第115話 誕生日の朝 新たな起こし方
絶対に栞が何かを仕掛けてくる。そんなことはなんとなくわかっていたはずなのに、自分ではどうすることもできないタイミングというものが存在する。
それは目が覚める前の時間。
ここのところ毎日栞が起こしてくれるようになったので、俺はアラームをセットするのをやめてしまっていた。どうせセットしたところで、鳴るよりも前に栞が来て止めてしまうからだ。それに、俺も起こされることが癖になってきたというのもある。無機質なアラームに起こされるより、栞に起こしてもらう方がいいに決まってる。
というわけで、それは俺の誕生日である今日も同じ。栞との電話が終わった後はアラームをセットせずに、そのままスマホを枕元に置いて眠りについた。栞からの『おめでとう』が嬉しすぎて、なかなか寝付けなかったという普段との違いはあるけれど。
──りょーうっ?
耳元で声がする。もうこれが栞のものであるということに疑いはない。ここ最近、毎朝この声で目覚めているのだから当然だ。
──ねぇ、涼?
いつにも増して柔らかく優しい声。耳に栞の吐息がかかるが、前回息を吹きかけられた時のようなくすぐったさはない。心地よくて、この声を聞きながらもう少しまどろんでいたいという気分にさせられる。
──涼、朝だよー? 起きないのー?
できることなら今すぐ起き上がって栞を抱きしめたい。そう思うのに身体は全然言うことを聞いてくれない。
「んん〜……」
そんなうめき声のようなものしか出すことができない。これはただ単純に俺が朝に弱いからなんだけど。
──ふふ、困った寝坊助さんだねぇ、涼は。まったくもう、しょうがないなぁ……。
言葉とは違い、全然困った様子のない声。それよりもどこか嬉しそうな感じすらする。そういえば、俺を起こすことが朝イチの楽しみになったって言っていたっけ。
──起きてくれないなら私の好きにしちゃうよ? いいよね? ダメって言ってももう遅いんだから。…………あ〜むっ。
かぷっ
突然耳が温かく、やや湿った感触に包まれた。
はむはむ
ふにゅっとした何かに挟まれて弄ばれて。それから柔らかい何かがヌルリと耳の淵を撫で上げてくる。くすぐったいような、ゾクゾクするような、初めての感覚にビクっと身体が跳ねた。
「〜〜〜〜〜〜っっ!!」
勢いよく飛び起きると耳元でちゅぱっという音が聞こえて、開放された耳が外気に触れてヒンヤリする。
「あっ、やーっと起きてくれた。おはよ、涼?」
「し、栞? 今、何を……?」
「えへへ、なかなか起きてくれないからね、涼の耳、食べちゃった」
栞は少しだけ頬を染めて、ペロリと舌を出す。たまに見せてくれるいたずらっ子の目をしていた。
「食べちゃったって……」
俺の耳なんて食べても美味しくないだろうに。
「だぁってー、涼の耳ってなんか可愛いんだもん。涼が悪いんだからね? あんなに無防備にされたら噛み付きたくもなっちゃうよ。これでも今まではずっと我慢してたんだから」
栞がふんすっと胸を張り、その立派なものをふるんっと揺らした。朝から色々と刺激的で目にも毒だ。決して悪い意味じゃないけれど。
「そ、そうなんだ……」
たった今、栞が起こしに来るたびに俺の耳を狙っていたということが判明した。さすがに文字通り食べられることはないと思うけど、どんどんやることがエスカレートしている気が。
ともかく、耳を甘噛されるという刺激的な起こされ方に、俺の心臓はドキドキと暴れ狂っていた。
思い返せば、ちょっと気持ちよかったような……。あれを何度もされたら変な扉が開いてしまうかもしれない。
このドキドキを鎮めようとしていると、栞は俺の顔を見てクスリと笑った。
「涼って耳弱いよね? 前にふーってした時も飛び上がってたもんね?」
「いや、あんなことされたら誰だってそうなるでしょ……」
栞に弱点を晒すのは今更だから構わないけど、別に俺が特別弱いわけじゃないと思う。
「あっ、そんなことよりもっ! 涼、お誕生日おめでとっ! 今日から16歳だねっ」
「あ、あぁ、うん。ありがとう」
電話で言われた時は泣いてしまった俺だけど、今はそれを上回るドキドキのせいで涙は出なかった。それでもしばらくして心臓がおさまってくると、やっぱり嬉しさが込み上げてくる。その感情にまかせて栞を抱き寄せた。
視線の先、ちょうど良い位置に栞の耳が見える。栞は珍しく耳に髪をかけていた。きっと俺の耳に噛み付くのに邪魔になったからだろう。普段は隠されていてあまり見ることができない栞の耳。
ほんのりピンク色に染まっているのは、自分のしたことに照れているからなのだろうか。それにとても綺麗な形をしている。見ているだけなのに、なぜかウズウズしてきた。なんとなく栞の言っていた意味がわかった気がする。
なるほど、これは噛み付きたくなるかもしれない。やられっぱなしというのも悔しいし、いつか仕返しをしようと密かに心に決めた。
でもそれは今じゃない。今、栞にしたいことは別にある。
抱きしめていた腕を少しだけ緩めて、栞の顔を正面から覗き込む。俺にはもったいないくらいに整った可愛い顔。片手で栞の頬にそっと触れてみる。何度触れても飽きが来ないスベスベでモチモチな栞の頬を撫でるように手を滑らせる。
「んっ、涼……」
くすぐったそうに栞は声を漏らすが、表情に嬉しさが見えるのでやめたりはしない。
「栞……」
名前を呼びつつ少しだけ顔を近付けると、俺の意図を察してくれた栞がそっと目を閉じて、やや上を向く。
寝る前にも約束したことだし、ね。
今日は特に気合を入れてきてくれたんだろう。いつも以上に艶々で柔らかそうな栞の唇に自分のそれを重ねた。
「んーっ」
栞が嬉しそうに喉を鳴らす。
触れるだけで吸い付くような唇なのに、更に栞は啄むようにして俺への愛を伝えてくれる。唇が離れるたびに、ちゅっちゅっと音がする。唇から、耳から、ピリピリとした快感が押し寄せてきて、俺の頭が幸福感で埋め尽くされていく。
「ねぇ、栞。俺、今すっごく幸せだよ」
「へへ、良かったぁ。あのね、私もとっても幸せだよ。電話でも、直接でも、最初に涼にお祝いできたんだもん」
祝われているのは俺のはずなのに、俺以上に幸せそうに蕩けるような笑みを浮かべる栞が愛おしくてたまらない。
俺達は夢中になって何度もキスを繰り返した。時間も忘れて、学校へ行くのもどうでもよくなりそうで──
〜〜♪
不意に栞のスマホからメロディが流れ出した。
これは俺が身支度を整え始める時を告げるもの。遅刻防止のために栞がセットするようになったものだ。つまり、この幸せな時間は一旦おしまいということになる。
「あらら、時間みたいだね。支度、しないとね」
本当に残念そうに栞は顔を離した。でもその身体は未だに俺の腕の中にある。
「うん……」
本音を言えば、抱きしめている腕を解きたくない。柔らかく温かい栞をずっと感じていたい。
でも学校なんてどうでもいいと思い始めていた俺だけど、さすがにサボるわけにはいかないのはわかってる。
ゆっくりと名残を惜しむように栞を腕から開放して、洗面所へ向かおうと振り向きかけたところで、
「涼っ!」
栞に呼び止められて、腕を捕まれた。驚いて、栞に視線を戻した時にはもう寸前の距離。
「んんっ?!」
一瞬の後には俺の唇に触れる柔らかい感触が戻ってきた。それもほんのわずかな時間で離れていく。
不意打ちのキスにドキドキする。キスなんて人が聞いたら呆れる程しているクセに、急にされるのには全く慣れそうにない。
「し、栞……?」
いつもなら、どんなに物足りなくても準備が終わるまでは許してくれないのに。
「涼が残念そうにしてたから。誕生日の今日だけ特別、だよ? えっと、じゃあ……、私、朝ごはん用意して待ってるね!」
そう言うと栞は真っ赤な顔で、パタパタとスリッパを鳴らしながら階下へと向かっていった。
ずるいって思う。俺からもしたかったのに。
まぁでも、栞が逃げるように出ていった理由もわからなくはない。きっと歯止めが効かなくなるからだ。それは栞も物足りないと思っているということで……。
「あぁもう……。ただでさえ可愛い栞がますます可愛くなる……」
俺は一人呟きながら、火照った顔を冷やしに、洗面所へと向かうのだった。
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