彼女が笑ってくれるなら
智代固令糖
第1話 僕の愛を受け止めて
「ここから落ちたら死ぬのかな」
『……死にたいの?』
転倒防止の柵に体を預け、屋上から中庭を見下ろす僕に後ろから声がかけられる。
少し前に重心を傾けるだけですぐさま落ちてしまうような体勢でボソリと呟いただけの僕にそんな優しい言葉を浴びせてくれるのは彼女しかいない。
こんな軽口を叩けるぐらい、今の状況に恐怖の感情はかけらもない。
「ただの好奇心だよ。僕にここから落ちる勇気なんてない。ただの独り言」
今の状況に恐怖の感情はかけらもない。こっちが申し訳なくなるくらいの軽口。
だからそんな顔しないでよ。
彼女の心配そうな表情はひどく心臓の鼓動を早くさせる。
「三階の窓から落ちてもギリギリ大丈夫かな。四階は……死ぬ、多分」
知らないけど。
『私が言えることは、ここから落ちたら死ぬってことだけだね』
彼女も僕と同じように上半身を柵から出す。覗き込んで様子を窺おうと覗き込む彼女のイタズラな笑顔に、心を奪われる。
「……モカちゃんがそう言うならその通りなんだろう」
視線を逸らしてしまった。もっと見ていたいのに。でも、見つめてしまうと彼女が消えそうな感覚に陥る。
確か4秒以上見つめ合うことができたら、両想いだって誰かが言っていた気がする。……確かめたい、けどできない。してはいけないかもしれないし、あるいは『どっちが先に瞬きしたら負けね!』なんて面白半分、興味半分で難なく流されそうだ。
『出た、君の謎理論。私を過大評価しすぎだよ』
僕の考えなど推し量ることなく、とても嬉しそうに柵を起点にシーソーのように体を揺らす。
そんな彼女に非常にドキドキ(これは彼女が落ちてしまうかもしれない焦燥感であり、吊り橋効果のようなものだ)しているが、余裕のある男を演じるため顔にやれやれというお面を張り付け、「危ないよ」と伝える。
「僕にとってモカちゃんは神様みたいなものだから。モカちゃんが正しいって言えばすべて正しくなるし、ピーマンが苦いって言うならすべてのピーマンは苦いんだろう」
別にピーマンは食べれるもん! と彼女は頬を膨らませる。
思慮深い彼女は僕の何気ない一言の裏をちゃんとツッコんでくれる。
僕が欲しかった一言だ。
それに、あぁ、なんて愛おしいんだろう。
『ていうかダメだよ。君には君の大切な心があるんだから。それに従って生きないと』
鉄の柵でお腹が痛くなったのだろう。ストンと軽快に足を床につけ、僕の顔に人差し指を突き立てる。
不意に僕のことを思って怒る彼女の優しさに感動してしまう。
でもそれは違うよ。
「僕はモカちゃんのおかげでやりたいことや興味のあること——好奇心が芽生えたんだ。僕は今、ものすごく幸せなんだよ」
照れを隠すために少しお腹あたりが苦しくなったが、何でもないように僕は上半身を揺らす。
なんだか恥ずかしい。
『そうなんだ……よかった。じゃあ私の心配はご無用ってわけだ』
彼女は腕を組み、うんうんと頭を上下に振る。
彼女もまた、少しの寂しさを紛らわせるための行為なのではないか、なんて浅ましくも愚かしいことを考えてしまう。
「僕は心配されて嬉しいよ。どんどん心配してほしいぐらいに」
『もしかして、調子に乗ってる?』
「調子が良いって言ってよ」
『ははっ、君は今日も調子が良いね』
どこまでも続く雲ひとつない青空。立ち入り禁止の屋上は僕たちにとって最高のロケーションとなる。ここに存在する僕ら二人だけの空間はかけがえのないものだ。
「はぁー、この時間が一生続けばいいのに」
ため息と願望。
時間はどうやっても止めることができない、過去を繰り返すことはないという絶望。
そんな何とも言えない僕の表情を見たのだろう。
『続くよ。君が望む限り。夢から醒めない限り』
励ましているのか、困らせようとしているのか彼女の表情からは推測できない。
それは今日だけではない。
彼女の言葉はたまに分からない。
きっと、僕なんかが到底理解できないほど緻密につくられ、世界で一番僕に優しい言葉をかけてくれているのだろう。
醒めない夢……か。
『将来の夢、何かないの?』
彼女の気遣いで、話の話題が切り替わる。
「僕の夢、聞いてくれる?」
僕が毎晩考える将来の夢。
『確か、中学生の時は動画配信者になりたかったんだよね』
いつ言ったのか分からない大昔とも捉えられることをさらりと出す彼女に僕は素直に驚く。
「うん、楽そうだから。それ以外のもっともらし理由なんてない不純な夢だったよ。でも今は違うんだ。夢に具体性、いや現実味が出てきたんだよ」
『具体性? 現実味?』
僕は頭の上にはてなを浮かべる彼女の顔をまともに直視できない。だってこれから話すのは身勝手でわがままな夢だから。
「まずね、僕とモカちゃんは日本で一番賢いと言われている東大に行くんだ。毎日僕らは一緒に受験勉強にいそしむ。一緒なら何時間でもできるはずさ、僕はね」
『私だって、やればできるよ。やってないだけで』
「知ってるよ。君は何でもできるすごい人だから。でも集中力がなくなったら、お昼ごはんにお菓子を食べながらお喋りするのも良いよね。たまに晩御飯も一緒に食べようよ。ファミレスでも良いし、なんなら僕の家に来てもいいよ。両親がいないときに、誘うからさ」
『楽しそうだね』
「……うん、絶対楽しい。も、もちろん泊まるよね? 布団はモカちゃんのためにもうひとつ用意しておくよ。多分緊張して、幸せすぎて寝られないだろうけど。あぁ、今から心臓が爆発しそうだ」
顔は赤くなっていないだろうか。
いや、すでに真っ赤でもう爆発寸前なのだろう。
『落ち着いて。ちゃんと、最後まで聞かせて』
柔らかく穏やかな声に僕の張り裂けそうな思いは少しだけ痛みが引いていく。
一度、深呼吸。
——再度、深呼吸。
けれどもこの昂る気持ちは誰にも、何にも抑えられない。
「高校卒業して大学に入ったらさ、僕らはもう勝ち組だよ。散々僕らをおかしなやつらだとか、普通じゃないって言ってきた奴らにふんぞり返ってやるんだ!」
『ふんぞり返るだけなんだ。君らしいけど』
はにかんだ彼女に心が救われる。
僕の夢を、笑ってくれてる。
胸をなでおろし、つられて口角を上げる。
「目の前でバーカ! って言うのも候補に入れとこう」
今なら言える。今なら彼女に受け入れてもらえる気がする。
「それでね、……僕らは同棲するんだ。そこそこ広めの家に。僕とモカちゃんが同じところに帰ってくる。帰り道が一緒なんだよ。ずっと一緒。僕は束縛とかモカちゃんが嫌なことは絶対にしない。モカちゃんを傷つけるものは僕が許さない」
『……』
「この身を持って……守るからさ、僕の愛を受けてめてほしい、な」
『……』
「お願い……なんて厚かましいことは言わないけど、君が頷いてくれるだけで、僕は、僕は——」
『……』
「幸せになれるんだ」
『——————————』
悲しそうな目を向ける彼女が、首を縦に振ることはなかった。
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