第177話 早く良くなるおまじない

 興奮の絶頂から覚めて、背中の手当てのために救護用テントへと向かう。もちろん栞も当たり前のようについてくる。


 栞はいつものように俺の左腕にくっついているのだが、その足取りはふらふらしている。何があったか知らない人には、栞の具合が悪いように見えるだろう。


 俺の方はだいぶ痛みに慣れて落ち着いてきたので、これではどちらに手当てが必要なのか、ぱっと見わからなくなってしまった。


「うぅ……。ぐるぐるするぅ……」


 これは俺がはしゃぎすぎて、栞を文字通りに散々クルクルと振り回した結果だ。


「ご、ごめん、栞……。えっと、大丈夫そう……?」


「なんとかぁ……。でも、あともう少しされてたら、お昼に食べたの、全部出ちゃってた、かも……。涼の前でそんな醜態、晒したくないんだから、気を付けて、よね……?」


 ほっぺをむにっと摘まれて怒られた。栞からのお仕置きといえばやっぱりこれ。でも、楓さんにしていた時ほど強くないので痛くはない。たとえお仕置きでも栞は俺に甘いんだ。


 とはいえ、俺もやりすぎた自覚はある。


「本当にごめん……」


「まぁ、あんなにはしゃぐ涼は貴重だしね。それに、なんか可愛かったから許してあげる」


「ありがたき幸せ」


「ふふっ、なにそれ」


 おどけてみせると栞も笑ってくれた。ぐるぐるしてたのも少しずつ治まってきているみたいだ。ちなみに俺のテンションはまだちょっとだけ高い。


「それにしても、涼があそこまでになるのって珍しいよね。普段はもっと落ち着いてるのに。結局、私達最下位だったけど、そんなに嬉しかったの?」


 言われてみれば。あの時の俺は最下位でゴールしたくせに、喜んで奇行に走る頭のヤバいヤツ、といったところだろう。


 当然、俺が完走にこだわった理由もまだ話していないので、栞から見てもそうだったに違いない。


 これは、まずい。急いで伝えなければ。栞にだけは頭のおかしなやつだって思われたくないし。


 思わないとは思うけど、ね。


「えっとさ、笑わないでよ……?」


 ただ、ちょっとだけ恥ずかしくもある。あれは俺の勝手で大袈裟な思い込みなわけで。


「それは内容次第だよ。でも涼がそう言うなら、我慢はしてみるね」


「それ、絶対我慢出来ないやつじゃん……。まぁ、いいけどさ。あのね、さっきの二人三脚さ、俺達のこの先の人生みたいだなぁって。あそこで諦めたら、どこかでダメになるんじゃないかって思っちゃって……」


 笑われるのを覚悟して素直に白状した。


 でも、いつまで経っても栞は笑わなかった。その代わりに、


「涼も、なの?!」


 驚いた声が返ってきた。


「……俺も、ってことは、もしかして栞も?」


 このやり取りにデジャヴを感じる。一緒に過ごす時間が長くなって、ますます思考パターンが似てきている、ということだろうか。


「うん。私もね、涼と同じようなこと、考えてたよ。この先もずっと涼と一緒に生きてくんだもん。それが二人三脚みたいだなって。そのせいで調子に乗って転んじゃったんだけどね……。ごめんね、涼」


 栞は申し訳なさそうに俯くけど、同じように思ってくれていたのがわかって、俺はまた嬉しくなってしまった。それこそ、また栞と一緒にクルクル回りたくなるくらいに。


 これ以上やると本気で怒られそうだからやらないけど。ただ、この溢れんばかりの想いは伝えておきたくて。


「栞、好き……」


 色々と言いたい言葉はあるはずなのに、口から出たのはそれだけで。もどかしくて、足りない分を補うように繋いでいる手に力を込めた。


「え、えぇ……? なんで今の流れでそうなるの……? そりゃね、私も好きだし嬉しいよ? 嬉しいけどね? でも、それで涼に怪我させちゃったんだよ……?」


「これくらい全然大したことないよ」


「そんなこと言っても、痛いんでしょ……?」


「痛いのは痛いけどさ、これも栞を守れた証だから。むしろ勲章みたいなもんだよ」


 俺は今、誇らしい気持ちでいっぱいなのだ。栞に傷一つ負わせなかったのは、俺にしては上出来だったと思う。

 

「うぅー……、涼のバカぁっ。優しすぎっ。私に甘すぎっ。もうっ、大好きっ!」


 罵倒しつつも最後にデレた栞は、より一層俺の腕に身体を密着させてきた。腕が柔らかい感触に包まれて、とても幸せな気分だ。


「俺も栞が大好きだからね、これからもこうやって守らせてね」


「私は涼だけが痛い思いをするのはイヤなんだけどなぁ……。って言っても、また同じようなことがあったら、涼は今日みたいにしてくれちゃうんだよね?」


「うん。俺にできる範囲のことならね」


 そのために、多少の無茶をする覚悟はとっくの昔にできている。


 俺が答えると、栞は小さくため息をついた。


「はぁ……。本当に困った人だよ、涼は。言っても聞いてくれないだろうから、それはもう諦める。でもね、涼?」


「うん、なに?」


「前に私が言ったこと、覚えてる? 涼に助けてもらった分は、私が涼の喜ぶことをして返すって話」


「もちろん、覚えてる、よ」


 栞が一人で悩んで体調を崩して、それが片付いた後に話したことだ。栞から強引に決められてしまった話でもある。


「覚えてるなら、いいよね。今日助けてもらって惚れ直しちゃった分と、涼が怪我して痛かった分、きーっちりお返しするから、ちゃんと受け取ってよ?」


 じっと見つめてくる栞の圧が強い。パッチリお目々の目力もすごい。きっちりと言ってるけど、栞は俺がした以上に全力をもってお返ししようとしている気がする。


「いや、俺が勝手にしたことだし、そんなに気にしなくても……」


「やっ! してもらいっぱなしじゃ私が納得できないもーんっ!」


 口を尖らせてぷいっと俺から視線を外した栞。これは絶対に譲歩しないという意思表示なのだろう。


「ちなみに具体的には、なにをしてくれるおつもりで……?」

 

 一応、念の為に確認してみると、


「んふふっ、ひーみーつっ! でもねぇ、もしかすると明日とか明後日あたりになにかあるかもねー?」


 ニヤッとした笑みが返ってきた。


「明日と明後日って……。えっ、そこはダメでしょ?! だってあれは栞の誕生日を祝うためでっ……!」


 栞に喜んでもらいたくて計画したのに、俺のために使うなんて、そんなのもったいないじゃん。


「そんなの関係ないもーん。私も涼が喜んでくれたら嬉しいし、いい事しかないでしょ? だから、一緒にいっぱいいーっぱい幸せになろーねぇ」


 スリスリと甘えてくる栞を受け止めながら、俺は観念することに。『一緒に幸せになる』とは俺が栞に与えてしまった殺し文句。さらにそれがいっぱいときたもんだ。なにをするつもりなのかも理解させられた上に効果も抜群だった。


 とりあえず、今日は帰ったら早めに寝たほうがよさそうだ。主に、体力的な意味で。




 と、そんな会話をしているうちに救護用テントに到着していた。ここまで来る間に栞はぐるぐるから完全に立ち直り、今は逆に俺が栞にやられてクラクラしている。


 救護用テントでは養護教諭の先生が俺達を待っていた。


「いらっしゃ〜い。派手に転んでたから来ると思ってたよぉ〜」


 これまで保健室を利用したことがなかったのでこれが初対面、なんか間延びした喋り方でおっとりした雰囲気の若い女の先生だった。


 容姿の詳細は……、栞の前なので割愛することにする。


「えっと、よろしくお願いします。背中からいったんで、診てもらいたいんですけど」


「はいは〜い。それじゃ、上脱いじゃって〜」


「わかりました」


 ジャージを脱いで、その下に着ていた体操着に手をかけたところで栞に止められた。


「りょ、涼! ちょっと待って!」


「え、なんで?」


「だって、その……」


 栞は俺の耳元に口を寄せてポツリ。


「涼の身体、私のつけた跡が……」


「あぁっ……!」


 栞に言われるまですっかり忘れていた。


 栞は独占欲の表れなのか、やたらと俺の身体に跡を残したがる。昨夜のもそうだけど、前回のが消える前に次々に痕跡を残していくので、最近の俺の身体は常にキスマークでいっぱいなのだ。


 その頻度に関しては……、あまり言及しないでもらいたい。


 ついでなのでここで一つ補足しておくと、一緒にのんびりしている時なんかに、栞は急に俺の服をめくりあげてキスマークを残していくことがある。


 しっかりと俺の身体に栞の痕跡が刻まれているのかのチェックは欠かすことはできないらしい。


 まるでマーキング……、俺は縄張りかなにかかな?


 なんにせよ、似たようなものであるのは間違いない。


「どうかしたのぉ〜?」


 そうとは知らない先生は首を傾げているけど、俺はどうすればいいのかわからなくなってしまった。ここまで来ておいて、やっぱりなにもないです、とはいかないし。


「あの……。彼が怪我したの私のせいなんで、私が手当て、してあげてもいいですか……?」


 俺が悩んでいると、栞が手当をすると言い出した。


「あらあらぁ。そっかそっかぁ、なるほどねぇ〜。大事な彼氏君の身体、私に見られたくないのね〜」


「えっと、はい……」


 訳知り顔でしきりに頷いている先生に、栞は真っ赤な顔で答えた。


 ここではもう、そう言うしかないもんね。


「うんうん、そういうことならしょうがないわねぇ〜。そこの仕切られてるところ、簡易だけどベッドがあってぇ、今は誰もいないから使っていいわよぉ〜」


 口調とは裏腹に、テキパキと必要な物を揃えて栞に手渡してくれた。


「ありがとうございます。ほら涼、早いところ手当、しちゃお?」


「そ、そうだね」


 栞に手を引かれて仕切りの中へ入ると、ふっと気が緩む。それは栞も同じだったようで、大きく息を吐いた。


「はあああぁぁぁぁ〜〜〜〜……。危なかったぁ……」


「あそこで栞が気付いてくれてよかったよ。危うく見られちゃうところだったもんね、これ」


 二人きりになったので、俺は手早く体操着を脱いだ。背中部分には案の定、数ヶ所に血がついて赤く染まっている。ただ、見た感じ出血自体はそれほど酷くなさそうだ。


 それよりも、今問題だったのは身体の前面に大量に残っているキスマーク。改めて見ると、本当にたくさんある。栞から愛されている証拠なので、一人で風呂に入る時なんかは眺めてニヤけていたりする。


 気持ち悪いやつ上等。俺はそれで幸せなんだからいいんだよ。


「ごめんね、私のせいで。それに私が手当てすることになっちゃったし……」


「ううん。栞がしてくれる方が俺は安心っていうか、嬉しいよ?」


「もうっ、涼ったらぁ……」


 照れた栞にペチンと肩を叩かれた。でも、本心なのだからしょうがない。


「ほら栞。お願いね」


 そう言いつつ、栞へと背中を向ける。


「うん、わかった。滲みるかもしれないけど、我慢できる?」


「我慢するしかないからね。一思いにやっちゃってよ」


「それじゃあ……」


 栞が濡らしたガーゼで傷口に触れる。


 汗もかいているので、傷口の洗浄のために拭き取るのは必要なことなのだろうけど、ピリッとした痛みが走って、


「っ……!」


 思わず息が漏れた。


「あっ、痛かった? ごめんね……?」


「大丈夫だから、続けて」


「う、うん」


 そこから元々優しかった栞の手つきが、さらに一段と優しくなった気がする。一度痛みの加減がわかったので、俺も覚悟をしていれば耐えられた。


 傷の洗浄が終わったら絆創膏を貼ってもらって、手当ては終了。


「はい、これでおしまいだよ」


「ありがと、栞」


「ううん。また痛い思いさせちゃってごめんね」


「もう、そんなに謝らなくていいって」


「だってぇ……」


「だってじゃないの。栞に笑っててほしくてしたんだから。ね?」


 俺が見たいのは、いつだって栞の笑顔なんだ。


「またそういう優しいこと言う……。もうっ、もうっ!」


 栞が俺の背中にすり寄って、


 ──ちゅっ。


 リップ音を鳴らす。


 チリッとした微かな痛みの後にじんわりと幸せな気分がやってくる。その後も栞は位置を変えながら、何度も俺の背中にキスを降らせていく。絆創膏が貼られた、その数だけ。


「……早く良くなるように、おまじない」


「なんかもう、痛くなくなったかも……」


「へへ、よかったぁ」


 栞がキスしてくれた部分が熱を持って、傷の修復が早くなっていくような気がする。たぶんこれは気の所為なんかじゃない、と思いたい。


「あのね、涼」


 背中へのキスを済ませた栞は、俺の正面へと回ってきゅっと抱きついてくる。


「うん、なに?」


「私のこと助けてくれた涼ね、すごく格好良かったよ。それとね、おかしくなっちゃいそうなくらい嬉しかったの。だからね、ありがと、大好きだよ」


 この言葉を聞けて、やっぱり守れてよかったと改めて思った。これ以上栞に何かしてもらわなくても、『ありがと、大好き』これだけでお釣りが出そうな気分だ。


「うん。俺も栞が大好きだから、これからもちゃんと守るよ」


「その分だけ私の好きも増えるんだからね? 受け止めきれない、なんて言わないでよ?」


「もちろん。ぜーんぶ受け止めるから安心してよ」


「なら、ひとまずちょっとだけ。涼、好きっ。いっぱい、好きっ」


 ──ちゅっ。


 今度は唇へのキス。昼休みの反省はしっかりされているようで、短く一回だけに留めていて偉い。


 それからはもう少しだけこのままでいたいという栞の要望に応えて、しばらく抱き合って──というわけにはいかず、


「うまくできたぁ〜?」


 仕切りの外から声をかけられて、大慌てで体操着を着ることになったのだった。

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