Chapter:2 世論

 先日、見かけた女の正体は予期しない形で私の前に提示された。


『……はい。ですから、私は婚姻を含むパートナー関係の裏切りである不義密通について、刑法上の犯罪とすることに反対する立場をとっております。こういった私人しじん間の問題といえる事項に国家権力が介入することは、不当な人権の制限に当たるのではないでしょうか』


 リーダスとよく行く定食屋で、日替わりランチの生姜焼き定食を食べていると、店のテレビにあの女が映っていたのだ。


 『オーフォード大学法学部 ジョゼフィーヌ・タラソフ教授』というテロップが表示されている。そうか、テレビで見たことがあったのか。だが、それは別にしても妙に気になる女だ。元公安警察の勘だろうか。


「タラソフ教授、エロいよなぁ」


 エビフライ定食のエビフライをかじっていたリーダスがテレビを見上げながら、タラソフへの男性目線の評価を口にする。


 確かに、手入れの行き届いた艶のある黒髪はキレイなウェーブを描き、豊かな胸の上まであった。たれ目気味の目元にぷっくりとした唇も妖艶。バサバサと油気のない金髪をポニーテールに縛っただけの頭と、乾燥で皮の剥けた唇を持つ私とはえらい違いだ。


「随分と先進的な思想をお持ちのようだけど、には入ってないんだっけ?」


 不義密通罪の廃止論者は、要注意人物としてリストアップされて局の監視対象になっているはずだ。配分を間違えて生姜焼きを先に食べ終わってしまった私は味噌汁を啜りながら、残りの白米を食べる。


「シングルだから。判定Bだったはず」


 リーダスの回答を聞きながら、私は漬物をかじった。


 なるほど。「シングル」つまり特定のパートナーは「いない」と表明しているということか。不義密通罪の廃止論者だが、法は犯さないというのは殊勝な心掛けだ。


 なお、判定Bというのは、脅威判定三段階のうちの真ん中。行動監視レベルはそこまで高くない。


「よく行くお店にさ。来てたんだよね。この人」


 ようやく白米を味噌汁と漬物で食べ終わった私に対して、完璧な配分でエビフライ定食をキレイに食べ終わったリーダスは「ごちそうさまでした」と手を合わせた。


「ん? なんか気になんの?」

「まぁ、明確な何かがあるわけじゃないんだけど」


 別に捜査をするキッカケになるような端緒は一つもない。課長に申請しても正式な捜査は認められないだろう。


「……勤務時間外になるけど、張り込み行くか?」

「リーダスって、いい奴だよね」

「ん。よく言われる」


 そう言って、私の相棒は湯のみの茶を飲み干した。



◇◇◇



 リーダスと協力して断続的にだが、店の入口が見える駐車場から張り込みをし始めて二週間が経った頃だった。


「おい、あれ、自恋じれんのヴィクターじゃないか?」


 自恋とは、反社会的勢力『自由恋愛の光』の略称だ。リーダスの指摘に、私はカメラをズームにしてヴィクターと思しき人物の写真を撮った。


 ヴィクターは、「シングル」に偽造された市民登録カードの密売を任されている自恋の幹部だ。本当に奴がヴィクターなら家宅捜索令状が下りるかもしれない。


 その日は、何人かヴィクターの手下と思われる人物たちが店に出入りをしており、課長を説得できるだけの写真を撮ることができた。



◇◇◇



 ホワイトボードに私は写真をいくつも貼り、相関図を書き込んでいく。これから捜査会議だ。


 私が通っていたあの店が入っているビルは、複雑にいくつものペーパーカンパニーを経由されてはいたが、最終的に『自由恋愛の光』の持ち物であることがわかった。というわけで、せっかく贔屓にしていた良い店に行けなくなってしまったのは、少しだけ残念である。


 店及び『自由恋愛の光』とタラソフ教授の繋がりまでは、最後までわからず仕舞いだったが、店の上の階が偽造市民登録カードの工場である可能性が高いため、家宅捜索する形で課長のOKが出た。


 ヴィクターの作る偽造市民登録カードは精度が高く、今まで散々手こずらされて来たので、今回の件は課内の捜査員たちの関心も高い。


 しかし、そろそろ会議が始まるという頃、なぜか血相をかいて戻ってきた課長に呼び出された。私が課長室に入ると、珍しく課長は室内のブラインドを閉めた。そのただならぬ気配に私は嫌な予感で手のひらが冷たくなる。


「週刊誌に君の記事が出る」


 記事のゲラ原稿を見せられる。


『衝撃スクープ!! B-NTR殺人捜査官!! 違法捜査と理由なき射殺!!』


 目元に黒い線が入ってはいるが、写真は私だった。先日の捜査の際の隠し撮りだ。私が犯人に銃口を向けているピンポイントな写真。


 クッソ。タレコミも含めて、ハメられた。


 唯一の救いは、犯人の手錠をされた手は写っていないことだ。


 前回の件はリーダスが口裏合わせてくれて、「最後の最後にまた爆弾を起爆させようとする素振りを見せたため、止む無く射殺した」ということになっている。


 そうは言っても局内の懲戒処分を回避するという意味でギリギリ言い訳が通用するというだけで、この記事を読むことになる国民への印象が最悪なことには変わりはない。


「悪いが、あの店への家宅捜索から外れてもらう。いま記事は出ないように広報課が対応しているが、どうなるか、正直わからん」


 目の前が暗くなる。自分のミスだ。しかもこのタイミング。おそらくもうあの店から偽造市民登録カード工場の証拠は消え去っていることだろう。


 家宅捜索の


 私は半分以上は自業自得ながら、まだ知らぬ裏切者への怒りでゲラ原稿をグチャグチャに握りつぶした。

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