35話 風の魔術と妖精のいたずら
「イヴリン、まさかあなた徹夜したの!?」
王城へ向かう馬車の中、腕より太い羊皮紙の巻物を差し出されて私は小さく悲鳴をあげた。
イヴリンは至って真面目な顔で首を横に振る。
「誤解です。楽しく考え事をしていたら、朝日の方が勝手に登ってきたんです」
「今から寝て。すぐに寝て」
「ユレイア様がいるのに、眠ることなんてできません」
「命令よ」
「……なるほど」
「次からはばれないように徹夜しよう、なんて思ったって絶対にばれるんだからね」
「おやすみなさい、ユレイア様」
それでは、とばかりに座席に深く座るので、私は慌てて膝の上と、膝と座席の隙間にクッションを置いて、ぽんぽんとその上を叩いた。
イヴリンは、ちょっと不思議そうな顔をしてから、また「……なるほど」と呟いて、大人しく私の膝を枕に横たわった。
寝心地は悪くないらしく、すぐに、ことん、と落ちるように深い寝息が聞こえてくる。
私は、何となくその肩を掌で暖めながら、高い位置にある窓を見た。
大貴族の邸宅ばかりが並ぶ通りは、白いレンガが整然と並び、馬車や人が行き交っているというのにちり一つない。
けれど、弔意を示す黒いタペストリーがどのバルコニーからも下がっていて、朝日の中ですらひりつくような緊張感があった。
もう葬式は終わったのに、まだ王都オーブは悲しみに沈んでいる。
少なくとも、表面上は。
──本当にウィルを悼んでいる人は、一体どれだけ居るのだろう。
全てを調べ尽くして、ウィルに伝えよう。
嘆いている暇も、不安がっている暇もありはしない。
──私は、ウィルのたった一人の同盟者なのだから。
窓から巻物へと目を移し、私は羊皮紙を開いて読み始めた。
文字を追いながら、ふっと思いついて小さく囁く。
「……ねえ、妖精。近くに居るなら、お願いがあるの」
がたがたと揺れる馬車の中、カーテンが大きく翻った気がした。その気配に安心して、私はそっと息を吐く。
「大丈夫、ただの小さないたずらよ……」
アウローラ王城が、近づいていた。
*
無口な方だ。
厳格にして有能な老侍女アメリも、無表情と無敵に自由な魂を両立する幼侍女イヴリンも、無口な方なのだ。
更に、将軍伯爵の異名を持つスペラード伯爵など、まれに喋る騎士の彫像くらいの気持ちでいた方がいいくらいには、無口なのだ。
だから知らなかった。
「スペラード伯爵令嬢、何て可愛らしいんでしょう。紫の瞳は実に気品がございますから、黒のドレスにダイヤモンドがよく似合ってらっしゃいます。こんなに可憐な令嬢、どこを探してもいらっしゃいませんよ。このお年でありながら、誰が見ても、アウローラ王国一の美姫だと言うでしょう。将来が楽しみです」
「ユレイア伯爵令嬢は、お綺麗ですね。本当に綺麗。黒髪がつやつやしていて、夜空の星が落ちてきて、髪に宿ったみたいです。でも、星空より見ていて楽しいです」
「こんなに美しい孫を持てるとは、スペラード伯爵も長生きはするものだ。スペラード伯爵家のダイヤモンドが霞むようだ」
だから、いざアウローラ王城の大広間で、周囲からこんな言葉を雨あられと浴びせかけられるとはまったく予想だにしていなかった。
妙齢の御婦人に、似た年頃の令嬢に、華やかな装いの老紳士。
次々と説明される人の名前を懸命に記憶しながら、私は頬に手を添えてはにかんで見せた。
「まあ、ありがとうございます」
けれど、内心では両手を振り回して照れながら跳ね回っていた。
ありがとう、この顔を完璧に引き立つように仕上げてくれたアメリ。
ありがとう、穏やかで可憐系のお母様の遺伝子。
ありがとう、さえざえと作り物みたいに美形なお父様の遺伝子。
トーラス子爵領では平均値が高すぎて自分は普通なのかと思ってたけど、今世の私、可愛いみたいです!
お世辞かも知れないけれど、伯爵よりも爵位の高い侯爵のご老人も褒めてくれたし、本当にある程度可愛いのだと浮かれてもいいかも知れない。
「うちの息子に見習わせたいものです。私の家門の席に青い鐘のような花があるというので、ユレイア嬢に見せたいと言ってはしゃいでおりますのよ」
ふわふわした気持ちで微笑んでいると、今まで褒めてくれていた妙齢の貴婦人が、さりげなく私の手を取った。
流石に、スペラード伯爵が偉い人と話し込んでいるとはいえ、彼が見える範囲内にいないと困ると思うのだけれど。
「まあ、そうなのですか?」
内心で焦りながら不思議そうな顔を保っていると、すぐ近くで酒を持って談笑していたシレーネ大叔母さんが冷たい目で大げさにため息をついた。
「まあ、育ちはトーラス子爵領の田舎ですけれどね。伯爵家で施した教育が、無事に実っていればいいのか、いつも心配しておりますわ」
彼女はせっせと私を褒めていた妙齢の貴婦人をちらりと見てから、また私を嘲るように睨む。
私はちょっとぎくっとした。
この御婦人、近づくな敵だぞリストの中に居た人だったかも……? 知れない……?
ちょっと思い出せない。でも聞いたことがある名前だったかも知れない。
驚いたふりをしながらシレーネ大叔母さんの方を見たら、彼女は銀の扇子で顔を隠し、大げさにため息をついて見せた。
「この子はまだ幼いから仕方ありませんが……。私が教えたこと全て忘れてしまっていたらと、いつも心配なのですわ」
どう考えてもシレーネ大叔母さんの目線が、そいつに近づくな、と言っている。
あ、これは確実に敵対勢力の御婦人っぽいな、と察して私は引きつった微笑みで口元をおさえる。
「まあ、そんな。とても賢いご令嬢ではありませんか」
「その……私、まだ、お手本には自信がありません……」
貴婦人がシレーネ大叔母さんへ言い返している隙に、しゅんと落ち込んだふりをしてうつむいた。
さりげなく掴まれていた腕を振り払って、今まで私を囲んでいた人達の間から退散する。
すぐそばに控えていたアメリとイヴリンが、黙って後についてきてくれたから、私はため息をつくのを何とかこらえた。
ウィルが覚えてくれたと思って、斜め読みしてしまった自分を張り倒したい。
せっかくシレーネ大叔母さんが、誰が敵で味方かを調べて教えてくれたっていうのに、情報を生かせなければ意味がないじゃないか。
──ウィル
この場に彼が居てくれたら、どんなに頼もしかっただろう。
私はふっと天を仰いだ。
大広間のホールは高く、壁際には三階建てぶんのバルコニーが突き出していた。
その分天井が吹き抜けて、全てを照らしきるほどの光量を放つ照明が、シャンデリアと共に強く輝いている。
耳を澄ませば生演奏の音楽がゆったりと流れ、室内を流れる噴水のせせらぎすら聞こえた。
「お飲み物を交換いたします」
私の手に持っていたグラスが空だったことにすぐ気付いて、給仕の人が銀のトレーを差し出してくれる。
頷けば、私の代わりにアメリがグラスを返し、よく冷えた果実の赤い飲み物を受け取った。
私は、グラスのベリージュースを飲みながら、ちらりとスペラード伯爵の方を見た。
どうやらかなり偉い人に掴まっているらしく、胸に手を当てながら口元だけで微笑んで相づちを打っている。
壁際を見れば、ショーン大叔父さんとアースは、スペラード伯爵家のために用意されたテーブルで、ちゃんとした食事を楽しんでいる。
家門の為の席は、周囲にほどよく目隠しの植木や花瓶が置かれ、どの調度品にもさりげなくスペラード伯爵家の紋章である四翼の銀鷲が刻まれている。
こういう場所が他にも貴族の家門ごとにあるのだとしたら、王宮は、途方もなく豪華だ。冗談みたいに、何から何まで手が込んでいる。
ウィルが居たら、この大広間が何番目の広さで、どのくらい使われていて、どういう意味を持っているのか、聞いてもいないのに教えてくれただろうに。
──私っていう同盟者を放り出して、どこほっつき浮いているのかしら。
心の中で文句を言って気持ちを奮い立たせると、私は壁際の小机に飾られた照明の方へ歩いて行った。
ランタンとは違う理屈で、小さく唸りながら輝く照明のそばで、疲れたふりをして机に寄りかかった。
「アメリ、返してきてくれる?」
飲み干したグラスを受け取ったアメリが背を向ける。
「イヴリン、疲れちゃった。私を影に隠してくれる?」
イヴリンは、疑いもせずに頷いて、私の前に立ってくれる。
その隙を狙って、私は藤色のドレスの袖に手を突っ込んだ。
中にひそんでいるのは、小さなダイヤモンドとトパーズが飾られたブレスレットだ。宝石を握り込みながら、私は片手で照明のふち。木製の枠部分に触れた。
途端に、中を流れる力が流れ込んできて、身体が軽く痺れたような感覚になった。
手元のダイヤモンドの周囲で空気が冷える。トパーズの周りで風が渦巻く。
昨日、ありとあらゆる宝石を握って試した成果は、王宮の照明でも問題なく動いたようだった。
ねじれたような冷たい風が、手元でうずまく。私は素知らぬ顔をしてゆっくりと、身体の中で流れる熱のようなものを動かした。
それは、利き手と逆の指で複雑な動きをする感覚に近かった。難しいし、慣れていないから疲れるし、細かいことは出来ないが、決して不可能ではない。
この流れを、魔力と呼ぶのだろうか。
身体の中を通り抜ける不思議な熱と流れを操作し、私は手元からゆっくりと、冷たい風を床に流した。
笑いさざめく貴族達を見回しながら、その様子をつぶさに見つめる。
ふわりと、貴婦人達のドレスが揺れる。幼い令嬢達が不思議そうに後ろを向く。
少し背の高い令息が、隣に立つ騎士の袖を不思議そうに引く。
楽しげな談笑を続けている大人達も、知らない顔をしながらも、わずかに不信そうに視線を走らせている。
「うわぁ!」
どこか遠くで、貴公子の慌てたような声が聞こえた。
多分、飲み物か食べ物を落としたのだろう。
──さあ
私もまた、不思議そうな顔で周りを見渡すふりをして、周囲をじっくりと眺めた。
冷たい風を足首に感じた人々は、急に手に持ったグラスを落としたり、髪に挿した飾りを落としたりして慌てている。
あちこちで起こる不自然な騒動は、妖精のいたずらだ。
馬車の中で、伯爵家の食事をつまんで構わないから、私が風を起こしたら、近くの人をからかって、ちょっとしたいたずらをしてくれと頼んでおいたのだ。
もしもウィルを知っている人が居るのならば、絶対にこの不自然な風を知っている。
そして、急に起きた騒動に驚くのではなく、原因を探し始めるはずだ。
心当たりのある人は、絶対に周りと違う動きをする。
この不自然な風を起こすことで、ウィルが「誰かの意図で掴まったのか」それとも「偶然の事故で戻ってこられないのか」の判断がつくはずだ。
うわあ、と声が上がって、アースが自分のフォークを盛大に飛ばした。思わず彼が立ち上がった拍子に、ショーン大叔父さんの皿がひっくり返る。
──出てきなさい
心の中で誘いながら、本当は祈るようだった。
なんて、不確かで地道な作業なのだろう。
でも、可能性をひとつひとつ地道に潰すことしか、今の私には思いつかない。
あちこちで悲鳴が上がるのを、イヴリンとアメリも不思議そうな顔で眺めていた。
彼女達に何のいたずらも訪れないのは、かつて守ってあげて欲しいと頼んだからだろうか。
あちこちで騒ぎが起きる大広間をイヴリンの背後からのぞき見ていた時、ふいに私は目を見開いた。
ひとり、変な動きの人間が居る。
華美な服を着た貴公子ではあるものの、まだとても若い。幼いと言うにはそろそろ大きいが、まだ青年にはとても足りないという年頃だ。薄い褐色の髪で、活発そうな顔立ちをしている。
彼は周囲をきょろきょろと見回しながら、早足で歩き回っているのだ。
誰かを探すよう人混みをかき分けているが、目線の先は不自然に空中だ。
私は、思わずイヴリンの後ろから早足で飛び出して、その人を追った。
とたんに、周囲を漂う風はふっと消えていく。
私の中に何か少し残った名残のような流れを無理矢理動かして、歩き回る褐色の髪の貴公子に、少しだけ冷たい風をまといつかせる。
こっそりと後をつけながら耳を澄ませば、彼が何か呟いているのが聞こえた。
「この風は……」
心臓がばくばくと跳ねた。
興奮が頭の方までのぼってきて、頬が熱くて指先が震える。
「まさか、噂だ」
小さな声に応えるように、私は彼の前に回り込んだ。
本当は、紹介がないと人に話しかけるのは無礼なのだが、素知らぬ顔をして微笑みかける。
「誰かをお捜しなのですか?」
とたんに、彼の後ろを固めていた騎士達が、靴音高く私の前に立ちはだかった。
「不敬となります。お控えを」
「まあ。驚いた。この方はどなたなのです?」
私は、無邪気を装って首をかしげた。
ぴりぴりとした気配の護衛騎士は、油断のない顔つきで、声を低めて囁く。
「こちらは、第一王子、レイモンド殿下です」
私は息を吸い損ねて固まった。
ウィルの腹違いのお兄様だ。母親は確か、第二王妃様。
ウィルという王太子を失った今、新たな王位継承者を第二王子と争う存在だ。
思ったより大物が引っかかってしまった。
もうちょっと遠いところからじわじわ攻めるつもりだったのに、何でこんな所にいるのだ。
あまりに高貴な貴族達は、別の場所で固まって歓談しているものじゃなかったのか。
「し、失礼いたしました。許しもなく話しかけるご無礼を、お許し……」
「いいや、いい。話そう」
細い声で囁く私をよそに、レイモンド王子はトパーズ色の瞳をからっと笑みの形にして、護衛騎士の前に出てきた。
背中に冷や汗がだらだらと垂れる。口の中がみるみる乾いていく。
私が微笑みを引きつらせているのを知ってか知らずか、少年は人なつっこい仕草でちょっと腰をかがめると、私に視線を合わせて言う。
「君は、スペラード伯爵のところの、ユレイア嬢だね? 僕の遊び相手から聞いているよ」
天を仰げない不自由を切に呪いながら、私は懐かしき同盟者に助けを求めた。
ああ、ウィル。
私、早まったかも知れないわ。
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