第5話 初めての衝突

 初めての会話から一週間、俺は黒羽さんのことばかり考えていた。いや、決して好きになってしまったとかそういうことではなくて……。


 まぁ、気になるという点では同じかもしれない。


 突然俺に声をかけてきたこと。意外と面倒見の良い性格。そして最後に見せた寂しそうな背中。


 そのどれもが俺の頭から離れなかった。おかげで授業中も上の空で。釘を差されてしまった手前、こちらから聞きに行くこともできずモヤモヤとした気持ちを拭えずにいた。どの道、簡単に聞ける内容ではなさそうだし、そんな意気地もないわけだけども。



 それでも再び言葉を交わす機会は思っていたより早くやってきた。


 どうやら図書委員の当番は週に一日回ってくるらしい。先週と同じ曜日、放課後の図書室に黒羽さんは現れた。


 仕事のことはどうでもいいと言わんばかりに俺のいる方へ向かってきて、前回と同じく隣の椅子に腰掛けた。なぜか俺の方に少しだけ椅子を寄せてから。


「ねぇ、高原君」


「な、なんでしょう?」


 教室ではダメだけど、どうやら図書室で話す分には問題はないらしい。また話し相手ができたことに俺は少し嬉しくなった。


 でも一度言葉を交わしたことのある相手だと言うのにまだ緊張してしまう。それに前回よりも距離が近いせいでドキドキしてしまって。


「あなた、毎日ここにいるの?」


「いや、うん、まぁ……何もなければ?」


 何もなければ、なんて言ってみたけどこれまでに何かがあったことはない。寂しいことに友人の一人もいないので、放課後に予定が入ることもなくて。


 部活にでも入れば違ったのかもしれないけれど、どうせ俺なんかが居ても空気を悪くしそうな気がして入る気にはなれなかった。


「そっか……。ならやっぱり……」


「やっぱり、何?」


「ううん、こっちの話。気にしないでちょうだい」


 気にはなるけど、気にするなと言われて問い詰められる勇気が俺にあるわけもなくて、


「わかったよ」


 そう答える他なかった。


「それより今日も勉強教えてあげられるけど、必要そう?」


「え? 俺は助かるけど、いいの?」


 正直な話、授業の内容が半分くらいしか頭に入ってこなかったのでわからないところだらけだった。


「私から言い出したんだもの。ここでダメなんて言わないわよ」


「じゃあ、今日もお願いします」


「はい、頼まれました」


 そう言った黒羽さんは少しだけ笑ったように見えた。目が隠れていてわかりにくいので、俺の勘違いでなければだけど。


 そんな気がしたのも束の間、俺が質問をしていくたび少しずつ黒羽さんの口がへの字になっていく。声も低くトゲのあるものに変わっていった。


 そしてついに──


「ねぇ、高原君? あなたちゃんと授業聞いてる? 他の教科はともかくとして、特に数学。簡単なところでも半分くらいしか理解できてないじゃない」


 完全に見抜かれてしまっていた。その原因は今、目の前にいるのだけど。


 正直に言うことはできないけど、怒らせてしまうのがよくないのはわかる。すでにちょっと怒っているけれど、言い訳くらいはしなくては。どうにか頭をフル回転させて絞り出したのがこれだ。


「ごめん……。数学苦手で……」


 情けないことこの上ないけど、嘘は言っていない。結果的にこれでどうにか怒りをおさめてくれたけど、今度は呆れたようにため息をつかれてしまった。


「はぁ……。あなた、いつも苦手だと思いながら授業受けてない? 難しいと思うから頭に入ってこないのよ。こんなの簡単だって思うようにしてみなさい。全然違うはずよ」


「そんな精神論でどうにかなるものなの? そんなことで解決するなら皆もっと勉強ができるようにならない?」


「そりゃ人によって程度の差はあるわよ。でもやる前から怖気づいてたら話にならないでしょ? こんなの平気だって思うことが……、あっ……」


 そこで言葉が途切れた。疑問に思って顔を向けると、黒羽さんは俯き少しだけ肩を震わせていた。そして独り言のように、呟くように言葉が漏れ出した。


「そう……、平気なはずだったじゃない……。私は一人でも──。でも、どうして……? ──私はこんなにも弱くて──」


 突然のことで驚きもしたし、動揺もした。所々聞き取ることもできなかった。


 でも、彼女の心情を察するにはそれで十分だった。なぜってそれは、俺も同じだから。この一週間、頭から離れなかった疑問がようやく答えに辿り着いた。


 あぁ、やっぱり黒羽さんは寂しかったんだ……。


 最初に言葉を交わした日の別れ際に俺が感じたものは間違いじゃなかった。『関わるな』なんて言って、他人を遠ざけていたけど、あれはきっと本心じゃない。いや……関わりたくない何かがあるのかもしれないけど、それだけじゃないはずだ。


 なら俺にできることは……


「ねぇ、黒羽さん? なにか無理してるんじゃない?」


 気付いた時には、俺の口からそんな言葉が漏れていた。思いつくよりも前に、勝手に。


「……無理って何よ? あなたに私の何がわかるっていうの?」


「わからないよ。だから聞いてるんだ」


 止められなかった。俺だって一人でいるのは寂しかったから。俺が始めてまともに会話できた相手だったから。俺はそこに少しだけ救われたから。


 俺のことをクラスで沈んでいると言った時、意地悪で、でも少し楽しそうだった。それに俺に勉強を教えてくれている時、少しだけ声のトーンが上がっていたのを思い出す。きっとあっちが黒羽さんの素に近い姿で、普段はそれを押し殺しているのだろう。


「自己紹介のことも、顔を隠してることも、俺には理由なんてわからない。けど、無理してるのは今のでわかったよ」


「うるさい……」


「今、黒羽さんが自分で言ったんじゃないか。平気だって思い込めって。なら黒羽さんの本当にやりたいようにやって、そう思い込めばいいじゃないか!」


「うるさい! もう私に構わないで!」


 これにはさすがにカチンときた。


「最初に話しかけてきたのは黒羽さんだろ! 近付いてきたり突き放したり、何がしたいんだよ?! 本当は誰かと話がしたかったんじゃないの? 他のやつが嫌なら俺だけでもいい。俺ならいくらでも相手してやる」


 一気にまくし立てた後、我に返って襲ってきたのは焦りだった。


 自分ができもしないことを何を偉そうに言ってるんだ……。


 でも言った内容は紛れもない本心──。




 いや、違う。俺だ。俺が相手をしてほしかったんだ。普通に話ができる相手ができたことに浮かれていたんだ。なのにあんな……。


「私、帰る……」


 黒羽さんは乱暴に鞄を掴むと席を立って、早足で図書室の出口に向かう。


 姿が見えなくなる直前、声が聞こえた気がした。


「ごめんなさい……」


 黒羽さんが立ち去った後の机には涙の跡が残っていた。

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