第26話 虹の滝と人魚の花
窓の外で流れる景色が下り道なのに気づいたのは、城門を二つくぐってからのことだった。
「お祖父様、黒翼城に戻るのではないんですか?」
「いや……んん。そうだな」
お祖父様は、珍しく歯切れの悪い様子で咳ばらいをした。
私たちは、お土産にダイヤモンドをあしらったネックレスと髪飾りのセットと、揃いのデザインの小さな銀色のサッシュベルトをもらって、午後の遅い時間に仕立て屋を出た。
結局、王太子を悼む会の夜会ドレスと昼餐ドレス合わせて六着注文したせいでウィル以外はだいぶへとへとだ。
今日は他に予定のない私と違って、スぺラード伯爵は絶対に忙しいと思うのに。
「まあ、少し待て」
私は何かへまをしてしまっただろうか。結構お祖父様と楽しく談笑できたと思ってたのに。
ひそかに青ざめて座席の中で小さくなる私と違って、ウィルは目の前の雑多な街に目を輝かせていた。
「近くで見ると全然違う! ねえ城壁ひとつ超えるだけで全然違うんだね! 活気ってやつ? 人が沢山いる。王宮の新年祭みたいだ!」
確かに、ちらりと窓の外を見れば、スぺラード伯爵領の下町は人が多かった。
ゆるやかな坂道の大通りは両脇に水路が走り、小舟が渋滞するほどみっしり連なっている。
ほとんどの人が顎に届くほど荷物を積載し、崩れ落ちないかハラハラする。
けれど、誰もが慣れたようにするすると帆や櫂を操って器用に避けあい、また怒鳴り合って世間話をしていて、馬車に乗っていても耳が痛いくらいだ。
石畳の道を、山盛りのパンを抱えたお使いの少年が駆け上がり、敷物を広げた老婆が、運命を知りたくないかと手を叩く。
帆をたたんだ船をいくつも乗せた荷車を牛が引いて上り、太った女が調子っぱずれに歌いながら牛を先導する。
「民がひれ伏してない! 花とか撒かれてない! 本当の『普段の姿』ってやつがこれなんだね」
ウィルが両手を頬で包んで感動していた。
多くの人が、私の乗っている馬車に気づくと振り返って目を丸くしていたし、護衛騎士の姿を見て手を振る者も居れば、手近な誰かを捕まえて指さしている者もいるのだけど、彼にとってこの程度の反応は物の数に入らないらしい。
「あの水路の船、川港に向かって下ってるのかな? ダイヤモンド鉱山の荷物かなぁ。あ、僕今なら噂話が聞けるんだ! 聞いてこよう!」
止める間もなくすっ飛んでいったウィルは、ちょっとしてから「西方大森林から来た木材だったー」と嬉し気にふわふわ壁を抜けて戻ってくる。大はしゃぎだ。
けれど馬車の速度は速く、軽快に大通りを抜け、途中で少し細い道へ曲がると、そのまま平地へ出てしまった。
ごみごみと民家に遮られていた視界が開ける。
両側に広がるのは青く澄んだ広い空と、新鮮な刈り跡の残る畑、そして土埃にかすむ街道だ。
こういう風景は、トーラス子爵領に向かう時に使う道とよく似ているから、そう目新しくはない。
ただ、近づいてもなお青く澄んだカウダ川がゆうゆうと流れているのだけは珍しかった。
水鳥の群れが白い浮島のように水面で泳ぎ、放牧されているらしい牛が川べりで水浴びをしているのがのどかだ。
街道は二度ほど関所らしい砦を超えたけれど、スぺラード伯爵の馬車が止められることはない。
「……何か聞こえませんか?」
私はふいに顔をあげて小さく呟いた。
遠くから何か、地響きに似た低い音が聞こえてくる。
まるで、どこかでドロドロと太鼓を叩いているか、大きな動物の群れが走ってくるかのようだ。
「ああ、ユレイア。この音はね……」
「そろそろだな。まあ、楽しみにしていなさい」
ウィルの言葉へ被せるようにして、スぺラード伯爵が言った。
口調ばかりが重々しく、そのくせ赤い瞳は日差しの加減かほんの少しきらきらしている。
お父様とおんなじ赤い瞳だ、と何故か今さらのように思った。
何か聞く前に馬車は停まった。
そこは、カウダ川のほとりではあったが、木製の床が広がる小さな広場で、ちょっとした公園のようだ。
地響きのような音がますます大きく響く中、スぺラード伯爵に抱きかかえられて馬車を降りた。
相変わらずぎこちない仕草ではあったけれど、その腕はたくましくてびくともしない。
馬車をぐるりと迂回したスぺラード伯爵の、低い声が頭上から降ってくる。
「今日ならば、見えるかも知れんと思ってな」
馬車の影から顔を出したとたん、私は悲鳴のような歓声をあげた。
「うわあ……!」
そこにあったのは、一面の虹だった。
私は巨大な滝の真上に立ち、青空一面に広がる虹をど真ん中から見上げていたのだ。
どどどど、と低い地鳴りのような音を立てて、カウダ川は断崖絶壁へと白く砕けながら落下していく。
滝つぼからは一本の巨大な虹が鮮やかに立ち上がり、見事なアーチを描いて晴天の空に吸い込まれていた。
滝の下から巻き上げられた水が、常に細かく霧のようになり、さらに向かい風で広く周囲に散っている。
その上、午後の日差しがちょうど川面にまっすぐあたり、虹はこの上なくはっきりと見えた。
「きれい……」
どうやらここは滝を展望するための場所らしく、少し川面に張り出した床の先に、木の柵がもうけられている。
身を乗り出したらきっと崖の下が見えるのだろうが、今は向かい風のせいで柵の周囲は川の水でびしょびしょだ。
ウィルならば喜んで飛んでいくかな、と思って探したら、彼は私の肩の上あたりで大人しくふわふわと浮いていた。
呆然と虹を見上げながら、目元を袖でこすっている。
私が見ているのに気づくと、彼は慌てて顔をそらした。
けれど、お人形さんみたいに綺麗な目元は赤くなり、どんな水しぶきもすり抜けるはずの頬には、小さな水滴が乗っている。
私は見てはいけないものを見てしまったような気がして、とっさに知らなかったふりをした。
切なさが胸にしのびより、何故だかむやみに抱きしめてあげたくなった。
彼は三回目も王太子として生きていたというのに、こういう景色を見たことがなかったのだ。
スぺラード伯爵は、私がきょろきょろと首を回して虹を見上げては、難しい顔をしているように見えたのだろう。
「春の足音を聞くこの時期は、ある日を境にして凍える西風から暖かな東風に変わる。我が故郷では、東風に乗って虹の神が駆けこみ、その千切れた衣の裾が見えるのだ、と言われている」
と、まるで信じていない口調で解説してくれた。
幽霊を信じない将軍伯爵は、虹の神にもかなり冷たいらしい。
私はくすくすと笑って、ウィルのためにも「もっと近くで見たいです」とねだった。
「仕方がないな」
と言うわりにそう怒ってもいなさそうなスぺラード伯爵が、ちらりと後ろを見やった。
護衛のために控えていた騎士のうち一人が慌てて走ってきて、長いマントを広げて差し出した。これを使って、水しぶきを避けるのだろう。
「あっ」
マントを渡した騎士を何気なくみて、私は声をあげた。
スぺラード伯爵の側近くに控えるには随分と若く見える彼に、見覚えがある。
「あの、騎士のお兄さん。あなた宝石店で会いませんでしたか? お父様のこと、隊長って……」
とたんに、マントを持っていた腕が固まり、青年の顔がみるみるくしゃっと歪んだ。
「さ、さようでございます。覚えて、くださ……っ。こっ……このたびは……ユレイア様、まことに……」
そこまで言うと喉で声を詰まらせ、騎士の青年は大きく息を吸った。
スぺラード伯爵が厳しい目でじろりと青年騎士を見たけれど、私はつられて涙ぐんでしまった。
彼は、お葬式で床に崩れ落ちて泣いていた。
あの時私は、心が凍りついて冷めたまなざしで見守ることしかできなかったし、今も、その生々しい悲しみに触れれば、一瞬であの時のお父様の横顔を思い出して胸が苦しくなる。
けれど、だからこそ、私は感謝を今伝えなくてはいけないのだ。
私は青年騎士の腕を取って、スぺラード伯爵の顔を見上げた。
「お祖父様、この方と少しお話をしてもいいですか?」
「そんな、ユレイア様!」
「お父様の話を聞きたいんです。だめですか?」
スぺラード伯爵は、不機嫌そうに青年騎士をひと睨みしたが、むっつりと口を一文字に結びながらも、私を床に降ろしてくれた。
「私が聞いていては、バーナードも話し辛かろう。濡れぬように、気をつけよ」
どうやら、好きなところに行って話していいということらしい。
直立不動で青ざめていたはずの青年騎士は「私の名を、覚えて……くださったのですか……」とわなわな震えて感動していた。
素早く深く膝をつき、スぺラード伯爵に騎士の敬礼をした彼を見守ってから、私はそろそろと滝の方へ向かって彼を待った。
相変わらず巨大な虹は、ひとつひとつの色を数えられそうなほどくっきりと鮮やかに輝いていた。
足元に霧のような水しぶきが漂い肌寒いが、吹いてくる風はほのかに暖かかった。
「ユレイア様、お待たせいたしました!」
「ねえ、ユレイア誰この人。何なに。ちょっと、誰この男!」
駆け寄ってきてマントをかけてくれたバーナードを、ウィルがよその猫の匂いを嫌がる家猫みたいな態度で眺めていたので、私は説明がてら青年騎士を見上げた。
「……新年祭の前に宝石店で、お会いしましたね」
あの時の楽しかったことを思い出すと、すぐにでも胸が胸が切り裂かれて血が流れそうな痛みが走る。
私は必死に無視して話を続けた。
大丈夫、大丈夫。
だって、私にはウィルが、回帰の力を持つ幽霊がついている。
本当にうまくいけば、この悲劇だってやり直せる。
「お父様の部下だったんですよね。黒翼城ではあまり見た気がしませんけれど。……ずっと近くに居てくれたんですか?」
「いいえ。……ぐすっ。その、幽霊の噂を聞いて、無理を言って任地から……飛んできたのです。普段は、このカウダ川の対岸にあるタブラという街の護衛を任されております。今日は……遠くからでもユレイア様を見守りたいと言っていたのが、ようやく……っ」
「気にしてくださったんですね」
「あ、あ……あたりまえです……っ!」
ずずーっと鼻をすすって、バーナードは目元をぬぐった。
そんなに盛大に泣かれると、一緒に泣くより前に心配になってしまう。
だが、いつか時が戻った時のためにも、どんな情報だって集めておかなくては。
彼だって、あの血塗られた新年祭の直前に現れたのだ。
黒幕には見えないけれど、知らないうちに何か知っている可能性はある。
「バーナードさ……。バーナードは、お父様に、スぺラード伯爵領に戻って欲しいと言っていましたね。もしかして、お母様との結婚に反対していたんですか?」
とたんに、酢を突然飲まされたような顔をしてバーナードが青くなり、そして小さくなった。
勢いよく膝をついて頭を下げたが、そうなってようやく私と同じくらいの視線だ。
キリッとした茶色い眉と澄んだ青い瞳が、暑苦しくも誠実な印象を受けた。
「申し訳ありません!!!! 人の気持ちを考えずに、自分の都合ばかり押し付けて!!! いかようにも罰をお与えください!!」
巨大な滝の音すら吹き飛ばすような大声量に、ウィルが音圧でふっとぶ真似をした。
「あの……ええと、罰とかではなくて、どうしてお父様がトーラス子爵領にお婿入りしたのか聞きたくて……」
スぺラード伯爵には、まだ互いに傷が深くて聞けなかった。
あの時反対していれば、あの時に優しくしていれば、という後悔渦巻く老人にそんなことはできない。
けれど、気になることは確かなのだ。
ここに来て肌で実感しているけれど、スぺラード伯爵領は、どう考えてもトーラス子爵領より間違いなくお金持ちだ。
だというのに、その身分を投げうってトーラス子爵領に来るには、何か複雑な事情があったと思ったのだけれど。
それは……とバーナードが喉のあたりで声を詰まらせた。
「隊長は、マリアンネ様とご結婚されて、本当に、本当に幸せそうでした。それだけは、赤き軍神に誓って本当です」
「ええと、それは……知っていますけど」
たぶん、この場に居る誰よりもよっぽど知っていると思う。
何故そんな言い方をするのだろう。そんなに答えづらい事を聞いてしまったのだろうか。
困って指をこねあわせている私の横にふわふわ寄って来たのはウィルだった。
「あれ、ユレイア聞いてなかったの? 王宮じゃ有名だよ。銀麗の騎士団長とエメラルドの令嬢の大恋愛。一目惚れ、駆け落ち、結婚式の三拍子そろった年頃のご令嬢達の憧れなんだから!」
聞いてなかった。
いや、正確にはお父様からそっくりそのまま「銀麗の騎士団長とエメラルドの令嬢の大恋愛」の単語で聞いていたせいで話半分に聞き流していた。
だって絶妙に気恥ずかしいじゃないか、親の結婚話がご令嬢の憧れの大恋愛とか。
お父様はあの性格だし、絶対にはぐらかしていると思ったのに。
バーナードはしばらく歯を食いしばって地面を睨んでいたが、やがて全力疾走をしたばかりのように必死な顔をして、私を見た。
ほんのりと背筋がざわつく。
有名な大恋愛の話で、どうしてそんなにも辛そうな顔をするのだろう。
「隊長は……っ! スぺラード伯爵家当主の座を、姉のジョセフィーヌ様に譲りたかったんです。これから生まれる、すべての少女達のために……!」
私は目を見開いた。
急に話が壮大になっている。
確かにお父様はあらゆる女の子に優しかったけど、男の子にだって優しかったし、別に少女に特化した味方って訳ではなかったと思うけれど。
「どういうことですか?」
「ジョセフィーヌ様が、カエルラ湖大戦でかつてなく優秀な指揮官であられたのはご存じですか?」
いいえ、と私は首を横に振った。
「歴史のお勉強も、まだ神話の話しかしていなくて……」
「あ、そうですよね! あまりに大人びていたので、申し訳ありません! 大丈夫です、俺なんて歴史を真面目に学んだのなんか、騎士学校に入ってからでしたよ。……そうだ、ここなんかちょうどいいです」
そう言ってバーナードは、まだ小脇にかかえていたマントを私に渡すと、頭に被るようにうながした。
「ユレイア様がまだ生まれる前。隊長が青年で、私はまだ少年だった頃です。アウローラ王国は、二つの国の戦を止めるために戦いました。カエルラ湖大戦と呼ばれています」
「うん、知ってるよ。本で勉強した。僕のおじいちゃんが王様だった時代の話だね」
ウィルが、返事がないのを分かっている癖にそう答え、ぱちんと指を鳴らした。
風で飛ばされそうなマントが、さりげなく私の手元に動いたので、私は無事に頭を布地でくるむことができた。
バーナードはきっちりと私が防水性を備えたのを確認すると、頷いて滝の方へ近づいていく。
私とウィルは同じように不思議な顔をして、その後についていった。
「二つの国の恨みは強く、泥沼の争いになっていました。疲弊しきった二つの国をなだめて、和平を結ぶように説得して。結局、どちらも飲み込んでひとつの国にしたのが、今のアウローラ王国です」
そう、ちょうどここから見えます。
そう言って、バーナードは滝に張り出すようにして作られた木の柵へ腕をのせ、指さした。
私も柵の隙間から目をのぞかせて、くっきりと鮮やかな虹の向こう側。雲一つない青空の向こうを見遥かす。ウィルが高らかな歓声をあげた。
「高い……!」
大断崖は想像した以上に高さがあった。
突然空が飛べたらこんな気持ちになるだろうか。
まるで青空の中に投げ出されたようだ。
切り立った崖の向こう側に、細長い、茶色くくすんだ平原が広がっている。
細長く見えるのは、左側は茶色く切り立った崖で、右側は青くとがった山脈に囲まれているからだろう。
ちょうど、大地をクッキー生地みたいにぎゅっと三日月に型抜いてしまったようだ。
私の居る滝は、お月さまの一番下あたり。それも残った生地の上だ。
「あの平原の奥には港があります。かつてはアンティカという名の国でした。そしてこの真下、湖のほとりにもまたノヴァという国がありました」
「へー。あ、本当だ! こっちまで出ると真下の湖が見えるよ!」
説明してくれているバーナードと、きゃっきゃと柵を飛び越え、空中で遊んでいるウィルにわずかに頷いたが、無事に眺めていられたのはそこまでだった。
足元が水しぶきが激しくて白くかすんでいるのが幸いだが、もう無理だ。
私は全身に震えが走るのがこらえきれずに、よろよろと後ろへ下がった。
だめだ、怖い。
高い所、すごく怖い。
私が青ざめているのに気づいて、バーナードが慌てて滝から離れてくれた。
「申し訳ありません! まさか高いところが苦手だったとは……!」
「えっ、そうなの? まさか、どうして? 僕と一緒に夜空を飛んでくれた時は笑ってたじゃない!」
そういえば、あれは何でだったのだろう。
まさかウィルが隣ではしゃいでいたから大丈夫だった、なんていうのはちょっと悔しい。
多分、全身が浮くのは平気なんだけど、高い場所に立っている状況が駄目なのだろう。
私はきっと、高さではなく重力の方が怖いのだ。
だが、とりあえず今は、ひたすらに恐縮するバーナードの方が心配だ。
「だ、大丈夫です。お話の先が気になります。バーナードは、参加していたんですよね?」
ひとまず自分が大丈夫だと思えるところまで下がって、やや穏やかな川面のほとりまで歩いた。
雪解けの水で増水しているのか、川べりに張り出した板床は、しゃがめばすぐ手が触れられそうなくらい水面に近い。
ここならば、そんなに怖くない。ただの川べりだと思えば大丈夫。
気をそらしたいという意味もこめて先をねだると、はい、と言って、少しだけバーナードは声を低めた。
「カエルラ湖大戦の当時は、今見えているあの平原が真っ赤に染まりました。ここから見ると、黒い点のような人がぶつかりあって、もみあって、敵も味方もどちらかわからないようでした。平原を歩くと、人が手放した武器があちこちに落ちていて、疲れた足が傷だらけになりました」
「そんな……」
想像するだに恐ろしい風景に、私もウィルも言葉をなくして黙って立ち尽くした。
バーナードは、子供にそう詳しく話すものでもないと思ったのか、慌てて口調を切り替える。
「そして! その戦いで大きな功績を残したのが、スぺラード伯爵家。その中でもジョセフィーヌ様なんです!」
「そうだったんですか……」
お父様は、姉が優秀で肩身が狭い、などと言っていた。
またいつもの軽口だと思っていたけど、ある程度は本当だったのだ。
「隊長は、お姉様想いの優しい方でした。そして、ジョセフィーヌ様は、貴婦人を護衛するためだけの女騎士とは違う、戦場こそが生きる場ともいえる、本当の軍人でした」
だからこそ、とバーナードはわずかに声を低めた。
「当時、ジョセフィーヌ様が次期スぺラード伯爵になるというのは、とてもとても大きな意味を持っていたんです。他の女騎士にとっても、ジョセフィーヌ様自身にとっても」
ああ、と私はため息をついた。
ここでも、そうなのか。
異世界に転生したとしても、そういうものから逃れられないのだ。
生まれつき腕力がある方と、ない方。
繁殖すれば数年間、まともに身体を動かせない方と、動ける方。
そういう絶対的な違いが、いつしか社会の中で勝手に限界を決めて、どちらの方も苦しめている。
そう生まれたことはその人のせいではないのに、どちらも双方呪われて、苦しまずにはいられない。
私の静かなため息を、表情を勘違いして、ああ! とバーナードは慌てた。
「違いますよ! ユレイア様のお祖父様は、戦果を正しく評価する人です。おそらく、隊長が家に残ったとしても、ジョセフィーヌ様が当主になられただろうと、今なら私も思います。けれど当時は、皆も私も、スぺラード伯爵を……誤解していて」
「あー、見るからにそんな感じだよね」
「それは、わかります」
思わず私とウィルが同時に頷くと、バーナードはほっとした顔をした。
「きっと、隊長は、絶対に確実な手段を取りたかったんだと思います。十貴家十四臣家の中でも、伝統的に女性子爵のみと決まっているのはトーラス家だけですから。マリアンネ様とのご結婚は、隊長にとって渡りに船であったのでしょう。……もちろん、お二人が愛し合っていたことは前提として、です!」
「大丈夫です。それは当然、知っています」
まったく動じない私の横で、ウィルが「ねー。本当にねー。どの前世のいつの式典でも、本当にいつも仲良さそうでさー。羨ましかったなー」と頷いている。
その話は聞きたいから後で問い詰めよう、と静かに心に決めている私の前で、バーナードはちょっと口ごもって付け加えた。
「隊長がされたことは、正しかったと私は思っています。当時も、そんな隊長にあこがれていたんです。そして実際、隊長がご結婚後、ジョセフィーヌ様は、騎士学校に女騎士専門の部門を立ち上げ、そこの教師になりました。あの方は、多くの女性騎士を生み出した方なんです」
わずかな衝撃と共に、胸に寂しさと誇らしさがじんわりと滲んだ。
お父様は、確かに優しく、そして高潔だったのだ。
誰もが認めるべき戦果を上げた姉が、正しく認められないのが腹立たしくて仕方なかったのだろう。
もしかしたら、ただ自分が男に生まれただけで、成果を過剰に膨らまされる事、それ自体も耐え難かったのかも知れない。
楽して大きな成果がもらえればいいじゃないか、と気楽に鼻歌を歌うには、たぶんお父様は視野が広すぎた。
自分が何を踏みつけているか、踏ませられているか分かってしまって。
それがとにかく、許せなかった。
案外、理想家で潔癖な人なのだ、お父様は。
けれど、とバーナードの誇らしげな顔に、ふっと苦さがしのびより、雨にうたれたむく毛の犬のごとく悲しげになった。
「落馬事故でジョセフィーヌ様が亡くなられて……スぺラード伯爵家が……」
なるほど、と私は頷いた。
大叔父さんと大叔母さんに乗っ取られるんじゃないか、と心配したのだ、彼は。
だから、あんなに必死に、お父様に戻ってきてくれと頼んだのだ。
もしかしたら、私達がもっと大きくなっていたら、お父様が当主を引き継ぐ未来もあり得たかも知れない。
あるいは、今のように強制的ではなく、孫の誰かが跡継ぎとして引き取られるということもあったかも知れない。
きっとヴィクトリアお姉様なら、喜んだだろう。
──生きているうちに、仲良くできたらよかったのに。
いつだって、後悔するのは何かが起こってからだ。
悲しげに黙り込んでしまったバーナードへ、ちょっとだけ微笑んで、私は首をかしげた。
「ジョセフィーヌ様は、どんな戦果をあげられたんですか? ヴィクトリアお姉様から、十人の敵を投げ飛ばしたとか、率いた部隊を無傷で帰したとか、御前試合で優勝したとか、そういう話は聞いていますけれど……」
多分お姉さまは、小さな妹に気を遣って、戦争の話はしないでいてくれたのだ。
バーナードは、ぱっと顔を明るくして頷いた。
彼はあまりそういう事にまで気を回せないタイプらしい。
朴念仁と言われてしまうかも知れないけれど、私は、ちゃんと真っ当に大人として扱われているみたいで心地いい。
「そうですね! 特に有名なのは塩の道の待ち伏せでしょうか。ジョセフィーヌ様は情報戦の帝王でしたから! ああでも、ちょうど川を渡る作戦があってですね。カウダ川ではないんですけど。ジョセフィーヌ様は、こう川べりにしゃがみこんで……」
嬉々として川べりにしゃがみこんで実演するバーナードの横について行って、私は熱演する背中を眺めた。
私と一緒に、興味深げにうんうん頷いて寄って来たウィルが、ふっと川面を見て「うわあ!」と顔を輝かせた。
「ねえユレイア、人魚がいる!」
私は目をしばたたかせた。
そう言えば、彼は私が見えなくなった妖精が見えるのだ。
忙しくてあまり話題に上らなかったけれど、私が見えていないだけでちゃんと存在しているのだと思えば、やっぱり嬉しい。
「緑の髪の人魚だよ、うわぁ、僕初めて見た! 本当に人魚って居るんだ……! 流れが速いだろうに全然流されてない、すごいや……!」
思わず私もウィルの視線を追いかけて、人魚がいるらしい川面に目をすべらせた。
ゆったりと青い水面は、あからさまに泡立って不自然に揺れているようには見えない。
けれど確かに言われてみるとほんの少し、魚が泳いでいるかのような揺らぎがある気がした。
「あ、滝? 滝かぁ。すごいな、全然滝から上ってきちゃってる……! これから上流に移動するみたい!」
そういえば、夏にピクニックをしたトーラス子爵領の湖で、人魚をよく見た。
もしもカウダ川があの湖に繋がっているなら、春や夏になると人魚は川を上るのだろうか。
秋に川のぼりをする鮭みたいに。
「うわぁ、こっちに来る! こっち……ああ、何だぁ。僕じゃなくてユレイアが好きみたい。そりゃそうか、君はいにしえの聖地の子だもんね」
しょんぼりしているウィルには悪いけど、私のところに来てくれていると言うなら、妖精に構われて育った身としてはとっても嬉しい。
何しろ人魚には、ロビンお兄様の命を救ってもらった恩がある。
私は、バーナードの話を聞いているふりをして川べりにしゃがみこみ、ひょいと水面に手をつけた。
途端に、指先に漂う水の種類が変わった気がした。
ウィルがぱちんと指を鳴らした時に少し似ている。暖かな水が絡みつき、手のひらを包むのだ。
「ほらユレイア、なんか差し出してる!」
ウィルの声と同時に、私の手の中に何かが現れた。
彼が教えてくれなかったら、流れて来た水草が、急に指に引っかかったと思っただろう。
引き上げて見ればそれは夏のトーラス子爵領でも珍しい大切な薬草で、私は嬉しくなって「わあ……!」と顔を輝かせた。
「そこでジョセフィーヌ様はこう……あれ、どうしましたか、ユレイア様?」
流石に私の様子がおかしいことに気づいたバーナードが、にこにこしている私に首をかしげる。
「いいものを見つけたんです! ほら!」
自慢げにバーナードに見せると、彼は目を見開いた。
驚いている彼に気をよくして、私はぱっと立ち上がって、水草を握りしめたまま振り返った。
スぺラード伯爵は、思ったより近い位置に腕を組み、直立不動で立っている。
ずっと私達の方を見守っていたらしく「お祖父様!」と振り返って呼んだすぐに気づいて腕をほどいた。
「どうした、ユレイア」
駆け寄るなり重々しい声で問われたが、その膝は地面について、私に視線を合わせてくれている。
そんな小さな歩み寄りが嬉しくて、私はにっこりと笑って、人魚からの贈り物を押し付ける。
海草と花の間のような、細い茎をした青い花だ。
星のような五枚の花びらは美しく、水に濡れてつやつやと輝いている。
「お祖父さま、これを差し上げます」
さっと、スぺラード伯爵の顔色が変わった。
「これは……」
「人魚の花です!」
トーラス子爵領では、夏に行く湖で探すとたまに水辺に生えている薬草だ。
スぺラード伯爵の方ではないお祖父様に渡すと、器用に加工して軟膏にしてくれたが、擦り傷とかによく利いた。
あるいは、干して煎じてお茶にすると本当に疲れが取れるのだ。
「とてもよく利くんです。お疲れでしょうから、使ってください」
にこにこと笑って言ったが、スぺラード伯爵は答えなかった。
黙って、本当に石像のようになってしまったかのように硬直している。
「
震える声で囁いたのは、ウィルだった。
てっきり「わあ珍しいねユレイア、綺麗だね。みせてみせて、いいなぁ、人魚からもらった花なら僕も使いたい。幽霊だけど!」とかブラックジョークのひとつでも言うかと思っていたのに。
振り返れば、私の手を覗き込んでいたウィルは、まるで毒でも飲んだかのように青ざめている。
え、何……?
一気に凍り付いた場の空気に、言い知れぬ不安にさいなまれる。
スぺラード伯爵は、大きく息を吸い、吐くと、私の頭をがしりと掴んで、揺らした。
「……ありがとう、ユレイア。驚いたな。大切に使おう」
低く呻くような声でそう言われて、ようやく頭を撫でられているのだと気が付いた。
ひとまずほっとしたけれど、スぺラード伯爵は人魚の花を素早くマントの内側にしまうと、ついでに私もさっと抱き上げて立ち上がってしまった。
あまりに素早く動くので、がっくんと首がゆれて慌ててスぺラード伯爵の肩にしがみつく。
「バーナード」
呆然としゃがみこんでいたバーナードは、スぺラード伯爵の声に飛び上がって胸に手のひらを当てた。
「はっ」
「今この瞬間から、お前は我が孫娘の専属護衛騎士だ。ますますの忠誠を捧げよ」
「仰せのままに」
唐突過ぎる人事異動に、「えっ……え?」と私は目を白黒させた。
そりゃあ、彼はいい人だと思うけど、別の街の護衛を任されているって言っていた。
権威はあるかも知れないけど、私の護衛騎士は街の護衛より暇だと思う。
だというのに、スぺラード伯爵は、私を抱えたまま無表情で、次々とバーナードの人生と周囲の人の運命を次々捻じ曲げていく。
そしてそれを、バーナードも青ざめたまま、口を引き結んで受け入れている。
なんで、なんで?
混乱しきっている私のそばに、すうっとウィルが近づいて、ユレイア、と囁いた。
人形のような顔が青ざめているせいで、本当に、本格的に幽霊のようだ。
「とんでもない……。君は、とんでもないことを今、してしまったんだよ」
視線だけで、まったくわからない、という顔をしたら、ウィルが誰にも聞こえないくせに声を低めて、風のような声でぼそぼそとつぶやく。
「人魚の花は万能薬だ。死に瀕した人間もたちどころに息を吹き返す、神秘の妙薬」
それは、知っている。
ロビンハートお兄様で実演済みだ。
だけど、人魚の居る異世界で、そんな薬当たり前に流通しているものではないのか。
「アウローラ王国がカエルラ大戦を制して、二つの国を飲み込んだ理由のひとつが、これだよ。神秘の秘薬。無傷の兵の源。戦争において、兵士が損傷しないことがどれだけ意味があるかは、わかると思う」
そこまで貴重な薬だったのか、と思うと同時に、どんどん嫌な予感がしてくる。
不安に黙り込む私をよそに、スぺラード伯爵とバーナードは、濁流のように予定を詰めている。
「バーナード。お前は妻と娘がひとり居たな。妻は伯爵家に上がらせ、おまえと同じ部屋に住まわせよ。娘はユレイアと同じ年の頃だったな。その娘を本日からユレイアの専属侍女とする。よく仕えることだ」
「もったいないことでございます」
その流れの中に注ぐ雨のように、ウィルの声がさらさらと響く。
「人魚の花があること自体は問題じゃないんだ。もちろん、ダイヤモンドみたいに高価だけど、僕だって使ったことはある。だけど君は、それをこの場で手にしてみせた」
ごくりと唾液をひとつ飲んで、人魚の花はね、とウィルは囁く。
「王族管理下にある神官しか、手に入れられないはずなんだ」
ぽかんとした私に、噛んで含めるようにウィル告げた。
「王家が常に貴族達に有利に立てる理由のひとつが、これなんだ。王太子の僕ですら、神官がどうやって手に入れているのか知らない、って言えば、どれ程厳重な秘密かわかる?」
徐々に、遅ればせながら意味を理解しはじめて、私はさあっと青ざめた。
「いいかい、君は今、王族直下の神官達だけが持っている権威を、根底から覆そうとしているんだ。それがどれ程危険なことか、わかるかい?」
私はぱくぱくと口を開け閉めする。
だって、だって、そんな。知らなかった。
トーラス子爵領では、普通に薬箱の中に入ってた。
あわてんぼうのお喋りな料理人や、おてんばなヴィクトリアお姉様が、切り傷や火傷を負った時に普通に使ってた。
バーナードの、決意と使命感にあふれた声が、耳に強く飛び込んでくる。
「隊長の忘れ形見を、命に懸けてもお守りいたします」
ウィルが、すうっと半透明の指先で、私の頬を撫でる。
「君を黒翼城に閉じ込めたスぺラード伯爵の判断は、正しかった」
ああ、どうして。
いつだって、後悔するのは何かが起きてからなのだろう。
そろそろ日は暮れて虹は消え、夕日が川面を赤く染めていた。
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