第213話 ファンサ

 これが最初だった。


 それは校門を抜けて昇降口に辿り着いた時に起こった。スニーカーを脱ぎ、校内履きのスリッパに足を突っ込み、さて教室に向かおうか、というところだった。




「ねぇっ、君達。黒羽さんと、高原君だよね?」


「……待ってた」


 見ず知らずの二年生の女子生徒二人組に呼び止められたのだ。昨日の先輩と違ってどこにも引っかかる感じがなかったので、今度こそ初対面だと思う。名前を知られていることにはもう驚かなかった。


 一人は快活そうな雰囲気、もう一人はどこかクールな印象を受ける。ひとまず仮に陽先輩とクール先輩とでも呼称することにしておこうか。安直でかなり酷いネーミングな気がするけど、名前を知らないんだからしょうがない。


「は、はい。そうですけど……。えっと……、おはようございま、す?」


 俺よりも先輩方に近いところにいた栞が戸惑いながらも応対すると、


「やーんっ! なにこの子っ! こっちからいきなり話しかけたのに挨拶までしてくれて、礼儀正しい上に可愛いいーっ?!」


「……うん。ぜひうちの妹と交換したい」


 なぜか二人揃って勝手に栞の可愛さに悶えていた。


 そうだろうとも。栞は可愛いんだよ。特に、今みたいに小首を傾げる仕草なんて最高に──って、そうじゃないな。


 内心で激しく同意をしてしまったが、途中で我に返った。俺と栞の両方に話しかけているようだったので、俺だけ無視するのはたぶんよくない。そう思って、栞の横に並ぶ。


「あの……、おはようございます。それで、俺達になにかご用でしょうか……?」


「この子、うちのクラスにもらっていっちゃダメかなっ……?!」


 そんな先輩の言葉とともに栞が俺の隣から消えた。


 実際に消えたわけじゃなくて、先輩二人に引き寄せられてぎゅっとサンドイッチにされているのだが。


「ふぇっ……?!」


 いきなり初対面の先輩に抱きしめられた栞が驚きの声を上げた。


「え、えぇっ……?!」


 もちろん、俺も。


「……安心して。悪いようにはしない。皆で可愛がるだけ」


「だ、だめです……!」


 栞が目で俺に助けを求めている。俺も必死だ。


「……放課後にはちゃんと君のところに送り届ける。それでも、ダメ?」


「さすがに、無理です……!」


 せっかく隣の席になれたのに、攫われていってしまったら俺が寂しい。というか、そもそもそれじゃ栞が授業を受けられなくなってしまう。もしかすると栞なら二年生の内容でもついていけるのかもしれないが、それはまた話が別だ。


「ちぇー……。彼氏君がダメって言うなら無理には連れてけないよねぇ……」


「……しょんぼり」


 俺が言わなくても普通に駄目だと思いますけどね。あと、しょんぼりって口で言う人初めて見た。


「あ、あの……、私の意見は……?」


「あ、あははは……。大丈夫だよ黒羽さん。ただの冗談だから。……五分の一くらいは」


 それって、ほぼ本気だったんじゃ……?


「……私は本気だった」


 ほら……。

 俺が止めなかったら危なかったのでは?

 もちろん、本当に連れていかれそうになったら全力で阻止してたけどさ。

 相手が女性だろうと関係ない、栞は絶対渡さない。


「……というわけでぇ、私達はこれで失礼しようかなぁ……」


 陽先輩が栞を解放してクルリと向きを変える。


 あれ……、なにがしたかったんだ?


 と思ったところで、クール先輩がその腕を掴んで引き止めた。


「……待って。本題がまだ」


「あうっ……。本当に、やるの……? 黒羽さんには、触れたよ?」


「……ダメ。自分で言い出したことなんだから、ちゃんとやる」


「うぅー……」


 目の前で繰り広げられている会話の意味がわからずに、俺も栞も置いてけぼりをくらっている。


 栞には触れたって、なに?


「ねぇ、涼……? 何の話かなぁ……?」


「さぁ……」


 このまま立ち去ってもいいのかもしれないが、相手が上級生となるとそれも憚られる。


「……ほら、あんまり引き止めたら可哀想。早くする」


「わかったよぉ……。えっとね、実は二人にお願いがあるんだ……」


 再び俺達に向き直った陽先輩は、なぜかとても真剣な顔をしていた。その顔を見ると、わざわざ俺達を待ってまでするお願いとはいったいなにかと身構えてしまう。


「あの、あのね……。私と──」


 数秒の沈黙。


 俺と栞に緊張が走る。


 だが、それは肩透かしに終わった。


「──握手してくださいっ!」


「「へ……?」」


 差し出された右手、ポカンとする俺と栞。

 さっきまで栞を連れていくとか言ってたから、また変なことをお願いされるんじゃないかと覚悟をしてたのに。


「えっと……、なんででしょう……?」


 ようやく絞り出せたのはそんな言葉だった。


 別に握手くらいなら全然構わないんだけどさ。

 いや、構うかな……?

 栞が拗そうな気がする。

 とにかくその理由くらいは知っておきたかった。


「あー……、それはその……、ね……?」


「……はぁ。しょうがないから私が代わりに説明する。この人、体育祭で君達を見てファンになったらしい。だから、それで握手」


「えっ、そうなの?!」


「「ファン……?」」


 クール先輩の説明に一番驚いていたのは陽先輩だった。


 なんであなたが驚いてるんでしょう?


「……そうなの」


「それは私もはつみ──いぎっ……!」


「……そういうことだから、そういうことにしといてあげて」


 快活先輩の足をグリグリと踏みつけるクール先輩の無表情気味な視線の圧に、俺もそれ以上の追及ができなくなってしまった。


「……栞、どうする?」


「うーん……。まぁ、握手くらいならいいかなぁ……。でも、涼はその後で私とも握手してね?」


「栞ともするの……?」


「だって……、上書き、しなきゃだもん」


 面白くなさそうにちょっぴり唇を尖らせて言う栞にキュンときた。おまけに、その表情は両先輩をも魅了していたらしい。


「くぅっ……。独占欲、可愛いっ……!」


「……これは尊い。やっぱり、連れていく?」


「それはダメですってば!」


「……なら、さっさと握手する。しなかったら、本当に連れていくから。二人まとめて」


 いつの間にか、俺まで連れていかれる対象になっていた。


「もう、わかりましたよっ」


 これだけしか話をしていないのに、なんか馴染み始めている自分がいた。栞との交際やら友人付き合いやらで、俺のコミュ障は完全に改善されているらしい。


「じゃあ、お願いします……」


「……はい」


 再び差し出された手を、まずは俺が握る。


 栞以外の女の人の手なんて、触れる機会はそうそうない。栞より体温が高くてやや大きい手、全然馴染まない。俺は骨の髄まで栞に染められているのだから当然か。


 あまり長時間握っていると本気で栞が拗ねてしまいそうなので一秒程度で離す。


 俺が触れたいと思うのも、触れてドキドキするのも、落ち着くのも、全部栞の手だけなんだなぁというのを改めて実感した一秒間だった。


「……ありがと。次は、黒羽さんも、いいかな?」


「まぁ……、涼もしたんで、いいですよ」


 栞も握手を交わして、俺と同様にすぐに離す。


「……よかった。これできっと上手くいく」


 クール先輩は優しげに陽先輩を見つめ、陽先輩は俺達に握られた手にじっと視線を落としていた。


「うん……。二人ともありがとねっ」


「……ファンサ助かる」


「いやまぁ、このくらいでしたら」


「よしっ……。今度こそ私達は行くね。上手くいったら、そのうちお礼するから!」


 そう言って先輩達は俺達に手を振りながら二年生の教室の方へと去っていく。それを見送る間、俺が先輩と握手した右手は栞の両手に包まれてニギニギされ続けていた。


「ねぇ、栞。上手くいくって、なんのことだったんだろうね?」


「そんなの私だってわかんないよ……」


「だよねぇ……」


 とりあえず言えるのは、ファンがどうのというのが建前だろうということくらいだ。


「それより涼? ちゃんと上書き、できたかな?」


「その前に書き換えられてないから。俺の手にしっくりくるのは栞の手だけだよ」


「えへへ、そっかぁ……。じゃあ、もう少し握っとくね」


「教室に着くまでだよ?」


「なら、もう少しここにいよっかなぁ」


「えぇ……。教室行こうよ」


「いーやっ♪」


 その後いくら説得しても栞の返事は「いーやっ♪」の一言。次々に脇を通り過ぎていく生徒達にめちゃくちゃ見られながら昇降口手前の廊下で、しかも手を繋いだまま佇むことになった。


 栞が俺の手を握ったりスリスリしたりで幸せそうにしているから一向に構わないんだけど、朝一からもっとすごいことをしてきたはずなのになぁとは思ってしまう。


 そして結局、いつも俺達より少しだけ遅れて登校してくる漣君と橘さんに見つかるまでそのままだった。


「……高原、こんなところでなにしてんだ?」


「栞ちゃん、こんなところでなにしてるの?」


 そんなの俺が聞きたい。


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