第117話 特別で大切な場所
「ねぇ、涼。この後ちょっと寄り道していい?」
全ての授業が終わった放課後、並んで教室を出たタイミングで栞がそう切り出した。普段ならばこのまま真っ直ぐ俺の家へ、というのがいつもの流れなので少し意外ではあるが、断る理由も特には見つからない。
「もちろんいいよ。で、どこに行くの?」
「それは着いてからのお楽しみっ! ほらっ、こっちだよっ」
栞は俺の手を取って歩き出す。昇降口とは逆の方向に。
「……ん? 寄り道って帰る途中じゃないの?」
「ううん、校内だよ」
栞は俺の手を引いてどんどんと歩いていく。階段を下って、渡り廊下を通り過ぎて、特別教室が入っている校舎の方へと。
あれ? 栞の行きたい場所ってもしかして……。
栞に連れられて向かう先にはなんとなく心当たりがあった。通い慣れた道順、ここを通るのが一学期の毎日の日課だった。夏休みを経て二学期になると、自然と足が遠のいていたあの場所に向かっている気がする。
「はい、到着だよ」
「やっぱりここだったんだ」
「あれ、気付いてたの?」
「うん、途中でね。俺が来てた時と同じ道順だったし」
栞が足を止めたのは、俺の予想通り図書室の前だった。ここに来るのは実に二ヶ月ぶりになる。
クラスでも俺達のことを受け入れてもらえて、わざわざ図書室でコソコソと会う必要がなくなった。一緒に勉強をするのも、夏休みの延長で俺の家でするようになって。つまり図書室に足を運ぶ理由がなくなってしまったのだ。
「なんかね、こういう日だから来たくなっちゃったの。涼と一緒に、ね。ここは私にとってすごく特別で大切な場所だから」
「そう、だね。ここがスタートだもんね、俺達って」
「うん。ね、涼。中入ろう?」
栞に促されて、相変わらず人のいない図書室の中へ。授業とHRが終わってすぐに教室を出てきたせいか、図書委員の姿すらない。
自然と足が向かうのは、いつも俺が座っていた席。椅子に腰を下ろすと少しだけ懐かしく感じてしまう。
たかだか二ヶ月、されど二ヶ月。その二ヶ月の間には本当にいろんな事があって、とても一言では言い表すことなんてできやしない。あの頃から考えたら、随分と遠いところまでやって来たような気もする。
栞も以前と同じように少しだけ椅子を俺の方に寄せて腰を下ろす。少しだけ近くて、でも肩が触れるほどじゃない。この距離感も久しぶりだ。最近の一緒にいる時はどこかしらが触れていて基本がゼロ距離だから。
栞も同じようなことを考えていたのだろうか、少しの沈黙の後、静かに口を開いた。
「ねぇ、涼。私達が初めて話をした時のこと、覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ」
忘れるわけがない。俺にとってもあれは大きな出来事だったから。
突然声をかけられて、思わぬ相手に動揺して、逃げ出すことも忘れて言葉を返して、話をして。それから勉強を教えてもらった。
この時、俺は初めて他人とまともに会話をすることができた。その相手が栞じゃなかったらきっと無理だったと今でも思う。
「あの時の私ってさ、本当にボロボロでね、どうしたらいいのかわかんなくて、涼に助けを求めたんだよね。それでもやっぱり勇気が必要で、初めて声を掛ける時なんてすっごくドキドキしてたんだよ?」
「それで喋り方おかしくなっちゃったんだよね」
「それはっ……、そうなんだけど……」
「ごめんごめん。なんか最初の栞の喋り方思い出しちゃってさ」
俺が笑うと、栞は顔を赤くする。あの頃はあれが普通だと思っていたけど、今となれば無理をして作っていたのだと思う。本当の栞はもっと砕けた話し方をするのだから。
「もう、涼の意地悪……。でもそうだよね、今と全然違うもんね」
「うん。今じゃもうすっかり自然体だからね」
「それはそうだよ。だって、涼が……」
そこで言葉を区切ると、栞は俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。その目はとても真剣だった。
「俺が……?」
「あのね、私ね、ここで改めて涼にお礼が言いたかったの。涼の誕生日っていう特別な日に、ね」
栞が俺の手にそっと触れた。もうすっかり触り慣れた小さくて可愛らしい栞の手。自然と指が絡み合う。
それだけでじんわりと心が温かくなってくる。
「涼、ありがとね。私と出会ってくれて。逃げずにちゃんと話をしてくれてありがとう。私、涼の言葉にいっぱい助けてもらったの。それからもいつも優しくしてくれて、あり、がとう……」
お礼を口にするたびに、栞の目から涙がこぼれる。それを見ていると、俺までつられて涙ぐんでしまう。
「そんなの俺だって、栞にお礼を言わなきゃ、だよ。あんなだった俺に声をかけてくれて、ありがとね。俺が変われたのは栞のおかげだよ」
栞が俺に感謝してくれるのと同様に、俺も栞には感謝してるんだ。栞の言葉で勇気をもらって、少しずつ自信がついた。だから、この思いは栞にだって負けないつもりだ。競い合う気はないけれど、栞と共に過ごすほど、それは際限なく大きくなっていくのだから。
「うん……。ねぇ、涼、大好き。ううん、愛してる。だからね、もう一回改めてちゃんと約束させて」
絡めた指に栞が力を込めた。俺もそれに応えて栞の手をきゅっと握る。
「うん、なに?」
「これからもずっと、いつまでも一緒にいようね。私ね、涼がいないとダメになっちゃったから」
「うん、もちろんだよ。俺ももう栞がいないのなんて考えられない。愛してるよ、栞」
「へへ、嬉しい……」
そう言うと栞はついに我慢ができなくなったのか、ぎゅっと抱きついてきた。俺もそれを受け止めて、しばらくそうして抱きしめ合っていた。
どれくらいの時間そうしていただろうか、不意に誰かが近付いてくる足音が聞こえて、俺達は反射的に身体を離した。
誰もいないのをいいことに抱き合っていたわけだけど、図書委員の当番が来てもおかしくはない。それも忘れて、すっかり二人の世界に入り込んでいたのは反省すべき点だろう。
ただ、その後で聞こえてきたのは予想とは違う、よく知った声だった。
「あら〜? あなた達、またこんなところでイチャイチャしてたの?」
その正体はまさかの連城先生だった。
「……先生、どうしてここに?」
「だって私、ここの司書もやってるんだもの。って、黒羽さんは知ってるわよね?」
「えっ、そうなの?」
「うん。私、図書委員やってたから知ってるよ。涼は知らなかったんだ?」
「いやぁ、ここで先生見たことなかったしさ……」
一学期の間、毎日放課後はここにいたけど、一度だって連城先生の姿を見たことはなかった。そもそも司書がいるということすら俺は知らない。図書委員だけで管理していると思っていた。よく考えればそんなわけないのだけど。
「まぁ、基本的に私は職員室にいるからね。これまでは用事があっても昼休みに片付けてたし」
「じゃあなんで今は……?」
「……それ聞いちゃう?」
連城先生は言いづらそうに言葉を続ける。
「私、登校日に課題集めるの忘れちゃったじゃない? それでほかの先生方からこっぴどく怒られてね……。正直に言うと、職員室に居辛いのよ……」
「あぁ……」
確かにそんなこともあった。あの日はまぁいいかで終わらせていたが、俺達の知らないところで怒られていたとは。自業自得なので同情の余地はないけれど。
「って、私のことはいいのよ。それより二人共、イチャイチャするなら帰ってからにしなさいよ。今は人がいないみたいだからいいけど、たまに誰か来るんだからね」
見たのが私で良かったわね、と笑われて釘を差された。どうやら抱き合っていたのはバッチリ見られていたらしい。さすがにちょっと恥ずかしくなってきた。
「えっと、それじゃあ、帰ろっか……?」
「う、うん、そうだね……」
「はいはい、二人共気を付けて帰りなさいね」
「はい……、それじゃ失礼します」
「先生、さようなら」
先生に頭を下げて立ち上がり、鞄を手に取って逃げるように図書室を一歩出て。ドアが閉まる直前に声が聞こえた。
「そうそう。うちのクラスの出し物、場所はここになったってさ」
驚き、慌てて振り向くもすでにドアは閉まっている。もう一度ドアを開けて中に入っていくのはさすがに気まずくて、俺と栞は顔を見合わせた。
「……栞は知ってた?」
「ううん、知らなかったよ。彩香も柊木君も何も言ってなかったし……」
「だよね……。もしかして俺達には内緒だったのかな……?」
「そうかも……」
遥も楓さんも、というかクラス全員だけど、俺達が図書室で少しずつ関係を深めていったことは知っているわけで。予期せぬタイミングで先生から明かされてしまったけど、それでこの場所を選んでくれていたのだとしたら。
「ねぇ、涼。図書室、もっと特別な場所になっちゃうね?」
「……だね」
今後も来ることは少ないのかもしれない。まだまだ先のことだけど、卒業なんてしてしまったらそれこそ簡単には入ることすらできなくなる。
でも、それでも、ここは俺達にとっては特別で大切な場所だ。それが更に……。それなら遥達には感謝しないといけないかもしれない。
「ねぇ、涼。帰ろ? まだまだ今日はやることいっぱいあるんだから」
「えっ、まだあるの?」
「そりゃそうだよ。むしろここからが本番なんだからね?」
今ので十分すぎるほどもらってしまったというのに、どうやらこれで終わりではないらしい。嬉しそうに頬を緩ませる栞に手を引かれて、学校を後にすることになった。
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