40話 私の知らない沢山のこと
「ああ疲れた。今日はここで休んで真夜中に出発だ。食事を取ったら大人しく寝ていなさい」
そう言ってショーン大叔父さんは、メインマストの真下にある床を開くと、縄ばしごを下りていってしまった。
慌てて私も追いかけたら、ちょうど船室内で新たにランタンの明かりを灯したところだった。
狭い船室で、一人分のベッドとハンモックがひとつ。必要な物が入った木箱がふたつだけで、もうだいぶ手狭に感じた。
「ショーン大叔父さん、船の操縦ができるのですか?」
地下に収まる程度の大きさとは言え、帆船だ。
ショーン大叔父さんのことだから、そんなのは貴族のやることではないとでも言いそうだったのだけれど。
ごそごそと木箱の中を漁っている、ショーン大叔父さんのまんまるい背中にそう投げかけたら、彼はお酒の瓶を取り出しながら、ううん、と妙な唸り方をした。
「出来なければここに来るはずがないだろう。心配は無用だ。昔、死ぬほど練習したんだ。まあ、本職の船乗りほどではないが、川岸にぶつけて沈めることはないだろう。多分な」
そういえば、スペラード伯爵領の下町は、細かい編み目のように運河が流れて、多くの荷物は船に乗せられていた。
「スペラード伯爵領の者は、武術だけではなく操舵術まで習わなければならないのですね」
「あー、まあそれはそこまで。趣味の域だな。私は単に……ラルフに付き合わされただけだ」
一瞬、誰の名前かわからなくてきょとんとした。それから、敬愛するお父様の名前がランドルフだったことと、その愛称を思い出し、私はすっとんきょうな声をあげた。
「お父様と交流があったんですか?」
「数年の話だ。あいつが家出するまでの間、随分と私にまとわりついてな……。ここの通路を私に教えたのも、あの悪ガキだぞ」
「そんな、お父様が……?」
「はっはっは。あいつ、娘にはいい格好してたか」
あのお茶目で優しかったお父様が……! とショックを受けかけたが、わりとすぐに、どう考えてもやりそうだ、と嫌な確信が滲んでしまってショックが静かに退散していった。
下町の酒場の常連で、好奇心旺盛で器用で、御婦人が大好きで多くの浮名を流していた彼ならば、冒険の幅を広げるため、帆船の操縦くらいやってのけそうだ。
むしろ、ちょっとした屋敷の侵入経路なども嬉々として調べては、可愛いお嬢さんとの逢瀬に使っていた可能性が大いにある。
「……あの、お父様と一緒に、何をされていたんですか?」
「聞くな聞くな。しょうもない話だ。シレーネにも、余計なお世話だと呆れられた」
どうやら結構な恋愛結婚だったらしいショーン大叔父さんは、ぼりぼりと広い額を掻いてから、酒瓶の栓をナイフでえぐり取るように抜き、ランタンの上に載せた金属のカップに注いだ。しゅん、と落ちた雫が蒸発し、酒の香りが狭い船室に広がった。
「それよりもほら、明日のためだ。食べておきなさい。休める時に休むのが鉄則だぞ」
干した果物を酒の中に入れたショーン大叔父さんは、次に拳大のチーズをランタンの側面であぶると、私に干した肉と共に手渡してくれた。
あつあつのチーズの香りを吸い込んだら、猛烈にお腹が減ってきて、ぶわっと口の中に唾液がわく。
それでも、無断でよその家の食料を食べるのには抵抗があって、じっと湯気の立つチーズと見つめ合っていると、なんだ、とショーン大叔父さんは鼻を鳴らした。
「まさか、今更この船ともろもろを拝借することをためらっているのか? 仕方ないだろう、緊急事態だぞ。別に、楽して儲けようと思ったり、嫌がらせしてやろうなんて思っちゃいない。これはあれだ、嵐に遭ったネズミが避難しているようなもんだ」
「でも……」
「まったく、育ちのいいことだ。ラルフの教育がうかがえる。……だがな、言っておくが私達だって被害者だからな。あんな風に突然矢をかけられ、命を狙われ、無事に屋敷に帰り着く権利すら奪われる。……ほれ、こっちの方が随分と理不尽だ。わかるか、この世ってのは理不尽なものなんだ。君がそこで一人で頑張っても、この船の持ち主は感謝なんぞしてくれないぞ」
諦めなさい、と諭されて、私は唇をきゅっと噛んだ。
私だって、むしろ私の方がこの世の理不尽については知っている。
「知っています。……でも、だからこそ私は、自分の出来る範囲で……理不尽がないようにしたいって、思っているんです……」
だって、私が傷ついた苦しいことを、誰かに押しつけるようになったら、それは前世の家族と私が同じ存在になるってことだ。
それは、言い返せなかった時よりもずっと、あの理不尽さ、実りのない辛さに負けたような気がするのだ。
でも、そんな私の意地なんて、ショーン大叔父さんには関係のないことだ。
せっかく見つけてくれた食料に文句をつけるのは申し訳なくて、私は細い声でささやいた。
「ごめんなさい、ショーン大叔父さんは私を逃がそうとしてくれているだけなのに……」
ぶちっ、と干し肉をかみ切ったショーン大叔父さんは、わずかに眉をしかめてから、大きくため息をついてあぐらをかき直した。
「……それじゃあ、まあ。こうしよう。覚えておくことだ。そして、いつか利子をつけてお返しに来てあげなさい。人知れず。それならいいだろう」
そういう考え方もあるのか。
私は思わず顔を上げ、勢いよく何度も頷いた。
「わかりました! 必ず、いつか船に見合うほどの幸運を、この家にもたらします」
「それで君が気分よく逃げられるなら、好きにしなさい。ああ、私はやらないからな。この家には恨みはあれど恩はないし、昔、最も価値のあるものを盗み出したが返すつもりもない。今更、船一艘など増えたところで今更心は痛まんからな。君一人でやりなさい、ユレイア」
「はい!」
「返事がいいのがなぁ……」
ため息をつくショーン大叔父さんの見よう見まねで、私はもらったチーズの柔らかくなった部分に硬い干し肉を刺して抉る。
とろけたチーズが湯気を立てながら糸を引いてのびていき、口で受けとめるとしょっぱさと熱さがいっぱいに広がった。
「何度も言うがね、私達は追われているんだからな。十分気を引き締めるように」
「私達、どうなるのですか?」
暖かいものを身体に入れると、少しだけ腹から温まってほっとした。
チーズの絡んだ干し肉をかじりながら、首をかしげる。
「そりゃあ……あのまま掴まったら君、たぶん、一生あのまま王宮から出られなかったぞ。そして、君の役目が気に入らない者からは命を狙われて、さっきのように矢を射かけられる」
「いえ、そうではなくて。船で無事にスペラード伯爵領に戻れたら」
言いながら、チーズの硬い場所に出たので、ランタンであぶって、また干し肉ですくって食べた。しょっぱさがまろやかになって食べやすい。
「そういうのは、義兄殿が決めることだ。気にしても仕方ない。せいぜい、怪我をせぬように無事に帰りつくことを目指すことだ。……そういえば、怪我はないか?」
「少し、肘をぶつけました」
「あー、その程度は怪我に入らない。我慢しなさい」
「聞いたのはショーン大叔父さんではないですか。ご自分が同じ怪我でも、同じことが言えるのですか?」
「治りの早い子供と一緒にするな。私が骨を折るのとおまえが骨を折るのじゃ残り方が違うんだぞ」
ずるい、という顔を隠さずに、また干し肉を噛んだ。
「理不尽に追われて不安がっている親戚の子供を哀れと思ってくれないのですね」
「いいや、別におまえはかわいそうなんかじゃないからな。これだけ多くの人間に求められているんだ。光栄なことじゃないか」
「代わりたいですか?」
「……まあ、想像するだけがちょうどいい」
「ほら、やっぱり」
干し肉は真ん中あたりになると、刃物のように硬かったので、少しあぶってからまたチーズに浸して口に入れる。
味の濃い食べ物は飽きが来るのが早いはずだけれど、暖めながら食べる食事は物珍しくて面白かったし、疲れていたから塩気がありがたかった。
むしろ、ショーン大叔父さんの方がよっぽど悲惨な顔をして、もそもそと口の中に押し込んでいる。
「だがな、私とてこれでも親戚一同はほぼ没落していてね。一家離散で行方もわからんよ。私に残されたのは、妻と子供と、よく出来過ぎた、恐い恐い義兄だけ。よくある話だ」
「私はどの立ち位置なのですか」
「急に現れたおまけ、だな。君にとっての私はもちろん、義兄殿だってそんなものだろう」
そう言いながらも、ショーン大叔父さんはランタンの上に載せてあった金属のカップをぼろ布に包んでから下ろし、私の方に寄越した。
素直に受け取って、吹き冷ましてから口をつけると、沸騰させてアルコールを飛ばしたお酒は暖かく、中に入れられた干し果実がふくらんで、甘酸っぱかった。
「お祖父様にはもっと感謝していますし、不器用ですが、優しいと思っています」
「そうなのか? 私だったら恨むが」
「どうして恨まなくてはならないのです」
そりゃあ、とショーン大叔父さんは、半分程度残っていたお酒を嫌そうに瓶のまま飲んで、顔をしかめた。
「間に合わなかっただろう。何のための騎士団だ。何のための縁だ。肝心な時に役に立たぬならば、今まで偉そうにふんぞり返っていた甲斐もない」
私は、ぽかんと目を丸くした。
「考えたことも、ありませんでした……」
憎むべき相手が、はっきりしていたからかも知れない。
雪吹きすさぶ裏庭を、お姉様と手を繋いで走った日、不吉の象徴のような黒い馬を走らせた男。
あの王弟リチャードこそが心から真に憎む相手であって、他の何もかもはその背景のように思えた気がする。
それから、多分。
「お祖父様が、一番それを後悔していましたし……」
あの日、きっとスペラード伯爵は、私達を助けるために馬を走らせただろう。
体中から湯気を出して、間に合えと念じながら、高価な馬を何頭も潰して走り抜けたに違いない。
「そうだろうな」
頷きながら、ショーン大叔父さんは、何故か苦いものでも見るように、飲みきった酒瓶のラベルを眺めた。
安物だな、と呟きながら、そのくせ丁寧に栓をし直して箱に収める。
ふと、彼はいつでも尊大な態度のくせに、所作はどうしても品が抜けないのだな、と気がついた。
「……伯爵殿はな、お優しい方だ。たぶんあの人は、最後までラルフが帰ってくるのを待っていた。そして、その背中がどれだけ私達を寂しがらせたか、そういうのには思いやれん方だ」
私は、今度こそ皿のように目を丸くした。
壮年と言っていいはずの男の人が、何故か拗ねた少年のようなことを言っている。
そんな感傷は、年を重ねれば勝手に消えると思っていたのに。
「さて、飲み終わったか。もう寝るぞ。ユレイアはハンモックだ。落ちても私よりは大怪我にならんからな」
自分の弱音を誤魔化すように、ショーン大叔父さんはさっさとランタンをマストにひっかけ、光の位置を調節した。
けれど、私は彼のさっきの言葉があまりに意外で、最後に飲み込んだ干しぶどうの味すらよくわからない。
「ショーン大叔父さん」
でも、そういえばそうだった。
前世でも、それなりに大人になったって、ずっと誰かに認められたくて、寂しかった。
平穏に焦がれながら、自分を哀れみながら、惰性で生きていた前世の私ですら、心の中に小さな子供が居たのだ。寂しかったのだ。
私の前世と異なる世界の住民であっても、きっと、そうなのだ。
「助けてくれて、本当にありがとうございます。一緒に、黒翼城へたどり着きましょう。旅の間に、どうか私に弓と、体術……その他の生きていく為に必要なことを、教えてください」
ショーン大叔父さんは、心底意外そうに私を見ると、咳払いしてから尊大に胸を張った。
「私は飽きっぽいぞ。せいぜい、面白がらせてくれよ」
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