十九章 体育祭

第169話 ゆうべはおたのしみでしたね

「それじゃ、行こっか?」


 玄関で靴を履き、栞の手を取る。


「うんっ。でも涼、その前に何か忘れてなぁい?」


「忘れ物? んー、ジャージは持ったし、弁当も鞄に入れたし……」


「むぅー……」


 荷物を確認する振りをした俺を栞が拗ねた顔で見つめてくる。栞は拗ねた顔も可愛いんだ。でも、悪ふざけは程々に。俺が本当に見たい顔はこれじゃないから。


「冗談だよ、忘れてないって。ほら、栞」


「えへへ」


 頬に触れると拗ねた顔はすぐに引っ込んで、とびきりの笑顔が返ってくる。栞は俺の胸に手を添えて背伸びをして、俺は少しだけ身をかがめる。


 ──ちゅっ


 立っている状態でキスをするための、お互いの唇の高さの調整なんて慣れたものだ。もう目を瞑っていても淀みなくできるほどだと思う。


 さらに言えば、これが本日何回目のキスなのかなんてとうに数えることを放棄してしまっている。それだけしていても、これは『おはよう』の分と同じく家を出る直前の儀式のようなもので、決して欠かすことはできない。


 もししなかったとしたら栞は一日中不機嫌になるか、もしくはずっと元気がなくなってしまう。欠かしたことがないので、これはあくまでも俺の予想だけど。


「「いってきます」」


 二人で揃って家の中に向けて声をかけてみても、誰からも返事はない。


 それもそのはず。日曜日の朝である今、本来この家にいるべき俺の父さんと母さんは不在。今頃は栞の家で、聡さんと文乃さん、継実さんと陽滝さんと一緒に仲良く酔い潰れていることだろう。


 先程学校に行ってくる旨を連絡してみたが、そのメッセージに既読がつかないので、おそらく間違いはないはずだ。


 俺と栞はというと今日は珍しくほぼ同時に目覚め(栞からの熱烈なキスで起こされたとも言う)、一緒にシャワーを浴び、一緒に身支度を整えて、一緒に弁当の用意をして朝食をとり、家を出るまでの時間をイチャイチャしながら消化した。


 本当の新婚夫婦でもここまでしないのではないかとは思うが、それはそれは幸せな時間だった。これも昨日の結婚式やらなんやらを経て、栞がまた一段と甘々になったおかげだ。もちろん俺の栞への愛情だって一段どころか何段も深くなっている。


 本当のことを言えば、そのまま今日一日中栞と二人きりで過ごしたかったくらいだ。


 それでもその誘惑を振り切って、日曜日の朝にこうして制服に身を包み家を出てきたのは、今日が俺達の通う高校の学校祭最終日、体育祭の当日だから。


 駅へと向かう道中、俺の片腕をぎゅっと抱きしめて歩く栞は、弾むような足取りで艷やかな黒髪をふわふわと揺らしている。これは栞がご機嫌であることの証だ。


「涼、今日は頑張ろーねっ?」


「ん、頑張るよ。といっても、俺達は二人三脚にしか出ないんだけど」


「それはそうなんだけどね。でもほら、他の皆の応援とかもしなきゃでしょ?」


「それもそっか」


 栞の言葉に思わず頬が緩む。一学期の栞からはとても想像ができないセリフ。もちろんそれは俺も同じで、皆の応援なんてするようなガラじゃなかった。


 俺達はお互いに支え合うことでここまで変わることができて、クラスにも受け入れてもらえて、こうしてイベント事も楽しむことができる。


 *


 そう、学校に着くまでは栞と一緒に同じ競技に参加できることがただ純粋に楽しみなだけだったんだ。


 でも──


 きっと俺は忘れていたんだ。昨夜の幸せいっぱいな時間のせいで、昨日教室を飛び出してきた時のことを。


 学校に着き教室の前まで来ると、俺達を待っていたのは最近特に仲良くしている面々──遥と楓さん、漣と橘さん──だけではなかった。


 その四人は当然として、いきなりクラスメイトの大半に取り囲まれた。


「えっと、皆、おはよう?」


「おはよーっ」


 戸惑いつつもひとまずは朝の挨拶から。俺と栞は毎日教室に入る時は揃ってこうすることにしている。円滑な人間関係を築くためには挨拶が大事、だからね。


 ただ、返ってきたのは挨拶ではなくて、ニヤニヤとした笑みだった。


「おぅ、涼。ゆうべはお楽しみだったか?」


 まず先陣をきってきたのは遥。いにしえから続く定番ともいえる、どこかの宿屋の主人のようなことを口にした。


『ゆうべはおたのしみでしたね』


 元ネタを知らない世代の俺でもなんとなく知っている有名なセリフだ。


「いや、遥……。朝から何言って……」


「そりゃねぇ。昨日はしおりんと逃げるように帰っちゃったからさ、皆気になってるんだよ! で、そこんとこどうなの?」


 楓さんまで遥に追随してくる。他の皆も言葉にはしないが、興味津々といった様子で俺達を見ていた。


「いやぁ……、えぇっと……」


 お楽しみだったかどうかと聞かれれば、そりゃ楽しんだに決まっているのだけど。でも、朝っぱらから話すようなことでもないし、自分から白状するのも恥ずかしい。


「んー……。まぁわかってたけど、さすがに高原君は口を割らないよね! なら、しおりんに聞くまでだよ!」


「えー……、どうしよっかなぁ……」


 楓さんに矛先を向けられた栞は、こうは言っているが嬉しそうで、話したくてウズウズしているように見える。


「でも、さすがにここでは恥ずかしいしなぁ……」


 俺はどこででも恥ずかしいよ?


「なら着替えながらにしよっ! どうせ今日はグラウンド集合だからね!」


「しょうがないなぁ。それじゃ、涼。私達着替えてくるから、また後でね?」


 栞は最後に俺の手をキュッと握って、その場にいた女子達を引き連れて更衣室へと向かっていった。


「ちょ、ちょっと栞ー……?!」


 俺の小さすぎる呼びかけは、キャイキャイと盛り上がる声にかき消されてしまう。追いかけて止めようにも、


「んじゃ、俺達もさっさと着替えちまうか」


「高原はこっちなー」


 遥と漣に両側をがっちりと抑えられて、教室へと引き込まれた。残された男子達の視線を受けながら着替えるのがいたたまれない。


 だというのに遥ときたら……。


「んで、実際のとこどうなんだよ?」


「……想像にお任せするよ」


 こう答えるのが精一杯だった。どうせ栞のあの様子だと洗いざらい吐いてしまうのだろう。ということは、楓さんや橘さんから話が伝わるのは確実ということで。それなら恥ずかしい思いを二度もする必要はない。俺は沈黙を貫くことにした。


「まぁ、黒羽さんから幸せオーラがダダ漏れになってるし、聞かずともって感じなんだけどな」


「……うんうん、どうせバレバレなんだから素直に言えばいいものを」


 なら最初から聞かなくてもよくない?!


 まったく、皆してさ。俺が昨日逃げ帰ったのが原因みたいだけど。


 幸いなことにそれ以上の追求はなく、着替えを済ませることができた。でもまだまだ油断は禁物なのだ。


 グラウンドに出て俺達のクラスの集合場所でしばらく待っていると、


「涼っ! お待たせっ!」


 栞が駆け寄ってきて、勢いそのままに俺に抱きついた。


「うわっ! し、栞?!」


 そしてその後ろに続くのは、


「いやぁ、高原君、さすがだねぇ! まーたしおりんをメロメロにしちゃってさっ!」


 いつも通りのテンションの楓さんと、


「うぅ……。栞ちゃんも高原君もえっちだよぉ……」


 真っ赤になった顔を手で覆って、指の隙間から俺と栞をチラチラ見ている橘さん。


 更にガヤガヤと賑やかな女子の集団。その視線は真っ直ぐ俺達に注がれていた。


「えへへ、りょーうっ!」


 甘えるようにスリスリしてくる栞は大層可愛いけれど、


「えっと、栞? 皆に何、話したの……?」


 なんとなく予想はできていても確認せずにはいられなかった。


「んー? えっとねぇ。帰ってから、涼に寝かしつけられちゃったところまで、かなぁ。へへ、私ね、もっともっと涼のこと好きになっちゃったんだからねっ?」


 更に好きになってくれたのは嬉しい。嬉しいんだけどね。話したのって、それ、全部だよね……?


 どうりで橘さんが真っ赤な顔をしてるわけだよ。たぶん橘さんには刺激が強すぎるからね?


 とは言え、話してしまったものは今更どうすることもできない。


「まったく栞は……」


「んふふ、りょーう」


 打つ手のなくなった俺は栞の温もりに意識を向けて現実逃避をすることにした。もちろん、俺からも栞をしっかりと抱き寄せて。


 そこからは、なんかもうめちゃくちゃだった。


「ねぇ、さっちん。私達も負けてられないよねっ? と、いうわけで。はーるかっ! とうっ!」


「ぐぇっ……。彩、お前もう少し力加減をだな……」


「やーだっ! だーってしおりんにあてられちゃったんだもんっ!」


「だから、力っ、つよっ……」


 楓さんは遥に突撃をかまして悶絶させて、ぐったりしている遥をギリギリと力一杯抱きしめて。相変わらず楓さんの愛情表現はなかなかにバイオレンスだ。


「あわわっ! あ、彩ちゃんまで……! うぅ……。それなら、私だって……。か、かづくんっ!」


「えっ? な、何?!」


「えっと、えっとね……。えいっ……!」


「さ、さっちゃん……?!」


「えへ〜、かーづくんっ……」


 橘さんも控えめながら漣に抱きついて。こっちはこっちで初心な感じでイチャイチャし始めた。


 そんなことをしていればうちのクラスに存在する他のカップル達にも広がっていくわけで。中には他のクラスにお相手がいるのか、静かにその場を離れる人もいたりして。


 よくわからないうちに周りにはなんともあま~い空間ができあがって、独り身の人には大変申し訳ないことになっていた。


「ねぇ、なんなのこの状況?! 今日皆の前にどんな顔して出ればいいのか悩んでたのに、そんなの全部吹き飛んじゃったわよー!」


 いつの間にか俺と栞の横に来ていた連城先生の叫び声が。先生はどうせあなた達のせいでしょみたいな目で見てくるし。


「ははは、なんなんでしょうねぇ……?」


 とりあえず笑って誤魔化しておくことに。


 俺が言えることはただ一つ。栞の影響力恐るべし、それだけだった。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 書いているうちに、なぜかかなりのコメディ回になってしまいました(笑)


 でも、これも幸せのお裾分けというか……。


 とりあえずそういうことにしておきましょう!

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