第203話 普段通りの朝2

 部屋を出ていく栞を見送って、俺は再びベッドに横になった。


 もちろん二度寝をするためじゃない。もう一度栞に起こしてもらうというのはとても魅力的だけれど、準備が全て終わってから家を出るまでの時間を長く確保するためにもそんなことはしていられない。


 ただなんというか、幸せだなぁって、それを噛み締めたくなっただけだ。


 大好きな栞に起こしてもらって、おはようのキスをしてもらって、それから朝食の準備までしてもらって。


 高校生のカップルなんて世の中にはごまんといるはずだが、恋人にここまでしてもらえる人間が果たしてどれだけいることか。


 そう考えると自分がどれだけ恵まれた環境にいるのかを思い知る。


 しかも、もうすっかりお馴染みの朝の風景になっているとはいえ、何度目であろうとも、毎日幸せな気分を更新し続けている。


 それはきっと俺が栞を好きだという気持ちが強くなり続けているからで、栞が俺に向けてくれる愛情が増し続けているからだと思う。


 そして。二人きりの旅行を経たことでさらに何段階も飛ばして高まった。


 だから──


「……んっ、今日も大事にしなきゃ」


 というわけで、寝起きの緩んだ頭のせいで栞に甘えすぎた気もするし、家を出るまでは俺が甘やかす番にしよう。


「よしっ……!」


 俺はベッドから跳ね起きてまずは着替えを済ませる。それから洗面所で顔を洗って、寝癖でハネまくっている髪を整えた。


「うーん。こんなもん、かな?」


 栞と付き合い始めてから気を付けるようになったおかげで、髪のセットにもだいぶ慣れてきた。朝食の後で栞に手直しされることが多いのは、ご愛嬌ということで。どうしても後頭部は見えないから適当になりがちなんだよ。


 身だしなみを整え終わったら、栞が待つダイニングへ。栞はちょうど両手にマグカップをそれぞれ一つずつ持ってキッキンから出てくるところだった。


 マグカップからは湯気とともにふわりとコーヒーの香りが立ち昇っている。


「あっ、涼。今日もタイミングばっちりだねっ」


 栞はそう言って、ダイニングテーブルにマグカップを置いた。


「それ、俺じゃなくて栞がばっちりなんじゃないの?」


 毎朝栞は俺が顔を出すタイミングぴったりで用意を終えるんだ。決して俺が栞の用意が終わるのに合わせて支度を済ませてるんじゃない。


「へへ、まぁねっ。物音でね、なんとなくわかるの。涼が着替えて下に降りてきたなぁとか、顔洗ってるなぁとか。これくらい時間がかかるはずだから、私はその間にこれをしなきゃってね」


「毎朝頭が下がるよ。ありがと、栞」


 テーブルに並んでいるのは焼き立てのトーストにハムエッグ、綺麗に盛り付けられたサラダ、ヨーグルト、そして熱々のコーヒー。毎朝変わらないし、簡単なメニューだけど手間がかかることには変わりはない。


 それを栞は微塵も苦と思わずに、それどころか嬉々としてやってくれるのだ。


「うんっ。でもね、そんな大したことじゃないんだよ? 涼が今なにをしてるのか想像するだけで、勝手に身体が動いちゃうもん」


「……それ、大したことだと思うよ?」


「そうかなぁ?」


「そうだよ。まったく栞は……」


 事も無げに言う栞には困ったものだ。俺の行動パターンに合わせて自然と動けるようになるなんて、とんでもないことなんだからさ。自分でありがたみを減らさないでほしいよ。


「あっ、そんなことよりもっ。ほらほら、早く食べちゃって?」


「うん。でも、その前に──父さん、母さん、おはよう」


 無言で新聞を広げている父さんと、俺達のやり取りを生温かい目で眺めていた母さんのいるリビングへ向かって声をかける。


 栞が急かす理由はわかるけれど、それでも欠かしちゃいけないこともある。


「ん、おはよう」


 父さんからは短い返事。母さんからは、


「はいはい、おはよ。まったく、はこっちのセリフよねぇ、まったく。栞ちゃんとイチャイチャしてて存在を忘れられてるんじゃないかと思ったわよ。私達空気みたいじゃない。ねぇ、お父さん?」


「ん、まぁな」


「いや、ちょっと遅くなっただけで忘れてないから……。というか別に今は俺達イチャイチャしてなくない……? 栞もそう思うよね?」


 父さんはいつも空気みたいだろ、というツッコミはこの際置いておく。


 それよりも、この程度でイチャイチャだと言われたら、栞との会話全てがイチャイチャしていることになってしまうじゃないか。


「そうだよね。普通にお話してただけだもんね」


 ほら、栞も俺と同意見だ。


「はぁ……、自覚なしとは。いつものことだしいいけどね……。でも、こりゃ同じクラスの子達も大変だわ……」


「「……??」」


 クラスメイト達は俺達のやり取りを見ても面白がっているだけだと思うんだけど……?

 毎回鼻血吹いてる人が一人いるのは除いて。


 母さんの妄言は毎度のこととして、せっかく栞が用意してくれた食事が冷めてしまう前に食べることに。その間、栞は俺の正面の自分用の椅子に座って、おそらく甘々になっているであろうカフェオレをちびちびと飲みながら目を細めて俺の食事姿を見つめていた。


 この場面だけを見るなら……、まぁ多少、ほんの少しだけイチャイチャしてると言ってもいいかもしれない。


 でも、本当にイチャイチャするのはこの後──


 朝食を終えてから栞と二人で俺の部屋へと引っ込み、お決まりの学校へ行く前の時間を使ったチャージタイムだ。


「栞、おいで」


 ベッドに腰掛けて膝を叩く。


「うんっ」


 ピョンと跳ねるように膝の上に乗ってくる栞を受け止めて抱きしめる。髪に顔を埋めると、いつも通り甘くて優しい大好きな匂いに包まれた。


「えへへ、りょーう」


 栞は俺の胸に頬擦りをしながら、俺の名前を呼ぶ。起こしてくれた時とは違って、完全に甘えん坊モードの声だ。


「ん、なぁに?」


「呼んだだーけっ」


 こういうお茶目なのも栞の可愛いところなんだよね。


「じゃあ俺も。栞」


「はぁい」


「好きだよ、大好き」


 甘やかすような声で囁いて、髪を撫でる。どれだけ言葉で伝えても足りなくて。だから、栞の頬に手を当てて、上を向かせて──


「あっ、待って」


 唇が触れる直前で栞に止められてしまった。


「……ダメ、だった?」


 支度が終わってからって言っていたのに。


「もう、ダメじゃないからそんな顔しないのっ。準備するだけだから」


 栞はそう言うとスカートのポケットからリップクリームを取り出して、自分の唇に塗り付けた。


 あ、そっか。栞がケアしてくれるって話だったっけ。


「はいっ、待たせてごめんね。涼は私とキス、したかったんだもんね?」


「うん、したかった」


 いつも寝起きで回数なんてわからなくなるくらいしてくれるのに、今日は一回だけしか許してもらえなくて物足りないって思ってたんだ。


「じゃあ、いーっぱいしてね。私もね、たくさんしてほしいの」


「なら、遠慮なく」


 桜色でしっとりと瑞々しい栞の唇に自身の唇を重ねる。いっぱいしてと言われたこともあってすぐに夢中になってしまう。頭の中が栞一色に染まっていくこの感覚、何度味わっても溺れそうだ。


 栞の唇からリップクリームを奪い取る勢いで、お互いの唇に刷り込むような熱いキスを交わす。栞も俺の頭に腕を回して固定して、必死で吸い付いてくる。


「んっ、ちゅっ。涼っ、好きっ」


「俺も。ずっと、栞とこうしていたいよ」


「ダメだよっ。アラーム、鳴るまでだから」


「わかってるって。だから、それまでは、もっとしよ?」


「ふふっ。涼からそんなにおねだりしてくれるようになったの、嬉しっ。りょーうっ、ちゅっ」


 あぁ、もう。朝からこんなに幸せでいいのかなぁ。しかもほぼ毎朝。


 ……いや。いい、よね。


 だって、これは俺達がここまで育んできた愛情の結果なんだから。そして、この気持ちはこれからもっともっと大きくなるように育てていくんだ。栞と、二人で。


 ふいに脳裏に昨日会った老夫婦の後ろ姿が浮かんできた。


 俺達は今、まだ蕾に栄養を蓄えている段階なのだろう。いずれ花が咲いて、実がなって、いつか枯れていく。枯れるのは、きっと俺達のどちらかがこの世から居なくなる時だ。それまでは、ずっと寄り添って。


 ……って、まったくもって気が早いな。今から枯れることを考えてどうするんだか。

 それに花ってなんだろ……?

 実は、子供のことかな……? 


 幸せに浸りすぎて思考がおかしくなってきた、かも。


 そして、俺の頭だけじゃなく、栞の顔もすっかりトロトロに蕩けた頃、


 ──〜〜♪


 栞のスマホから家を出る時間を告げるアラーム音が鳴った。


「……時間、だね? 栞は満足できた?」


「まだぁ……。あと、一回だけぇ……」


「しょうがないなぁ、栞は」


 結局栞の要求が一回で済むわけもなく、バタバタすることになるのはいつものことだ。


 *


「わっ、やばっ! 栞、急ぐよ!」


「あっ、涼! 皆に渡すお土産、持ってないでしょ?」


「おっと、危なっ。忘れるところだった……!」


 昨日帰ってから机の上に置いておいた紙袋を手に取る。せっかく家に送らずに持って帰ってきたのに、忘れていったら元も子もない。


「他には忘れ物ない? ハンカチとティッシュ持った?」


「大丈夫、持ってる。けど、栞……? そんな母さんじゃないんだからさ……」


 奥さん風は大歓迎なんだけどさ、栞が母さんみたいになったら……。うん、なんかイヤだ。


「えへへ。ちょっと言ってみたくって。それじゃ、行こっか?」


「ん」


 俺は短く返事をして、栞の手を取る。そのまま玄関へと向かい靴を履き、


「「いってきまーす!」」


 家の中に向かって声をかけて。


「はいはーい、いってらっしゃーい」


 リビングから叫ぶ母さんの声に見送られて家を飛び出した。

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