第28話 お茶会と勝利の詩
静寂を切り裂き、黒い矢羽根の矢が放たれた。
高い梢の隙間で、茶色い袋が砕け散る。
途端に、中から薄紅の欠片があふれ散り、歓声を上げる競技場に降り注いだ。
得点の高い的はやぐらを組んでしつらえられた観覧席にすら、淡い香りと花弁を届ける。
「花びらの雨のようですね」
ええ、と老侍女アメリが頷いて、陶器で出来た小さな茶器を、ドライフラワーの雨からさりげなく避ける。
くるくると踊りながら流れてくる薄紅色のひとひらに、私ははそっと手をさしのべた。
柵の隙間から風にあおられて流れていくかと思われた花弁は、ふいに向きを変えてふわりと幼い掌に収まる。
ちらりと顔を上げれば、斜め上で漂っていたウィルが、どこか得意げな気配を漂わせて優雅に流し目をしていた。
ささやかな親切にくすっと笑いかけたその時、再び矢が射られ、緑の葉があたりに散らばった。
「ああ、私の護衛騎士が当てましたわ!」
「本当だわ、おめでとうございます」
貴婦人達がはしゃぎあって、両手を合わせて唇の下にそっと添えたり、笑顔で競技場に手を振ったりしてみせた。
スぺラード伯爵家は勇壮なる騎士団を擁する家柄で、その気質は貴族というよりは軍人に近い。
そういう家門がお茶会を開催すると、ただのお喋りでは終わらない。
招待客が自分の護衛騎士を出して参加する競べ弓観覧席から眺める、勇士を集い、腕前を試すタイプのお茶会になるのだ。
観覧席の中の少し離れたテーブルから、シレーネ大叔母さんの甲高い自慢話が聞こえる。
どうやら、前の前の試合で、彼女の護衛騎士が勝者となった話題をまだ続けているらしい。
接待役として招待されたのか、やたらと美々しい顔をした神官様に寄り添い、同じ話を声高に繰り返していた。
彼女の息子であるアースも、今散った緑の葉が欲しいと近くの若い騎士に唇を尖らせてねだっている。
彼らはいいとして、ショーン大叔父さんまで同じ席にいて自慢話に参加しるのは、どうなんだろう。
スペラード伯爵はちゃんと自分で競技に出るのに。
よく見てみれば、大叔父夫婦の周りに居るのは比較的若い使用人や護衛達ばかりで、私の周りに居るのは少し年かさの侍女や執事ばかりだ。
こんな時にもスペラード伯爵家の分裂問題が透けて見えてしまって、私は少し憂鬱になった。
だが、私の気持ちはさておき、競べ弓を観覧しながらのお茶会は、大盛り上がりだった。
どの招待客も、物珍しい・美しい・自分の護衛騎士が参加している、の三拍子揃って自分事として楽しめているらしく、その顔色は明るい。
「ほら、私の騎士が見えますわ。幼なじみなんです。弓は得意ではないけれど、随分と練習していて……」
「あんなに遠くて揺れるんですもの。一矢でも当たったら褒めてあげなくてはなりませんね」
「あら、私は簡単に喜んだりはいたしませんわ」
「まあ、では貴方の騎士はますます頑張らなければいけませんね。勝利者には仕える主からの勝利の詩が捧げられますもの」
私の左肩あたりでふわふわしている幽霊は、
「一番強いやつが一番偉いっていうの、本当にやりにくいんだよね……スぺラード伯爵家、忠誠心が強いけど、頑固だから扱いづらくて……。いや気質は好きだよ、本当に好き。ちゃんと貴族の政治もできる上で、根本的なところが絶対まっすぐなところが好きなんだけどさあ……」
と微妙な顔をしているけれど、私は競べ弓大会自体は、大賛成だ。
なにしろ、わいわいと盛り上がる上品な貴婦人達は、誰も彼も、私くらいの娘が居てもおかしくないくらいの年頃の人ばかり。
その上、男爵夫人とか子爵夫人とかがどこそこの出身である、と説明されながら、七人近くの人間が入れ替わり立ち替わり現れるのだ。一度挨拶されただけでは、誰がどこ出身のどちら様なのかまったく覚えきれない。
あちらのレモンイエローのドレスを着た人は子爵夫人だったか、男爵夫人だったか。
けれど、競技のお陰で話題がとても出しやすい。
私が無邪気な顔をして
「まあ、当たりましたね」
とひとつ言えば、勝手に盛り上がってしまう。
まあ、見た目の年こそ離れているけれど、私だって前世と今世の年齢を合わせれば、あまりにも年が離れている、という訳でもないから、気にしすぎなのかも知れないけれど。
「見てください、次の競技が始まりますわ!」
「あら、ユレイア様の護衛騎士もいらっしゃいますね」
「ええ、バーナードと言います」
大人しく後ろに控えていた小さな侍女イヴリンの方をちらりと見て、微笑む。
彼女は相変わらずの無表情なまま頷いて、席を立って見やすい場所に移動した。本当に喜んでくれているのか、いまいちわかりにくい。
けれど、応援する相手がいれば、近くで見てもいい、という自由な気風は楽でよかった。
イヴリンの代わりに、私のそばに寄ってきて、さりげなく場所を代わったのは若い給仕の娘だった。
皆の目があるおかげか、それとも元々なのか、よそ見もせずに周囲の貴婦人達にも気を配り、とても真面目にやっているようだった。
でも、私はこの使用人たちのうちの誰かが、イヴリンのドレスについたレースを切るなんていう、しょうもないことをしているのを知っている。
これから私は、彼女達、あるいは彼らの見えない害意をさりげなく察知して、指摘したり、矛先をそらしたり、あるいは威厳で押さえつけたりしなくてはいけないのだ。
そんな芸当、私にできるだろうか?
誰かの上に立つなんてこと、一度もやったことがないのに。
事件が起こるまで、嫌がらせが起きていることすら知らなかったのに。
今だって、周囲できびきびと働く使用人達の姿は、どこから見ても勤勉で、生真面目で、有能だ。
もしもイヴリンの言葉を信じなければ、彼女を嘘つきにして片付ければ、何もなかったことに出来るだろう。
わざわざ事を荒立てないで、とイヴリンに言って、我慢しなさい、と命じれば、私は何もしないで済む。
そして、それはとても楽なのだろう。
でも私は、そういうの、嫌だ。
「ねえ、ユレイア。ケーキたべないの?」
難しい顔で黙り込んでいた私の顔を、ひょいと真上から逆さまに覗き込んでウィルが言う。
どうやら、ついさっき若い給仕が新しいケーキを運んできたらしい。
私は慌てて皿に向き直った。
溶かした糖蜜をかけてカリッとした皮を作った焼き菓子は、ナイフで切ると、半透明の砂糖衣が砕け散った。
密度が高く重たい生地の中には何種類ものドライフルーツとナッツがみっしり入っていて、口に入れると甘酸っぱくて、香ばしくて、しっとりとしておいしかった。
一人でぐるぐると悩んでいても、美味しいものはしっかりと美味しいのだから、現金なものだ。
一切れでも十分お腹にたまるケーキの甘さを、お茶と共に楽しんでいると、ウィルが羨ましそうにため息をついた。
「いいなぁ、ケーキ。おいしそう。僕も食べたかった。ほら、なんだか妖精も集まって……えっ、妖精ってケーキ食べられるんだ! ずるい!」
ウィルは切なそうに眉をさげたり、驚いて大きな目を見開いたりして忙しそうだ。
そういえば、夜中にクッキーやミルクを妖精にお裾分けするのだから、妖精達は食事が取れるはずなのだ。
胸がわずかに高鳴って、お皿の上のケーキを少し切り取って、妖精が食べやすい大きさにしてみた。
さりげなくフォークを横に置いて、ケーキの欠片をじっと眺める。
すると、私が見ている目の前で、転がしておいた欠片が、小動物にかじられたみたいに小さくなって、消えていくではないか。
──ちゃんと、そばにいる。
見えなくなっても。聞こえなくなっても。
それでも、彼らが居なくなってしまった訳ではない。
私は胸がじんとして、思わず妖精博士を目指すイヴリンの方を振り返った。
けれど、彼女も他の貴婦人も、誰一人としてケーキの皿など見ていなかった。
競技が行われている広場の方へ熱心に顔を向け、手を握って息を詰めている。
ドドド、と重たい足音と共に、観覧席の斜め下の小道を、騎士を乗せた馬が駆け抜けていく。
等間隔で並んだ木々の間をすり抜けて、瞬く間に矢をつがえ、次々と放つ。
空気を切り裂く高い音。
次の瞬間、見事に茶色い袋の的が砕けて、白い花びらがあふれて広がった。
再び歓声があがる。
二の矢が打ち抜いた袋から降り注ぐのは、黄色く染めた鳥の羽毛だった。羽はあまりに軽くて、小さな風でもあっという間に広がって、城壁を越えていく。
イヴリンの小さな身体が、小刻みに拍手をして揺れている。
そういえば、と目をこらせば、ふたつの袋を同時に射貫いたのは護衛騎士バーナードだったようだ。
声のよく通る騎士のひとりが、五人の競技者の中では彼が勝者であると告げていた。
「流石はユレイア様の護衛騎士様ですね」
「すばらしいですわ。スペラードの騎士達は本当に腕が立つのですね」
ふわふわと穏やかに褒めてくれる貴婦人達にお礼を言いながら頷いて、私は立ち上がった。
「あの護衛騎士、本当にちゃんと実力あったんだねぇ」
失礼なことを言うウィルと、少し離れた場所に居たイヴリンを手招きして引き連れて、私はバルコニーのように張り出した観覧席のふちへと向かった。
手すりがついた小さな階段の先には、やはり柵に囲まれた台座がある。
観覧席からも、競技場からもよく見える場所に登るのは、少し緊張した。ここ、ちょっと高いし。
少しだけ足を遅めて小さく深呼吸している私に、ウィルがぐっと拳を握って「大丈夫だよ、今日のユレイアは完璧だから」と大きく頷いた。
「まず、ドレスが紺じゃないか。これはまだ喪に服している雰囲気があるけれど、髪の色に合わせたと思ってもらえるよね。つまり、歓迎しろ派と悲劇へを忘れるな派の双方を黙らせるから、もうすごく良い。しかも、袖や裾にあしらわれているのは、五大伯爵家だからこそ許されている、銀のレースだよ。格で文句はつけられない。それに、ひとつみつあみだって可愛いし、小粒のダイアモンドがちりばめられているの、さりげないけどとってもスペラード伯爵家の権力を表現してる。今のユレイアは政治的に完璧な服装をしているんだ。自信持って」
そこは、いつもの普段着みたいに「わあ、とっても可愛いよ」でよかったんだけど。
お茶会の服装って、ウィルにとっては戦装束の部類に入っている気がする。
それでも少し気が楽になって、私は背筋を伸ばし直して階段をのぼった。
台座の上に立って手すりを握ると、そんなに高くはなくても競技場がよく見えた。
普段は騎士達の訓練場として使われている中庭は、今は運ばれてきた木々が並んで、秋の収穫を控えた森のようだ。
木々の隙間に敷かれた赤い絨毯のふちに、四人の騎士がひざまづいて並び、真ん中ではたくましい体つきをした大柄な騎士が立っている。
五人組の中で勝利を収めたらしいバーナードが、主からの祝福の言葉を待っているのだ。
普段は見上げている騎士のつむじが、台座にのっているからとはいえ今はつま先の近くにあるのは、何だか変な心地だ。
澄んだ冷たい風が吹き付けて、競技場の広場に立ちこめていた土埃が薄れていく。
ウィルがちらりと私を見た。
私も静かに頷いて、そしてにっこりと無邪気に微笑んで、大きく手を振って声を張り上げた。
「バーナード、すごかったわ! とっても弓が上手ね。あなたは自慢の護衛騎士よ!」
これは、本来ならば、ちゃんと決まった定型文がある。
あなたの勝利を祝いましょう、から始まる数小節の詩で、練習もしたし今日だけで何回も聞いたから、私も暗記できている。
でも、五歳の子供がそんなことをさらさらと喋っていたら不自然だ。
控えていたイヴリンに腕をからめて、私は甘えたように彼女を見上げる。
「ねえ、イヴリン。あなたのお父様、すごかったわね。きっとこれで、私達大丈夫よね? 私に緑の指輪はもうないけれど、彼がいるなら、また恐いことなんか、起きたりしないわよね?」
昨日のうちにウィルと話し合って、決めた。
今、私達がするべきは「お茶会で見せたい姿を見せること」だ。
つまり、私が演じるべきは家族を失っても明るさを失わない、けなげで、でもまだどこか不安な女の子だ。
何も知らない相手からは同情をもらい、トーラス子爵領襲撃事件に関わった者達へは、油断を誘う。
出来れば、油断しきった相手が向こうから接触してくれれば上々だ。
「おっ、効いてる効いてる」
私の斜め前に浮いていたウィルが、背後の観覧席を眺めながら嬉しげにニヤッと笑った。
背中から、悲しみに満ちたため息がさざ波のように打ち寄せている。貴婦人達の吐息だろう。
バーナードなんて、ちょっと効き過ぎなくらい効いていて、盛大に目を赤くして鼻をすすっている。
よかった、ちゃんと五歳に見えてる……。
胸を撫で下ろしていたら、イヴリンがぎゅっと私の腕を抱きしめてきた。
「大丈夫です。ユレイアお嬢様。もう恐いことなんて起きやしませんよ」
彼女は無表情なままだったけれど、青い瞳がちょっとうるんで、情熱がごんごんと燃えている。
イヴリンにまでしっかり効いていた。
流石にちょっと罪悪感があるな……と思いつつ、胸を痛めていた時、
「ユレイア、後ろ!」
ウィルの声がして、私は振り返った。
見れば、アースがニヤニヤしながら、私の居る台座への階段を登り切ったところだった。
ウィルが警告しなければ、多分突き飛ばされていたことだろう。
アースは私とイヴリンを押しのけて、台座の正面に立って身を乗り出した。
「ユレイアはまだ五歳なので、僕が代わりに正しい勝利の詩をあげましょう」
ウィルが一気に眉間に皺をよせた。
「ユレイアの感動的な褒め言葉を、ただの感想にするつもり?」
勝利の詩を捧げるのは、騎士が仕えるべき主がほどこす名誉だ。
だから、ユレイアの個人的な護衛騎士であるはずのバーナードに、アースが名誉を与えるのはお門違いの非常識。
しかし、ここは衆目の目があるお茶会の場だ。
主催者たる伯爵家にまつわる人間が非常識をしたなんて、あってはならない。
まずいな、とウィルがうめく。
ここでアースが勝利の詩を捧げた場合、暗黙のうちにバーナードは「スペラード家全体に仕える護衛騎士」という扱いになる。
それなら、勝利の詩を捧げるのがアースであろうがユレイアであろうが問題はなくなるからだ。
だが、家全体に仕えるより、家の人間個人に仕えた方がよっぽど待遇はよい。
アースがユレイアの代わりに勝利の詩をささげる。
それだけで、護衛騎士バーナードは、不意打ちのように降格してしまうのだ。
「アース。そんなに心配をかけてしまったのなら悪かったけど、私はひとりでも勝利の詩が言えるわ。バーナードは頑張っていたし、彼はいつだって真っ直ぐで、悪いことなんてしない人だもの」
暗に、私が悪いってことにしてあげる、バーナードには罪がないから引いてくれ、と伝えたが、アースは小太りの腹を得意げにそらしただけだった。
「大丈夫、僕の方が上手に言えるから」
あ、こいつそこまで考えてないな。
瞬間的に悟って私は顔を歪めた。
自分の護衛騎士が負けたから、単にちょっと嫌がらせをしてやろう、くらいしか思っていない。
それが、他人の人生を急にひっかきまわしてしまうことなんて、予想もしていない顔だった。
どうしよう。
親は何をしているんだ、と思って振り返ったら、流石にショーン大叔父さんはやや青ざめていたが、シレーネ大叔母さんは目をうるませながら息子を見守っている。
「あー! よし、しょうがない! ユレイア、合わせよう!」
ウィルが叫ぶのにはっとして、私も慌てて頷いた。
誇らしげに前のめりになるアースと並び、隣に耳をすませて、声を揃える。
「あなたの勝利を讃えます。
あなたの弓は強く、矢は速く、剣は鋭く、盾は硬い。
その勝利がいつまでも、竜の抱えた宝物のように、あなたの胸を温めますように」
アースがぎょっとして私を振り返り、その拍子に舌を噛んだ。
驚いたせいで、詩の内容が飛んでしまったのだろう。
彼がもごもごと口の中で曖昧な言葉を呻く中、仕方なく私はそのまま声を張り上げた。
「あなたの勝利を喜びます。
あなたの勝利が天秤の神に誓って清きものであることを、私はここに証明します。
あなたはまた繰り返し、回帰する竜のように繰り返し繰り返し、我が身を守るであろうと信じています」
最後まで言い切って、はーっと深くため息をついた。
胸に手を当て、どくどくと走る心臓をおさえる。
バーナードは、完全に目からぼたぼたと涙を流しながら、胸に手を当てて鼓膜の割れそうな大声で叫んだ。
「幼くも尊き我が主人を! また繰り返し、回帰の竜のように繰り返し繰り返し、お守りすると今日の日も誓います!」
周囲の空気がふっと和んだ。
一礼をして、どっと疲れた心地で台座を降りた。
イヴリンがしずしずと後ろからついてきて、アースとそろって、私達は観覧席まで戻ってくる。
「あー、よかった!」
ウィルが誰よりも大きな声で、聞こえない安堵のため息をついた。
「これで、ひとまずアースの立場は「ユレイアの護衛騎士を讃える詩を協力した親戚」になったはずだよ。はあ、緊張したぁ! 心臓止まるかと思ったよ」
それは本気なのかブラックジョークなのか、と思いながらちらりと横を見れば、アースが真っ赤になって、すごい目で私を睨んでいた。
そもそも喧嘩を仕掛けてきたのはそっちじゃないか。
つーんと顔をそらしたら、少し遠いテーブルから、シレーネ大叔母さんが心配そうに息子を呼ぶ声が聞こえた。
そちらを見れば、ショーン大叔父さんが話題を変えようと、隣に座っていた美しい顔の神官の肩をばんばん叩いている。
神官は、ちらりとアースを見ると、くすくすと小さく、けれど確かに面白そうに笑っていた。
「かわいそうですね、アース様」
その声に、アースの顔がますます赤くなった。
拳を身体の横でぎゅっと握り、目尻には淡く涙すら浮かんでいる。
とたんに、さっと私の頬を撫でたのは、真剣な怒りだった。
「何もおかしくないわ」
笑っていた神官が、きょとんとした顔で首をかしげる。
イヴリンが足をとめ、ウィルが驚いた顔をして振り返った。
けれど私は、苛立ちのままにアースをぱっと振り返り、ずんずんと彼に近づいていった。
ぽっちゃりした腕を掴んで、泣きそうな顔を見上げる。
「よくできていたわ、アース。半分も綺麗に言えていたわ」
何故こんなに腹が立っているのか、自分でもよくわからなかった。
アースの事は嫌いだ。
いい印象がひとつもない。意地悪で、短絡的で、態度が悪いと心から思っている。
でも、彼を怒っていいのは、迷惑を被ったバーナードや、彼に深くまつわる人達だけだ。
こんな風に、よく知らない相手に軽率に笑われて良い訳じゃない。
アースはくしゃっと顔を歪めて、私の手を勢いよく振り払った。
「言えるんじゃないか。馬鹿にして……馬鹿にして……!」
「馬鹿になんかしていない。バーナードには、勝者の歌よりも素直な喜びを伝えたかっただけだわ。違う方法を選んだだけで、あなただって、騎士を喜ばせたかったことは同じ」
「うるさい、僕だってちゃんと、全部本当は、覚えてた……!」
「そうでしょうね。それに、例えば暗記が全部間違っていても、あなたが笑われていいことにはならないわ」
私はすうっと息を吸い、目を見開いているアースに向かって声を張り上げた。
「あなたの勇気を讃えます。
胸を張り挑んだ行いこそを讃えます。
繰り返し、回帰の竜のように繰り返し繰り返し挑み、いつかあなたの手に勝利が輝くよう、祈っています」
負けて帰ってきた騎士に対して、主が言うべき勇者の詩だ。
こっちの方が短いし、あちこちで貴婦人が話していたから、覚えてしまった。
アースは、驚きに目と口をぽかんとさせていたけれど、やがてあえぐように息を吸うと、誰にも聞こえないような声で、ずるい、と小さく呻いた。
「なんで、おまえばっかり……」
私が聞き返すまもなく、アースは物凄い目で私を睨み付けて、招待客に聞こえないよう低く吐き捨てた。
「この家から出て行け。この、親なし」
それから、すぐに彼は私に背を向けて、どすどすと大叔父夫婦の待つテーブルへと駆け去ってしまった。
さっきまで話し相手をしていた筈の顔の綺麗な神官は、シレーネ大叔母さんが甲高い声で追い出してしまったらしく、もう見えない。
アースは、父親に抱き上げられて膝に乗せられ、甘えたように首筋に抱きついていた。
その背中を見ながら、私は、急速に気持ちが落ち込んでいくのを感じていた。
どうしてこんなことをしたんだろう。
馬鹿なことをした。
彼が感謝なんかするはずないのに。
どうせまた、私のもう持っていないものを見せびらかして、嫌がらせするに決まっているのに……。
「元気出して、ユレイア。そういうこともあるよ」
ウィルが背中をすかすかと撫でてくれて、イヴリンがぴったりと後ろについて歩いてくれる。
二人に何とか微笑んで、私は落ち込んだ気持ちのまま、とぼとぼとテーブルへ戻っていった。
見送ってくれた貴婦人達は、一連のやりとりを見ていただろうか。
スペラード伯爵家の内部がギスギスしているとわかったら、何という反応をするだろう……。
そう思っていたけれど、元いたテーブルは異様な緊張感に包まれて、妙に沈黙している。
朗らかな笑顔で私に親切にしてくれた貴婦人達は、そこはかとなく青ざめて、ひたすらに貼り付けたような微笑みを浮かべていた。
「あら、戻っていらっしゃいましたね」
鈴を転がすような澄んだ声がして、私は首をかしげる。知らない声だ。
貴婦人達の影になって気付かなかったが、いつの間にかテーブルがひとつ、新しく寄せられて増えていた。
その席に、さっきまでは居なかった人影が増えている。
「急に訪ねてしまって、驚かれたかしら。私、どうしても今日のお茶会に来たくて、スペラード伯爵に無理を言ってしまったの」
たぶん、ヴィクトリアお姉様と同じくらいの年頃だろう。
湖のように青い髪と瞳の、きゃしゃで、清楚な印象の少女だった。
ふんわりと透けるような黒い絹を何枚も重ねたドレスを、金色のレースで飾っている。
誰だろう、と思うと同時に、「げっ」と斜め上から、本気で嫌そうなウィルのうめき声が聞こえた。
目線だけで「誰?」と質問したら、彼はまるできゃしゃな少女が爆発物でもあるかのようにおっかなびっくり迂回して、私の影に隠れた。
聞こえやしないのに、極限までひそひそ声になって、私に囁く。
「この場で、唯一君より身分の高いご令嬢……。一緒に虹を見た滝のふもと。カエルラ湖のほとりの街に住んでる……」
彼とほとんど同時に、テーブルで私を待っていた老侍女アメリが近づいてきて、私にそっと耳打ちをする。
「カエルレウム公爵令嬢でございます」
何とも気まずそうな声で、ウィルがぼそりと付け足した。
「……僕の、元婚約者様だよ」
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