりになっていたと思う」

「あら、随分弱気ね」

「茶化さないでよ」

「普段から私のこと茶化すくせに」

「それは……そうだけど」


わずかにうつむいたウィルの横顔は、自責と恥ずかしさに満ちていた。


「だって、僕って、君に出会う前は何もかも全部一人で出来るって思っていたんだよ。でも、君が居なくなって、本当に何にも一人きりで出来ることなんか無かったんだってわかったんだ」

「まさか。あんなに活躍して、助けてくれたじゃない。ウィルが居なければ、私は今ここに居ないわ」

「君だって、ここに戻るために全力を尽くしたじゃないか。……僕だってただの人間で、色んな事が出来たのは周りに人が居たからだ。僕の話を聞いてくれる誰かが居なくちゃ、何一つ出来やしない」


ウィルはそう呻いて、両手で顔を覆った。

月光に金の前髪が柔らかく透けて、彼の完璧な細さの指が、真珠のように輝いている。


「僕は回帰の王なのに、理想の王にならないといけないのに。どうしてだろう、上手く出来る気がしないよ」


掠れた声は本当に不安げで、私はそっと指を伸ばした。

もちろん、撫でようとした背中は透けて指先が冷風に入るだけだ。


「らしくないじゃない、ウィル。大丈夫。王城であなたの噂を沢山聞いたわ。とても完璧で、何でも出来たって、みんなが言っていた」

「そう。そうだよ。出来ると思ってた。でも、君のせいだよユレイア。僕をずっと一人にしたせいだ。もしも最初から僕を見つけるか、それかいっそ、君が目の前に現れなければ、僕はこんなに悩まなくて済んだのに。君と出会ってから分かることは、今まで勉強した事と全然違う。知れば知るほど、僕は何も知らなかったって分かるんだ……」


音もなく、薄い背中が震えているのがわかった。指先の冷たい風がわずかに揺れて、幼い薄い肩がぶれる。


「ねえ、君は僕を選んじゃいけない。いつか君を失望させる。取り返しのつかないことをしてしまうよ……」


ふいに、この薄い身体の向こうに、ぱっくりと赤黒い傷が今も開いている事が思い出されて、胸が苦しくなった。


突き落とされ、死因となった深い傷。

こういう苦しみを何度も繰り返して、彼はこれからも生きていかなくちゃいけないのだ。

例えば私がウィルと一緒に回帰が出来て、過去をやり直すことが出来たとしても、当然ながら、何もかも上手くいくかどうかなんて分からない。


「……なんだか、私達、この力に振り回されてばっかりね」

「……うん」

「繰り返したって、失敗するかも知れない。上手くいかないかも知れない。なら、それって、未来へ普通に進むのと、どう違うのかしらね。過去に飛んだって、実はこの先の未来が分かるなんて幻想なのかも知れないわ。だって、ウィルですら、こんな風にずっと不安がるんだから」

「……それでも僕は恵まれている。失った過去をやり直す機会があるというのは、破格に恵まれているんだよ、ユレイア」

「そうね……。きっと私も恵まれているわ。妖精に助けてもらえて、魔術を見つけることが出来て、竜のレガリアで……」

「まさか!」


弾かれたように顔を上げて、ウィルは私を見た。


「役に立つと分かった瞬間に、君の意志なんて後からねじ曲げればいいって当たり前に考えている奴らに追いかけ回されることの、どこが幸運? 君は、ずっとずっと傷つけられてきたんだ」

「あ、あなただって同じじゃない」

「だからこそ、だよ」


綺麗な顔を生々しく歪めて、ウィルは苦い息を浅く吐き出し、絞り出す。


「……僕の生きていた世界が君を巻き込んで、本当にごめん」

「ウィルのせいじゃないでしょ」

「でも、ごめん。沢山……怖かったよね」


大したことじゃなかったわ、とうそぶきたかったけれど、今更意地を張る意味もない気がして、私は黙って頷いた。


王城から黒翼城にたどり着くまで、本当に、怖かった。

長い間、ずっと。

そしてこれは、別に終わりではないのだ。

これからも、こういう戦いは続いていくのだ。多分、ウィルに関わる限りは永遠に。


「……竜のレガリアだって、悪いことばかりじゃないわ。やれることが増えるってことだもの」

「でも、ユレイア言っていたじゃないか。力を持つことが怖いって。力を持って、傲慢な人間になるのが怖いって」

「うん」


私は静かに頷いた。

前世も含めて私は、沢山の恵まれた人を見た、優しい人に囲まれた人。

力を持ち、誰かに命令することに慣れた人。


お母様、レイモンド王子。お兄様、アース。スペラード伯爵に、前世の父親。

誰もが生まれた場所を選べないまま、口に出す言葉を、学ぶ対象を、行動する瞬間を自分で決めていた。


「だから私は、この力を使って、誰かの役に立ちたいと思う」


最後まで笑って、子供達を隠し通路に逃がしたお父様。

身体の小さな子供だけが通れる抜け道へと急かしたお母様。

騎士が駆け込む小屋の中、一人残って敵を欺き姉妹を逃がしたお兄様。

小さな妹を井戸に隠して、雪の中でおとりになったお姉様。


それぞれが当たり前に、助けられる相手を全力で助けた。

あの家族と同じ血が流れていることが、私はいつでも誇らしい。


「傲慢な人間になるのが怖いから、私は誰かを守ったり、助けたりするために、権力や、妖精に助けてもらえる力を使いたい。そうすることで、私自身が、きっと救われる。そんな気がするの」


あの人達に誇れる自分であるために、私はこの力のすべてを、助けられる人を助けるために使いたい。


「……僕は君に、そんな生き方を、して欲しくなかったよ。そんな、誰かを助けなくては許されない、そんな風に思う毎日を永遠に続けるなんて」


ウィルがあまりに辛そうなので、私は思わずその真っ白い頬を指の甲で撫でてやった。


そういえば昔、こんな風にウィルと黒翼城の屋上で話をしたな、と思い出す。

あの時ウィルは、王子として生まれてしまったから、多くの人を救う義務があるのだと、そうすることでしか許されないんだと言っていた。

あの時は、そんな献身的な生き方しか出来ない彼が哀れで、そうさせた周りが腹立たしかった。

だけど今なら、少しだけ気持ちがわかる。


愚かな自分が怖いなら、誰かを助けられるのは救いなのだ。


「……そんな顔しないでよ、ウィル。あなたと同じように私も不安だけど、でも実はひとつだけ心配していないことがあるの」

「……何?」


唇を噛んで不安げに囁くウィルに、私はニヤッとあくどく笑って見せた。


「無敵のずるが出来るから、宮廷作法は絶対、負けなしよ」


きょとんとしたウィルが、急に眉を下げて、笑いながら目元をこすった。

くすくすと笑いがこみ上げているのに、その指先には、月の雫がこぼれおちたような水滴が流れ、光っていた。


「僕の人生三回分、無駄じゃなかったかな……」

「当たり前じゃない! 王城にしか居なかったからって嘆くことないわ。王城のことは、もう完璧ってことなんだから」


とうとうウィルは噴き出して、あっはっは、と朗らかな青年みたいな声で笑った。

私は彼が笑うのが嬉しくて、笑いが伝染したみたいに、ふわふわ笑った。


「なるほど、なるほど! そうだね、知らないことばっかりだけど、出来ることだってあるものだ!」


ウィルは流しっぱなしの涙もそのままに、軽やかに、とびきりキザったらしく胸に手を当て、私の前に跪いて手を差し出した。


「では、ぬくもりひとつない我が身ですが、どうか僕と踊ってくださいますか?」


家族としか踊ったことがない田舎子爵の令嬢は、まるで女王様のように自信満々で、偉そうに手を取って驚いて見せた。


「まあ、この国の誰に申し込まれるより光栄です。素敵な王子様」


冷風が足下でくるりと渦を巻き、肩に乗っていたストールが生き物のようにひとりでに腰へ巻き付いた。

白い寝間着は、大きく膨らませたドレスのようにふわっと広がり、ストールが優雅なドレープとなって空中で夢のように踊る。


「僕についてきて! 大丈夫、完璧にやってあげるから!」


ウィルは心底楽しそうにそう言って、私の腰に手を回すと、私の指先を絡め取り、軽やかなリズムで滑るように踊り出した。


室内履きのつま先が勝手に動き出す。

一歩目で石床を叩き、二歩目でバルコニーの手すりに乗り、三歩目には空中を踏んだ。

くるくると回るたびに身体は宙を踊り、視界は星空と明るい城下町を交互に映す。

地面は遙か下、落ちたら怪我では澄まない距離に浮かんでいるけれど、ちっとも怖くなんてなかった。


目の中心には、とびっきり澄ました顔のウィルがいて、私はそのわざとらしいくらいの貴族的な笑みについ噴き出した。


「知らなかった。踊るのって楽しいのね、ウィル」

「僕も今、初めて知ったよ」


ウィルが指先でちょっとつり上げるようにして腕を上げ、私の身体はコマみたいにくるくる回る。


なんて愉快なんだろう! 


夜空の星々は宝石のようにきらめいて、城の灯りは星々のように光っている。

天と地が逆さまになっても星だらけのダンスホールで、誰も二人を笑ったり邪魔したりすることができないなんて!


私は家族を失ってから初めて、ころころと声を出して笑った。

彼はまるで初めて私を見つけたように目を開いてから、浮かれた流星みたいにくるくるとむやみに回ってみせた。


「ああ、楽しいね、ユレイア!」

「うん、楽しいね。ウィル!」


回れば回るほど身体が軽くなる。頬を切る風は冷たいのに、つま先までぽっぽと暖かい。


分かっていた。

平和な子供時代は今夜で終わり。

明日からは大人になって、分不相応な力を振り回しながら無数の大人と戦うのだ。


「頑張ろうね、ウィル!」

「うん、頑張ろう、ユレイア!」


でもこんな愉快な夜があったこと、それだけは忘れたくないと思った。


何度生まれ変わっても、ずっと。


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