第10話 唐揚げの野望
とんとんとん! と力強い包丁の音が響く。
石造りの厨房は、三歳児の背丈から見上げるとちょっとした要塞だ。
大きな調理台は分厚く背の低い壁のようだし、天井から吊るされた大小さまざまな鍋は武器のようだ。
天窓から降る光に照らされてうねる水蒸気は、大砲の煙だろうか。
「あ、あのぉ……」
「でなおっちゃん! そん時に俺は言ってやったのよ、やいてめえそれ以上うちの旦那様のこと知った口利くんじゃねえぞ。なぁにがラル坊ちゃんだい、もうマリアンネ様のご伴侶様だ、トーラスの旦那様だぞ、ってなぁ! そうしたら何て言われたと思う、そいつ……あ、おっちゃん、レンズ豆もうペーストしちまっていいのかよ、直前にやんなくていいんだな!?」
「今やっとけ」
「おうよおっちゃん! かー、懐かしいねえ豆のペースト! ヴィクトリアお嬢様が赤ん坊の頃は、もうこればっかり食ってたねえ。色んなもんよく食べたが、こいつを前にするとにこーっと笑うのが可愛いのなんのって……おいおっちゃん! もうスープあげていいよなぁ!」
「おう」
忙しく行き来する足の上から、耐えぬ陽気なおしゃべりとぶっきらぼうな返事がまばらに降っている。
野菜を切る青っぽい匂いと、鍋からこぼれてじゅっと消える羊肉のスープの香り。窯からはパンの香りが漂い、その全体を薪の匂いがまとめている。
昼食前の厨房はいつだって戦場だ。
「あ……のぉ……」
鶏肉を骨ごと叩き切る料理長の包丁に紛れ、私の声はもちろん届かない。
おしゃべりな弟子が、鶏みたいな声で四回「おっちゃん!」と呼んでようやく返事をするくらいなのだ。私の声を拾い上げるなんて、埃が積もる音を聞き取るようなものだ。
来る時間帯を間違えたな、と静かに悟り、私はへばりついていた石壁からそっと離れた。
厨房まわりは頑丈で火事にも強い、真っ黒な石壁だが、居室や廊下は木製だ。
暖かな緑色の羊毛絨毯の上をとぼとぼ歩きながら、私はがっくりと肩を落としてため息をついた。
「はぁ……」
うすうす気づいていたけれど、私は意志が弱い。
生まれたばかりの頃は、もう生きていきたくなかった! と勢いで現世からの逃亡を決意したけれど、お姉様のかわいらしさにいつの間にか陥落。
妖精が見えるなんて私は不気味なんだ……! と思い詰めても、お母様とお揃いだとわかったら、あっさり掌を返して、まあそれぞれよね……と方向転換。
兄なんて生き物怖すぎて近寄れない! と思っていたのに、お兄様の優しさにすっかり参って降伏宣言。
「くっ……気づきたくなかったわ……」
思い返すだけで、どう考えても意志薄弱と言うほかない。
つまり私はいつだって、傷つきたくなくて、痛い思いをしたくなくて、そして、幸せというものの重さに耐えきれない弱弱しい足腰をしていたのだ。
よろよろと廊下の突き当りまで出て裏口から出ると、目の奥が痛むくらいに明るい裏庭へ出た。
「まぶしい……」
トーラス子爵領の領主屋敷は、流石に地方なだけあって裏庭まで広い。
ただし、王都の子爵屋敷と違って大変に素朴で、小さな広場はレンガの小道がくねり、生い茂る夏草は好き放題に伸びている。
レンガの小道はよく手入れされた明るい林へ続き、濃緑の梢の向こうには青い水底のような夏空が広がっていた。
陽射しは明るかったが、避暑地なだけあってからりと風は軽く、木陰は肌寒いほどに涼しい。
よいしょ、と裏口横にある小さなベンチへ腰掛け、私は頬杖をついた。
三歳の子供が苦も無く座れるような小さな椅子は、去年お父様が私のために作ってくれたものだ。
色んな図鑑を見比べて、ベンチの背に刻む模様の図案を考えてくれたのはお兄様だし、両手も顔も染料でべたべたにして色を塗ってくれたのはお姉様だ。
そのお父様や、お姉様は、最近すこし沈んでいる。
私の叔母にあたり、ピクニックに行った日の夕方に、落馬事故で亡くなったという報せが届いたのだ。
私は会ったことがなかったし、幼かったからお葬式には行けなかったけれど、有望な女騎士だという彼女に憧れていたお姉様は随分と泣いていた。
だが、一番辛いのはお父様だろう。何しろ、複雑な事情がありそうだとはいえ、それでも実の姉が亡くなったのだから。
──流石に、ここまで甘ったれた根性をしている私でも、そろそろ腹をくくらねばなるまい。
「恩返しを……しなければ……!」
額を抑えた私の周りを、小さな笑い声を立てて妖精が飛び交っている。
みんなが黄色い花びらの服をまとっているのは、夏草の間にあるひまわりに似た花が、このあたりによく生えているからだろう。
背の高い黄色の花は、緑の海に浮いた黄色い果実のようだ。風の吹くたびざわざわと波のように揺れて、時折緑に沈み、またぽかんと浮かんでくる。
妖精達へは、毎晩窓辺にミルクを置いて好きに飲ませてあげているからか、私がベンチに座っているだけで勝手に肩や膝、頭に乗ってくつろぎはじめる。
何となく無意識にその頭を指先で撫でながら、私はぐぬぬと歯噛みした。
私ときたら! 私ときたら!
近くをうろついている妖精には甘いくせに、こんなに優しくしてくれる家族には何もしてやいない!
確かに、人に何かをしてあげたい、というのは勇気がいる。
自分の能力で出来るだろうか、喜んでもらえなかったら、と考えるだけで不安になるし、かつて与えられる親切を見なかったふりした時の申し訳なさが倍で襲い掛かってくる。
だけど、だからこそ。なればこそ。
「おいしい物を……食べさせてあげたい……!」
前世の私は、学歴こそ低かったものの家の家事を一手に引き受けながら家業の手伝いをする生活を送っていた。
すなわち、家事全般の特に料理に関しては、そこそこ身に覚えがある。
凝ったものはそう作れはしないが、忙しい合間を縫ってこれだけはひそかにこだわっていた、というメニューが存在する。
あまりにも普遍的においしいがあまりに、はたく粉は片栗粉派、小麦粉派、半々などの派閥に別れ、味付けは醤油派、塩派、調味料はもみ混む派、寝かせる派に枝分かれし、かけるソースはレモンかネギだれかニンニクか諸々と戦いは終わらない。
ありとあらゆる千差万別のバリエーションを持つ、食卓の庶民派エース。
そう、唐揚げ。
私は、バリバリザクザクの衣を片栗粉多めの小麦粉で作って、シンプルに塩で味付けして、ネギとニンニクをたっぷり使ってごま油であえたネギだれをかけるのを至上として作っていた。
まあ、私がどんなに手間をかけて作っても、前世の家族は当然の顔でテレビを見ながら片手間で腹に入れていたが、という嫌な思い出がよみがえってきたので無理やり封印。
今はそうではない。
私は今度こそ、前世で得た知識を使って家族にこの世界ではあり得ないような美食、渾身の唐揚げを食べてもらうのだ。
受けてほしい、私の渾身の愛情表現。
「問題は、どう作るかよね……」
頭の中に最高の唐揚げを思い浮かべながら、私は腕組みをして真剣に眉間にしわを寄せる。
調理台は、昼食が終わってから料理人たちが一息ついた時に、また声をかけに行くから大丈夫。
配膳や掃除をしてくれるお手伝いさん、いわゆるメイドさん達は、近所の農家から通いで来ているけれど、あの料理人達はお抱えだ。
首都の屋敷にも移動する直属の使用人というやつで、全体的に子爵家一家へ甘い。
頼めば、たぶん変な料理に首をかしげながらも、作ってくれるだろう。
目的は、おいしいものを食べてもらうことだから、自分で作れなくても問題ない。
そりゃあ確かに残念ではあるものの、レシピだけ渡して横で口を出させてもらえれば十分だ。
材料だって、ネギはないけど、領地で栽培している白麦ならある。たぶんあれは小麦粉に相当するはずだ。
鶏、と呼ばれている鳥は、前世と違って雉に似た長い首をしていて、リリリ、と鳴いていたけれど、味も性質もおおむね鶏だったから問題はないはずだ。
問題は油だ。
羊毛が盛んだから、オイルランプは基本的に羊油や牛脂でまかなっているけれど、揚げ物が出来るほどの油の量はない。
ちょっと多めの油で揚げ焼き、という手もなくはないけれど……。
「それは……唐揚げじゃない……っ!」
ぐぬ、と私は譲れないこだわりに歯噛みした。
美味しいけれど。半身揚げだっておいしいけれど、私が理想としている唐揚げではないのだ。
それに、動物の油で揚げ物は、結構臭みが強くて味に差し障る。
どうしても、植物油が必要なのだ。
しばらく悩んだ後に、よし、と腹を決めてベンチからひょいと立ち上がった。
「……市場に連れて行ってもらえるように、お母様に頼んでみよう」
ついでに、花でも持っていこうかな。
私は、ちくちくした茎で怪我しないようスカートで手を包みながら、ひまわりを一本折って腕に抱えた。まだ若い株なのに、すでに花が私の顔くらいある。
まるで夏の塊のような鮮やかに黄色い花を揺らして、私は再び屋敷の中へ入っていった。
*
トーラス子爵領主屋敷の造りはちょっと変わっている。
大きな石造りの黒い塔が一本建っていて、その周辺をぐるりと囲むようにして、繊細に木を組んで作った屋敷が立っているのだ。
出かける時に遠くから見たら、まるで薄茶色いお饅頭に黒い箸を立てたような、あるいは持ち手だけ黒い独楽のように見える。
木製の部屋は、客間や大広間、使用人や護衛騎士の部屋だ。石造りの塔は、地下が備蓄倉庫と祭儀用の神殿で、一階が厨房。それより上の階が子爵家一家の居室になっている。
当主執務室は最上階なので、お母様の部屋までたどり着いた時には、私はすっかり息が上がっていた。
顔なじみの護衛騎士は、扉の前でびしりと直立不動で立っている。
彼は、自分の顔より大きいひまわりを引きずってふうふう汗を浮かべている私を見ると、口の端をちょっと上げて咳ばらいをした。それから明後日の方向へ首をねじり、ふんふん、と鼻歌を歌い始める。
見なかったから入っていい、ということだろう。
お父様が教育する騎士は、皆優しくて、ちょっとお茶目だ。
私はにっこり笑うと、お言葉に甘えてそうっと扉を押した。
閂のかからない扉はあっさりと開いたが、いつもお母様が座っている執務机に人影はなく、代わりに隣室の方から人の声がした。
扉のない入口から部屋を覗き込むと、机を囲んだ大人達が、難しい顔で話し合っている。
「ジョセフィーヌ様が亡くなられてから、北方の盗賊被害が馬鹿にならないの。隠しているけど、山間の領民が盗賊化しているんだと思うわ。今年の夏も、夏刈りの黒麦畑がだいぶやられたみたい……」
お母様の沈んだ声が響く。
ジョセフィーヌ、というのは、先日亡くなったお父様のお姉さんのことだ。
なんとなく、踏み込めない空気を感じて私は足を止めた。
大事な会議なのだろうか。
よく見れば、お祖母様の腹心の侍女シーラだけでなく、お父様の護衛騎士や、税金の帳簿管理をする家令など、結構な重要人物達まで控えめに机を囲み、主一家の会議を見守っている。
「ああ。前は姉さんの騎士団が、わざわざあの辺りまで見回っててくれたらしいな……。俺は、ちっとも気づかなかったよ」
ため息をつくお父様の背中を、ぽんぽんとお祖父様が慰めるように叩いた。
「あの山間の農村は岩がちで、夏に黒麦の収穫が望めないからでしょうね。冬に備えるために、盗みに手を染めたんでしょう。特に、耕作地が村から見えるでしょうからね。厳しい山で手間のかかる収穫をするよりも、裾野の耕作地から取ってしまえ、と畑を毎日見ていたら思うかも知れません」
「出来れば、その山間の民も護衛兵士として雇ってあげられたらいいんだけど、予算がねぇ……」
お祖母様の語尾は苦々しい。
うちって結構貧乏なんだ、と私は初めて親の懐事情を知ってしまって気まずくなった。
そんな。子爵家の貴族って、もっと優雅な暮らしをしてると思ってたのに。
私はこっそりと息を殺して会議を見守る。多分、扉を守る騎士は、会議の内容を知らされていなかったのだろう。でなければ、子供が見るものではないと言って流石に追い返しているはずだ。
けれど、一度聞いてしまったら、もう立ち去ることもできなくて、私はじっと会議に耳を澄ませる。
「いっそ、西の山に人手をやるかい? 地下は明かさなくても、エメラルドなら……」
お父様の言葉に、お母様は首を横に振った。
「一度鉱脈が出ると分かってしまったら、どうやっても他の土地まで目が行ってしまうわ。ここはいつまでも羊毛が主産業の田舎でなければならないの」
「そうか……。いや、すまない」
「いいの。いざとなったら、それも考えなくてはいけないことだから」
「私が古馴染みに手紙を書きましょうか」
お祖父様の言葉に、お母様は頷いた。
お祖父様は、どんな人生を歩んできたのか、何故かあちこちに有力者の知り合いがいるらしい、とお兄様が言っていたのを思い出す。
「今回はお願いするけれど……あまり負担をかけたくないわ。それに、何度も使える手段でもないし」
「今ある自警団を、もうちょっと騎士団っぽく鍛えようか?」
「ありがとう、ランドルフ。お願いするわ。でもほとんどが羊飼いと農家だから、どうしても種まきと収穫期が手薄になるのは、どうしましょうね……」
うちの騎士団って半分農民だったんだ。どうりで腕が太いのばっかり居ると思った。
「妖精を使えばいいのではありませんか? 敵の位置を報せてもらうだけでも……」
「お父様、何度も言うけれど、私は領地の経営に、妖精の力を使いたくないの」
「マリー、潔癖すぎやしないかい。私が当主の時も、その程度はお願いしてたよ」
お祖母様の苦言に、お母様が悲しそうに眉を寄せた。
「わかっているわ。でも、なるべく金貨で片付けられるならそうしたいの。私は妖精を守りたいし……。神秘を使えないなら、金貨を使うしかないわ」
儚げな妙齢の美人が、深刻な顔で金策している姿はかなり迫力があった。
お父様がため息交じりに、銀糸のような髪をかき上げてため息をつく。
「せめてもう一本くらい、産業があればなぁ」
「王都街道がそう遠くないし、観光客が呼べれば良いんですけどね。そもそも見るものが羊と遺跡しかありませんし……」
お祖父様のつぶやきに、お祖母様が頷いた。
「北を耕作地にしたいものだけど……。オリーブの育ちがあまりよくなかったのが残念だね。寒いのか、土が合わなかったのか。……もともとトーラスの土地のものじゃないし。まあ、何事もやってみないとわからないものだ」
北の耕作地、と聞いて私はまばたきした。
何だかんだ、避暑地であるトーラス子爵領はそこそこ寒い。領主屋敷がある周辺の土地と、北の耕作地だったら、そうそう生えている植物は変わらないだろう。
そして、オリーブを育てようと思っていたということは、オリーブ油を産業のひとつにしようとしていたのだ。
ふいにひらめいた記憶は、スーパーの棚だった。
雑多な大型スーパーのざわめき。一列に並んだ大小の油たち。
オリーブ油の隣に陳列されていた、少し珍しいガラス瓶。その油にプリントされたパッケージの、鮮やかなカナリアイエロー……。
私はしばらくひまわりを見つめてから、数度か深呼吸した。
市場に行きたいとおねだりをする気持ちはとっくに失せていた。
その代わりに、未だに胸をくすぶる恐怖がちらちらとしつこい熾火のように揺れるのを、必死で押さえつける。
──大丈夫。今度の家族は、大丈夫。
私はごくりと唾液を飲んで、そしてゆっくりと一歩、会議室へ足を踏み入れた。
「あの……」
ひまわりの種は、絞れば油になるのだ。
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