第101話 ようやくの一歩

 すっかり意気地なしに戻ってしまった俺は未だに栞との問題を解決できずにいた。遥に言われた「時間が経てば元に戻るんじゃねぇの?」という言葉と、挨拶の時の栞のぎこちない笑顔だけを心の支えにどうにか日々を過ごしている。


 そんなある日のこと。


 朝、教室に着いた段階でおかしいなと思った。


 最近ではいつも俺より先に登校している栞の姿が見当たらない。たとえ姿がなくても机に鞄がかかっているはずなのに、今日はそれもない。


 しっかり者の栞が寝坊するとは考えにくいけど……。


 ただ、唯一栞の顔を正面から見られる機会が失われたことに、自分で思っていた以上にダメージを受けていることに気付いた。


 結局、始業のチャイムが鳴っても栞は現れなかった。その理由がわかったのは朝のSHRの時間。連城先生が出席を取っている時だ。


「えーっと、今日は体調不良で黒羽さんはお休みです」


 先生はそう言うと、俺に視線を送ってくる。


「高原君。今日の分の授業内容、ちゃんと黒羽さんに教えてあげなさいね」


 俺と栞の今の状態はすでにクラス全員の知るところとなっている。それは連城先生も例外ではない。登校日にあれだけのことをした俺達なのだから、様子がおかしいことくらいすぐにわかってしまって当然だ。


 この発言も、早くどうにかしろという意味が含まれているように感じた。


「はい……」


 できるかはともかく、この場は頷くほかなかった。


 頷いてはみたものの授業中は全然身が入らずに、先生の話が耳を素通りしていく。


 栞の体調不良の原因は俺なんじゃないかって思った。栞が思い詰めた顔をしていたのを知っていながら、ここまで俺が逃げていたせいで、俺の意気地がないせいで栞を苦しめているんじゃないかって。


 そう思うとまた怖くなる。一度は栞を救えたという自信も、今は見る影もなくなっていた。


 休み時間のたびに遥や楓さんがやってきてなにやら言っていたけど、それに対しても空返事になってしまう。反応の薄い俺に愛想を尽かしたのか諦めたのか午後からはそれもなくなっていた。


 ぼんやりと一日を過ごして、放課後。帰りの電車に乗った俺は、気付けば黒羽家の最寄り駅に降り立っていた。半ば無意識に、栞が心配でここまで来てしまったらしい。


 でも、そこからの一歩がなかなか踏み出せない。あれだけ大事だと思っていた栞のことなのに勇気が出ない。俺は改札を抜けた先で立ち尽くしてしまう。


「あれ……、高原さん……?」


 突然、俺に声をかける人物が現れた。声のした方を向くと、そこには美紀さんの姿がある。制服姿であるところを見るに、彼女も帰宅途中なのだろう。俺の顔を見て確信したのか、歩み寄ってくる。


「やっぱり高原さんだ。ちょっと雰囲気変わってたから自信なかったんですけど。ってあれ、今日は栞は一緒じゃないんですか?」


 美紀さんからしたら当然の質問。栞と美紀さんの間には約束がある。偶然どこかで遭遇したら、また一から普通の友達としてやり直すという。


「栞は……、今日は体調を崩して休みなんです……」


「あら、そうなんですか……。もしかしたら会えるかもって期待したのに」


「……」


 何も言えなかった。もし今、栞との関係がこんなことになっていなければ、二人は友達に戻れたかもしれないのだから。そのチャンスを奪ってしまったかもしれないと悔しくなって。


「高原さん……? もしかして栞と何かありました……?」


 二度しか顔を合わせていない美紀さんにまで簡単に見抜かれてしまう。それほどの顔を俺がしていたということだが。


 自虐的な気持ちになっていたのかもしれない。情けない俺を笑ってほしかったのかもしれない。俺は美紀さんにポツポツと栞とのことを語っていた。


 恋人同士になったくだりでは自分のことのように喜んでくれたものの、俺の話す様子とその後の内容で怪訝な顔になっていく。そして、現状の話になるとその眉は吊り上がっていった。


「私、栞のことお願いしますって言いましたよね?!」


 そう言って俺に詰め寄る美紀さん。周りからは痴話喧嘩を見るような視線が向けられる。


「いやっ……、それは……」


「高原さんは栞の彼氏なんですよね? なんでそんなになるまで放っておいたんですか?! なんでこんなところでボケっと突っ立ってるんですか?!」


「……」


「栞は考えすぎるんです! 一人で抱え込んじゃうんです! 体調を崩したのだって、きっと……」


「……」


 美紀さんは目に涙を浮かべながら言葉をぶつけてくる。笑ってくれなんて思っていたくせに、こうやって詰められると何も言い返せない。そんな自分すら情けなくて。


 そんな俺を美紀さんは睨みつけた。


「高原さんが行かないのなら、私が行きます……!」


「え、でもそれじゃ……」


「わかってますよ! そしたらあの約束はなしになるでしょうね。それに私なんかじゃ力になれないかも。でもっ、そんな状態の栞、放っておけない……。きっと栞は今も一人で悩んで苦しんで……」


 美紀さんの口から嗚咽が漏れて、それ以上は言葉になっていなかった。それほどまでに栞のことを大切に思っているのだろう。それなのに俺は……。


 そこでようやく俺の心が動いた。俺のせいであの栞の決断を無駄にしてもいいのかって思ったのがきっかけで。


 あの日の栞の姿が脳裏に浮かんできたんだ。あの時の栞は立派で尊くて、そしてなにより強かった。問題の当事者なのに、負の感情をぶつけられるかもしれないのに、その恐怖を乗り越えて真っ直ぐに向き合った。


 どうして今まで思い出さなかったのか。あの出来事は俺に多大な影響を与えてくれていたはずなのに。


 そう思った途端、あれだけウジウジして、ぼんやりしていた思考がクリアになる。恐怖や雑念が消えて、俺の頭が必死で今すべきことを考え始めた。


 まずは、栞に会いに行かなきゃ。会わなければ何も始まらない。


 さらに考える。遥は栞と話をしろと言ってくれた。ちゃんと向き合え、とも。


 ここまで何も言ってくれなかった栞だ。きっと一筋縄ではいかない。でも、強引にでも聞き出すんだ。


 はっきりと自分の気持ちが理解できた。向き合うことに怯えて見えなくなっていたけど、とっくに俺も限界だったんだ。


 意思は決まった。こんなにも時間がかかってしまったから、もしかしたら手遅れかもしれない。でも、これ以上遅くなるよりはマシだ。失うかもしれないけど、今みたいに中途半端よりはいい。


 いや、よくはないけど、それでも──。


「俺が、行きます……。俺が行かないと……」


 俺と栞の問題だ、人任せにはできない。ましてや大事な約束のある美紀さんを向かわせることなんてできるはずもない。


 美紀さんは俺の顔を見て、安心したように頷いてくれた。


 それでようやく鉛のように重く固まっていた足を一歩前に踏み出せた。そこからはもう止まらなかった。俺は走り出していた。


「栞のこと、頼みましたよー!」


 そんな美紀さんの声に背中を押されて。


 走りながら文乃さんに連絡を入れる。


『今から栞のお見舞いに行きます』


 許可は求めなかった。行くと言い切った。ダメと言われても行くつもりだ。栞に会わせてもらえるまで玄関の前に居座る覚悟だ。


 でも、


『待ってます』


 返信はすぐに来た。文乃さんはあっさりと許可してくれた。体調不良を理由に会わせてもらえないかもと思っていたので、ほっとした。


 そこからはただ全力で走った。焦りすぎて、途中で足がもつれて転びそうになったけど、必死で立て直して。


 息を切らして家の前に着き、インターホンのボタンを押すと、文乃さんが出迎えてくれた。心配そうに、でもどこか安心したような顔をして。


「待ってたわよ、涼君」


 それは今日だけの話じゃないんだってわかった。たぶんあの日からずっと文乃さんは待ってくれていたはずだ。


「遅くなってすいません」


 文乃さんも気を揉んでいただろうから素直に謝った。それから家の中へと招かれる。


「会いに行ってもいいけど、今は眠っているから静かにね」


 それだけ言うと、文乃さんはリビングへ引っ込んでしまった。全て俺に任せてくれるんだろう。


 俺は深呼吸して、息を整えてから階段を上り栞の部屋へと向かう。ドアを開けると文乃さんの言葉通りに栞がベッドに横たわり眠っているのが見えた。


 その目には涙が浮かび、溢れ出していた。栞は眠りながら泣いていたんだ。うなされているようにも見える。


 その姿にたまらなくなり、栞に近付いてそっと手を取り、両手で優しく包み込むように握る。しばらくそうしていると栞の様子が落ち着いてきた。呼吸も穏やかになり、涙が止まった。


「待たせてごめんね……」


 栞の耳元で囁くと、ピクリと反応が返ってきて。


 そして、栞がゆっくりとその目を開いた。

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