第102話 動き出した時間

 ぼんやりとした栞の瞳が俺を見つめる。


「あれ……? 涼? なら、まだ夢、なのかな……? 夢なら、いい、よね。ちょっとだけ、充電させて? 私、まだ……、もっともっと頑張らないと……」


 栞はうわ言のように呟いて、のそりと起き上がる。ふらふらとベッドから立ち上がると、ストンと俺の腕の中に崩れ落ちてきた。


 抱きとめた栞の身体が熱い。明らかに熱がある。こんなになっているというのに、栞はまだ何かを頑張ろうとしている。


 その姿を見て、また勝手に涙が溢れ出してきた。ここまで追い込んでしまったのが辛くて。何をしようとしていたのかはわからないけど、頑張るというのならせめて俺を巻き込んでほしかった。


 付き合いの長い美紀さんが言うには、栞は一人で抱え込んでしまう癖があるらしい。そこを見抜けなかったのは俺の落ち度だ。片鱗は見せてくれていたはずなのに。


 過去に一人で思い悩んで俺の前から消えようとしていたことがあった。あれはその一端だったんだ。


「栞、ごめん……。ごめんね……」


 謝罪とともにぎゅっと栞を抱きしめた。そこまでされたところで、ようやくしっかり目が覚めたらしい。栞の身体がビクッと跳ねた。


「えっ……? 涼?! 本物……?」


 目が覚めたのなら話ができる。こんな状態の栞に無理をさせたくはないが、今を逃したらたぶんもう元には戻れない気がした。


 栞は俺の腕の中で暴れて、離れようとする。でも俺がそれを許さない。全力で抱きしめていると、しだいにその力が弱くなってきた。


 ようやくだ。ようやくここまで来れた。


「ねぇ、栞。ちゃんと話をしよう? 俺が頼りなくて話せないのなら、それでもいい。けど、それならそうと栞の口から言ってほしい」


「ち、違うっ! 違うよ……! 涼は頼りなくなんてないよ。むしろ私がっ……」


 そこまで言うと、栞はハッとした顔をして口をつぐんだ。俺はその先が聞きたいというのに。


「私が、何……?」


「……ごめんね、言えないよ。言ったら私また、涼に甘えちゃう……」


 俺がここまでしてもなお、栞はそんなことを言う。でも俺はもう限界なんだ。栞のいない生活に耐えられない。中途半端にされるくらいなら、いっそ切り捨ててくれたほうがマシだ。


 それならそれで、栞のことを諦めるためにその方法を考えられる。思考を切り替えられる。そんなこと考えたくもないけど、もし栞がそう望むのなら。


 でも、栞とは約束をしたはずなんだ。


 ずっと一緒にいようって。

 思うことがあれば言うって。


 そのどちらも今は守られていない。



 だから──。



 俺は大きく息を吸い、そして声を張り上げた。


「甘えろよ! 頼れよ! 一人で無理なんてしないでくれよ! 栞にとって俺はいったい何なんだよ?!」


 栞に対して声を荒げるのはこれで二度目。本当はこんなことをしたくはない。できることなら栞には優しい言葉だけをかけてあげたい。でもそれだけじゃダメな時もある。


 突然怒鳴った俺に栞は一瞬だけ萎縮して、でもそれに反抗するように目をキッとさせる。


「私だって……。私だって本当は涼に甘えたいよ! 頼りたいよ! でもそれじゃダメの!」


「何がダメなんだよ! 俺がいつそれを拒んだっていうんだ!」


「違うよ……、そういうことじゃないんだよ……。涼が言ったんじゃない……。支え合ってって……」


 確かに俺はあの日栞にそう言った。俺が望む栞との生き方だった。この辺りに原因がありそうな気がして、注意深く栞の言葉を探っていく。


「それがどうしてこうなるのさ」


「私も涼のこと支えてあげたいよ! 涼は私の一番大好きで大事な人だもん! でも、今の私じゃ無理なの! あの時、彩香は私のこと家猫って言ったのよ」


 プールからの帰りのことだ。俺も記憶に残ってる。楓さんは俺に甘える姿をそう言っていたはずだ。でもそれがどうして……。


「涼に甘えて、守られて、何もかも与えられなきゃ生きていけない弱いやつだって、そう言われた気がしたの! 実際いつも助けてもらってばっかりだし。涼と離れただけで、こんなにボロボロになっちゃって……。涼を支えられるくらい強くならなきゃいけないのに……。なのに、もうどうしたらいいのかわかんないよ……!」


 最後の方は悲鳴のようになっていた。一気にまくしたてたせいで肩で息をしていて、涙もとめどなく溢れている。


 ここまで感情を爆発させる栞を見るのは初めてで。初めてぶつかった時ですらここまでじゃなかった。だから、これが栞の本音なんだってわかる。


 やっとだ、やっと聞けた。栞が何を考えているのかをようやく知ることができた。


「涼だってこんな面倒くさい女イヤだよね……。ごめんね、涼……。私──」


「栞!」


 俺は栞の言葉を遮った。余計な事を口にする前に。そんな言葉を聞くために俺はここまで来たんじゃない。


 本当に栞は面倒くさいよ。それに不器用だ。怒鳴って揺さぶってやらなきゃ本音も言ってくれやしない。


 それでも俺は栞のことが好きなんだ。大好きなんだよ。その程度じゃ嫌いになんてなるものか。


 だから、ここまで聞かせてくれれば後はどうにでもできる。もし栞が最初から話してくれていれば、数分で片が付いていたかもしれない。こう言うと思い悩んでいた栞に悪いけど、それくらい俺にとってはなんてことないことだった。


 今、栞にかけてあげるべき言葉は最初から俺の中にあるんだから。俺が反省しなきゃいけないのは、俺の想いが栞に正しく届いていなかったということ、もっと言葉を尽くすべきだったということだ。


 でも、それは今からだって遅くないはず。ちゃんとわかってもらって、元に戻るんだ。いや、もっと先にだって進めるはず。


「怒鳴ってごめんね。やっぱり栞を苦しめてたのは俺だったんだね」


「涼は、悪くないよ……。悪いのは私でっ……」


「いや、ごめん。どっちが悪いとか、今はもうそんなことはどうだっていいんだよ。だからね栞、俺の話、ちゃんと聞いてくれる?」


 急に優しい声になった俺に栞が狼狽える。それでも戸惑いがちにコクリと頷いてくれた。


「俺はね、栞に支えられてたよ。まだ友達だった時からずっと、十分すぎるくらいにね。俺は別に栞に何かをしてほしいわけじゃないんだ。栞に、ありのままの栞で隣にいてほしいだけなんだ。それだけで俺は強くなれる気がして、頑張れるんだよ」


「涼は……、こんな弱い私でもいいの……? 変わらなくても、もう頑張らなくてもいいの……?」


 栞の瞳が不安げに揺らぐ。これでもまだ少し足りないらしい。


「今の栞がいいんだ。もし変わっていくのなら、その時は隣で俺にも見せてよ。俺の知らないうちに栞が変わってしまったら寂しいじゃない。

 それにね、俺は栞のこと弱いだなんて思ったことはないよ。そんなこと言ったら俺だってそれ以上に弱いし、栞がいないのが寂しくてここまで来ちゃうようなやつだからさ」


 慰めになるかはわからないけど、自嘲気味に笑ってみせた。


「じゃあ、私……、ただ涼に寂しい思いをさせただけで……。ごめっ、ごめんな、さい……」


「もういいんだよ。こんなになるまで俺のことを想って考えてくれたんでしょ? それがわかって嬉しかったよ」


「もうっ……、本当に涼は私に甘すぎるよ……」


 また泣き出してしまった栞を優しく包み込むように抱きしめる。栞も今度は素直に身を任せてくれた。髪を撫でて、頬に触れて、栞の目を見つめる。


「ねぇ、栞。笑ってよ。俺、栞の笑った顔が見たい」


「う、うん……」


 栞は涙を拭いて、それから笑ってくれる。その顔にはもう悩んでいる色は見えない。


「やっぱり俺は笑顔の栞が好きだよ」


「もう、バカ……」


 そう言うと恥ずかしそうに俺の胸に顔を埋めてしまった。しばらくそんな栞の頭を撫でていたのだが、栞はふいに顔を上げる。


「ねぇ、涼。あの日の返事、私まだちゃんとできてなかったよね?」


「あー、そういえば……」


 あの時も一緒にいたいとは言ってもらったけど、その後のことで有耶無耶になっていた。栞は俺の腕から抜け出すと、俺の正面にチョコンと正座をした。


「あのね、涼。こんな私だけど、これからも涼の隣にいさせてください」


「うん、俺からも改めてお願いするよ。これまでと同じように二人で支え合って、そうやって生きていこう」


「はいっ……!」


 栞は今日一番の笑顔を見せてくれた。花の咲くような、なんて言葉では表しきれない。


 それから俺達はまた固く抱きしめあって、久しぶりのキスを交わした。心の底から温かくなるような、そんなキスを。


 止まっていた俺の、俺達の時間が再び動き出した瞬間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る