紫陽花の恋

北山カノン@お焚き上げ

「紫陽花の恋」

「次の受診予約は二週間後にしておきましょう」

「わかりました。ありがとうございます」

「もし不調を感じたら当日受診でも構いませんので、無理はしないでくださいね」

「はい、わかりました」

「では次回受診時にまたお会いしましょう」


 電子カルテに次の受診日の予約を入力した先生は、こちらに向き直って丁寧にお辞儀をした。それにならってこちらもお辞儀をする。初めて受診をした時からの流れで、これで診察は終わり。バックを抱えて診察室の扉を開けて出る際に、もう一度お辞儀をしてから外に出た。

 受付票を会計窓口に渡して、待合室のソファーに腰を下ろすと肩の力がスッと抜けた。数年通っているが、診察の時の緊張は解れないし慣れない。今感じていること、気になることを言葉にするのにはとても疲れる。頭を使うというよりも神経を使う感覚に近い。前回の受診から、それからどうですか。診察の初めに先生から聞かれることだ。正直、何を言えばいいのかわからない。

 普段は家とバイトの往復で何をする訳でも、何か起こる訳でもない。だから何もありませんとは言えない。それに、受診するのにお金も払っているし、何より先生は初診からずっとお世話になっている。一番病状が悪かった時でも真剣に向き合ってくれた唯一の先生だ。

 会計窓口から名前を呼ばれて診察代を払い、病院を出る。

 次は薬を貰うのに薬局に行かないといけない。駐車場で待ってもらっている家族の車に乗り込む。そして薬局に向かって車は駐車場を出た。

 薬局の窓口で処方箋を出して、準備ができるまで車の中で待つ。

 この時間が今の生活の中で一番辛い時間だ。

 家族に送ってもらわなければ病院にも行けない。同級生は車の免許も取って自分一人で病院にも、行きたい所にも行っている。

 少し前までは家族も気を遣って話題を振ってくれていたが、上手く言葉を返せなかった。その気遣いに申し訳ない気持ちになり、惨めな気持ちになってくる。家にいる時もその気持ちを引きずって話ができない時期があり、それからは無理に話を振ってくることも無くなった。それもまた気を遣わせてしまい自分が情け無かった。

 薬局で処方箋の内容と先生からどんな話をされたか、病状の変化と薬の副作用の確認をされる。


「はい、わかりました。副作用も特にありません」


 いつもと同じ返事をして薬を貰う。もちろんこの薬にもお金はかかる。

 支払いを終えて今日の予定は終わり。後は家に帰るだけだ。

 車の助手席に乗って帰路に着く。

 国道の交差点を右折待ちしていると、向こう側から部活帰りのジャージを着た中学生が数人並んで、自転車をゆっくり漕ぎながら横断して来る。

 とても仲良さげに笑いながら過ぎ去って行った。

 その姿を見て僕は懐かしさの後に激しい動悸に襲われた。

 最近は落ち着いてきたと思っていたのに。幸い、運転中の家族には気づかれていない。

 ゆっくりと深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。そして気づかれないように、貰ったばかりの薬を静かに取り出して、ドリンクホルダ―に置きっぱなしだったぬるいお茶で胃に流し込む。

 薬が効くまで少し時間がかかる。だけど知っている。薬が効くまでにフラッシュバックが起こり、吐き気と息切れ、目眩が訪れる。自分では制御の出来ない事象だ。

 薬が効いて落ち着くまで、僕は、僕がこうなってしまった出来事を否応なしに思い出してしまう。数秒ごとに、瞬きをする度に鮮明になり、今にでも視界が当時の出来事に塗り潰されて現実が過去に置き換わる。現実の感覚が頭の中からこぼれ落ちて、自分の意識だけが体の中から追い出され、遥か後方に沈み込んでいくような感覚。

 僕がこうなってしまった出来事。

 先生にも家族にも、誰にも話したことがない。

 心の中でひた隠しにしてきた過去。

 全ては中学二年生の五月が始まりだった。

 あの人たちの犯した罪と、それ見ていただけの僕への罰。

 苦々しくも、けして消えない傷跡を残した僕の初恋の人。

 なぜ、あの人たちは、あの場所で、あんなことをしたのか。今ならわかる気がする。

 きっと、あれも一つの恋の完成形だったのだ。たとえそれが周りに毒を撒き散らしながら、汚すことで欲を満たし、破滅へ向かう結果だったとしても。

 それとは無関係に僕の心が壊れたとしても。

 わかりきった結末が待っていたとしても、止まらなかった。

 だから言い切れる。

 僕の初恋は、初恋と呼ばれるような綺麗なものではなく、もっと別の醜い感情だったと。

 今なら、あの感情に名前をつけることができるかもしれない。


 ※


「皆さん初めまして。今日から一ヶ月、教育実習でお世話になります、立花みのりです。よろしくお願いします」


 朝、担任の箕輪先生と一緒に教室に入ってきた立花先生は朝の会の時間を使って自己紹介の挨拶を始めた。黒板には『立花みのり』と達筆に名前が書かれている。


「ちなみに私も八年前は、この中学校に通っていました。さらに言うと、この教室で授業も受けていました。一ヶ月という短い期間ではありますけど、お互いに思い出に残るような一ヶ月にしたいと思います。みんな気軽に声をかけてね」


 そう言って立花先生は自己紹介を終えると教卓から降りて、箕輪先生と入れ替わる。


「前から伝えていた通り、今日から立花先生は一ヶ月間、俺についてもらうから。数学の授業にも参加するから、みんなよろしくな」


 箕輪先生からも簡単な説明がされると、いつものように朝の会が始まって出席確認と連絡事項の確認がされる。今日は欠席者もなく、連絡事項は立花先生のことだったが、それも朝の会が始まる前に終わった。

 前もって今週から教育実習の先生が来るのは知らされていたし、特に驚きはなかった。

 朝の会が終わると先生たちは教室から出て行く。扉が閉まると、今までの静けさがウソのように騒ぎ始めた。

 僕は一時間目の授業の教科書を机の上に出して、暇潰しにペン回しをする。昨日の夜、動画で観た難しい技の練習をしていると後ろの席から肩を叩かれた。

 驚いてペンを落とした僕は、床に落ちたペンに手を伸ばしながら後ろの席に顔を向ける。


「なあ敬太、さっきの立花先生めっちゃ可愛くね⁉︎」


 この前の席替えで、運良く僕の後ろ席にきた友達の稲富徹が興奮しながら肩を叩いてきた。普段はマトモなのだが、徹の悪いクセが朝から全開だ。徹が人一倍、そういうことに興味津々なのは一年生の頃から知っているから、こうなるのも仕方がないと言えば仕方がない。でも、朝からはやめて欲しい。僕も周りから同類だと思われたくない。


「徹さあ、少し落ち着きなよ。まだ朝だよ」

「バカお前、あんな可愛い人が先生だぞ。まじでアイドルが来たと思ったわ。てか、今俺のアイドルになったまである」

「やっぱ徹って頭おかしいよ。病院行ってきた方がいいと思う。ほら、丁度お迎えが来たみたいだしさ」


 タイミングよく遠くから救急車の音が聞こえてきたので窓の外を指差す。


「うぜー、サイレンなってお迎え来たとか言うなよ。バレちまったと思うからよ」

「でも本当に気をつけた方がいいよ。この前のとか正直、結構引いた」

「あれは俺も調子に乗ったというか……」

「徹の友達付き合いに口出すつもりはないけど、少しは考えた方がいいよ?」


 たまに徹は、調子に乗ってセクハラじみた言動をする時がある。徹の交友関係はかなり広い。それこそ顔や性格、成績や育ちで対応を変えることがないおかげなのだが、それが裏目に出ることもある。それがついこの間のこと。

 徹が調子に乗るのは、大概は同じクラスの不良組に合わせて、おちゃらけているときだ。

 女子のスカートを借りて廊下を走り回ったり、不良組と一緒に女子バレー部の着替えを覗いたり、徹と友達じゃなかったら不良ともども警察に通報している。

 いや、もういっそ匿名で写真か動画付きで証拠を揃えて通報した方がいいのでは?


「徹と敬太、何の話してるのー。私たちも混ぜてー」

「うお! ビックリした。後ろからど突くなよ。髪崩れんだろ」

「別によくない? その髪型ダサいし」

「最上、お前は俺を怒らせた……」

「何、また何かのアニメのセリフ? 厨二病とか寒いからやめた方がいいよ」


 徹の後頭部を玉突きのように弾いたのは、今年から同じクラスになった最上綾さんだ。

 最上さんは肩まで伸ばした髪を揺らしてカラカラと笑う。

 徹と最上さんは小学校が一緒だったらしく、それなりに仲が良かったと徹から聞かされた。このように、徹は最上さんを含めた女子とも仲が良い。

 初めは、何でこんなセクハラ野郎が女子と仲が良いのか疑問に思ったが、友達になってしばらくしてわかった。というよりも、思い知らされた。

 徹は、その言動に引くことが多いのだが、とにかく顔と性格が良いのだ。顔は、まだあどけなさが残っているもの、堀が深く、目ははっきりとした二重、鼻梁も高く通っているし、着実に青年の顔立ちに近づいている。加えていつも笑顔だし、怒った顔を見たことがない。

 奇行の多さに忘れがちだが、徹は男女問わず好かれている。友達としても、異性としても。

 何より、どんくさい僕とも仲良くしてくれて、友達だと言ってくれる。

 そんな徹を嫌いになれるわけがない。

 最上さんも、そんな徹が好きだから遠慮なく接している。もちろん彼女は後者として。

 徹と最上さんがじゃれ合っていると、今度は横から声をかけられる。


「おはよう、敬太くん」

「おはよう、西野さん」


 西野愛さん、去年から同じククラスで仲良くなった。去年は話したことがなかったが、二年生になってから仲良くなった友達の一人だ。彼女とは最上さんを通じて仲良くなった。二人は部活の場所が体育館で一緒だったこともあり、同じクラスになったのをきっかけに仲良くなったらしい。最上さんは女子バレー部で西野さんは女子バスケ部。女子バスケ部は東北大会に出場するくらいには強豪で、西野さんは一年の時からベンチ入りしている実力者だ。

 普段は落ち着いている西野さんも話題は、立花先生のことだった。


「立花先生、すっごい綺麗な人だったね」

「そうだよね。なんか、上手く言えないけど、お姉さん系の雰囲気だよね」

「そうそう、あんなお姉ちゃんがいたら良いなー、って感じの」

「うちのお姉ちゃんも立花先生のみたいだったら良かったんだけど」

「えー、話だけだけど敬太くんのお姉ちゃん楽しそうな人じゃん。私、一人っ子だからいるだけで羨ましいよ?」


 そう言う西野さんと肩を揺らし合いながら話をする。

 教室の他のグループに耳を傾けると、みんな立花先生の話題で持ちきりだった。

 女子は、早速何を聞こうかと話し合い、男子は言うまでもなく下世話な話をして盛り上がっていた。そこにチャイムが鳴り、一時間目の国語の先生が教室に入って来る。


「またあとでね」


 そう言って西野さんと最上さんは自分の席に戻っていた。

 先ほどの騒がしさは徐々に収まっていき、授業が始まる頃には極一部を除いて静かになっていた。


「敬太っ、次の授業の宿題写させて……!」


 後ろの席から祈るような声が聞こえてきたが空耳だろう。


 ※


 気がつくと時間は過ぎていて、四時間目の数学の授業に入っていた。

 教壇では箕輪先生が公式を書いて問題の解き方を説明している。

 教室の後ろでは立花先生が、わからなそうにしている生徒に公式の説明をしていた。


「じゃあ、教科書に問題があるから解いてみ。あとで黒板に書いてもらうから」


 箕輪先生が、手を叩くと皆んな一斉に問題を解き始めた。教室中からシャーペンを走らせる音と、解けなくて唸る声が聞こえてくる。


「うーん」


 僕も思わず声に出してしまった。元々、あまり数学は得意ではない。一年の時もつまずきがちだったので、二年生になってからはついて行くのでやっと。帰って復習をして何とか解けるレベルだ。

 頭を抱える僕をよそに、後ろの席からは順調にシャーペンを走らせる音が聞こえてくる。そのうちペンを置いてあくびの音まで聞こえてきた。

 ほとんど赤点教科ばかりの徹だが、なぜか数学だけできる。本人によると勘で解いているという、まったく数的推理とは真逆の返事だった。

 実際に教えを乞うとわかりやすい説明で、先生の説明よりもわかりやすい時がある。だが、途中式を飛ばしていきなり答えを書き始めることがあるので、そこは直してもらいたいと思う。それで毎回テストで減点されて嘆いているのだから。

 これ以上時間をかけても解らないし、運悪く箕輪先生から指名されれば黒板に解答を書かなければならない。

 やむを得ず、後ろを振り向こうとしたら立花先生が立っていた。いつから見ていたのだろうか、立花先生は手に持っていたバインダーを脇で挟み、膝に手をついて前屈みになって顔をつき合わせる。


「突然ごめんね。後ろから見ていたけど悩んでそうだったから、大丈夫?」

「あ、その、この問題が解らなくて」

「うん、この問題はねー」


 立花先生は、バインダーに留めていたシャーペンを抜き取ってノートに目を落とす。

 その時、肩甲骨あたりまで伸ばされた髪が流水のように肩口からこぼれ落ちた。

 立花先生は何気なく髪を耳にかけ直すと、形の整ったきれいな耳が現れる。

 ふわりと柑橘系の上品な香りがした。

 僕は思わず問題に目を落とす。いつも体育の後に教室中に充満するような匂いではなく、嗅いだことが無い匂いに頬が熱くなる。もう一度立花先生の顔を盗み見る。

 確かに、徹が言う通りアイドルと言われても納得できるくらい容姿が整っていた。艶のある黒髪に悩ましげな眉、全体的に顔のパーツ一つ一つが端正だった。

 立花先生はノートに解き方を書いて教えてくれたが、内容のほとんどが頭の中から吹き飛んでいた。


「この問題の解き方はこうするんだよ。一度解ければ簡単だから次の問題もやってみてね」

「はい、ありがとうございました」


 立花先生は淡く微笑むと教室の後ろに戻って行った。

 微かに残り香が鼻についた。


 ※


 給食の時間になると机をくっ付けて四人の班を作る。給食係がワゴンを教室に運んでくると、それぞれがトレイとお椀を取ってよそってもらう。

 全員分の配膳が終わると席について、今日の日直が、いただきますと言って食べ始める。

 今日は、というよりも今日から立花先生も加わる。

 立花先生は日替わりで各班に混ざる予定だ。今日は最上さんのいる班に混ざっている。


「えー、立花先生も箕輪先生が担任だったの⁉︎」

「うん、一年の頃から三年間担任の先生だったんだよ」

「すごーい! じゃあ箕輪先生って十年くらい居るってことなんだ」

「ね、すごいよね。普通は異動とかしちゃうんだけど――」


 早速、立花先生と打ち解け合った最上さんは、給食そっちのけで色々と質問をして

いた。


「へー、噂に聞いてたけど立花先生がいた頃はうちって荒れてたんだ」

「窓ガラスとか普通に割ってる子とかいたし、髪の毛金髪に染めている子とかもいたよ」


 話の内容が気になって聞き耳を立てながら箸を進める。今日の献立は、鮭の塩焼きとご飯、豆腐の味噌汁とデザートに牛乳プリン。

 教卓で一人で食べている箕輪先生は、食べるのが早く牛乳プリンに紙スプーンを刺して食べながら言う。


「最上ー、箸止まってるぞー。あと給食中は静かに食べろよー」

「はーい、わかりましたー」


 怒られちゃった、と肩をすくめて立花先生と笑い合う最上さん。

 箕輪先生はそれだけ言うと手を合わせて、ごちそうさまと呟いて食器を片付けて教室を出ていく。と思ったら顔だけ覗かして西野さんの名前を呼ぶ。


「西野、昼休みになったら職員室に来なさい。ニ年の練習表も渡すから」

「っ、はい。わかりましたっ!」


 西野さんは口に入れた物を飲み込みながら力強く返事をする。普段は穏やかな西野さんからは想像ができない声に一部の人が目を見張る。

 箕輪先生は女子バスケ部の顧問でもあり、西野さんは部活になると人が変わったように溌溂になる。今みたいに部活中でなくても関係することであれば周りを気にせず声を張れるように。


「それじゃあ、あとは立花先生よろしく」

「はい、わかりました」


 今度こそ教室を出て行った箕輪先生の足音が聞こえなくなると、少しずつ騒がしくなってくる。

 どうしても箕輪先生がいると、みんな緊張というか萎縮してしまう。性格は水を打ったように穏やかなのだが、逆にそれが怖いと皆んな言っているし、他のクラスからも言われている。怒った姿が想像できないから逆に怖い。

 僕は、そんなことないと思っているが皆んなはそう思っているらしかった。

 顔だって別に強面とは対照的に柔らかい面立ちだ。


「立花先生、箕輪先生って昔からあんな感じで怖かったの?」


 最上さんから質問された立花先生は、あごに手をやって悩むように考え込む。


「箕輪先生って不器用で感情を出さないだけで、そんなに怖くないよ。ああ見えて優しいし」


 そう答えた立花先生の顔は、微笑みを浮かべながらも、生徒でも先生でもない顔をしていたように見えた。


 ※


 給食を食べてからは、あっという間に時間が過ぎる。昼休みは四人で集まって話をしているといつの間にか終わっていて、午後の授業も船を漕ぎながらいると授業終わりのチャイムが鳴っていた。

 帰りの会も終わり、放課後になると女子二人は部活に向かった。


「敬太、今日時間ある? 新しいゲーム買ったから来ない?」


 徹がカバンに教科書を詰めながら聞いてくる。僕は少し悩んで、窓の外を見て小雨が降っているのに気が付いた。


「今日はやめとく。雨降ってるし」

「えっ、まじかよ。傘忘れたし……」


 いつも自転車で学校に通っているが、雨が降った時は車で迎えに来てもらう。去年までは小雨ぐらいなら濡れながらでも帰っていた。二年生になってからは、お姉ちゃんが大学四年生になって家にいる時間が増えたから迎えに来てもらうようにしている。

 僕は家から学校の距離が結構あるが、徹は歩って十分くらいの通学距離だ。だから帰りによく遊びに行っている。


「ゲームはまた今度だね」

「そうだなぁ。じゃあまた明日」

「うん、また明日」


 カバンを肩に引っ提げてぶらぶらとした足取りで徹は教室を出て行く。

 僕も置き勉がないか確認して教室を出る。

 昇降口には、学校に一台だけある公衆電話並んだ生徒の列が出来始めていた。幸いにも並んでいるのは十人くらいでホッと胸を撫でおろす。ひどい時は昇降口のホールが折り返しの列で埋もれる時があるくらいだ。

 並んでしばらくすると順番が来てお姉ちゃんに電話をかける。後ろを見ると並び始めた時の倍になっていた。

 呼び出し音が五回鳴ってお姉ちゃんの声が聞こえる。声色的に眠っていたようだ。


「もしもし、お姉ちゃん? ……うん、迎えに来て欲しいんだけど。体育館側のところ。……わかった、待ってるから」


 手短に迎えに来て欲しいと伝えると、欠伸をしながら返事をするお姉ちゃん。

 電話を切ってまっすぐ体育館側の駐車場に向かうと、他にも迎えを待ってる生徒がちらほらといた。僕は体育館の横の扉の階段に腰掛けて迎えを待つ。

 体育館の中からは部活動に勤しむ激しい声が聞こえる。特に女子バスケ部の掛け声が聞こえてきた。


「皆んな声でてないよ! 大会近いんだから気合い入れてくよ!」

「はい!」


 三年生の掛け声に下級生が大きな返事をする。僕からすれば十分に声が出ていたと思うけど、まだまだのようだ。

 ちなみに僕と徹はパソコン部に所属している。原則、何かしらの部活動には入らないといけないので、比較的活動が自由なパソコン部に入部した。パソコン部は、運動部に入らず、活動の多い文化部にも入らない生徒が入部する部活だ。外部のクラブに所属しているという、一部の例外を除いて。

 だから、見ている分には少しだけ羨ましかったりする。先輩から指導や同級生との連携、後輩との居残り練習。今は大変かもしれないけど、大人になってから振り返ればいい思い出になっているのだろう。だからと言って、自分が運動部に入っている姿は想像できない。

 僕の憧憬が雨音といっしょに流れていく。

 体育館からは聞き馴染みのある声と、ボールが床を打ち鳴らす音と振動が伝わってくる。


「一年! 足動いてないよ。もっと重心落として、周りよく見て」

「はい!」


 声の主は西野さんだった。教室にいる時とは違う姿に毎回驚かされる。

 今日は一年生の指導でマッチアップの練習をしていた。西野さんと向かい合う一年生もドリブルをしながらパスコースを探す。

 だが一瞬の隙を見逃さずに西野さんの手が向かい合っている一年生の手元からボールを奪う。あの一年生も、中学で始めたばかりの動きではないので、おそらくミニバスに所属していたのだろうが、中学で揉まれた西野さんの方が一枚も二枚も上手だ。

 そうやって女子バスケ部の練習を見ていると、突然駐車場からクラクションが鳴って飛び上がった。駐車場には黒のスズキ・ジムニーが前向きに止まっていて、フロントガラス越しにお姉ちゃんの顔が浮かび上がる。肩を縮ませながら助手席に乗り込む。


「クラクション鳴らさないでよ。前も言ったじゃん」

「気付かないあんたが悪いんでしょ」


 いつものように注意するとお姉ちゃんは悪びれもせずに欠伸をする。よく見ると服装もヘタれた白シャツに高校生の頃から履いているジャージ。寝巻きのまま運転してきたようだ。

 お姉ちゃんは前に乗り出して体育館の中を覗き込む。


「好きな子でも見てたの?」


 遠慮もなしに聞いてくるお姉ちゃんの顔は気色ばんでいる。こう言う顔をする時は、大概ろくなことがない。


「違う、友達」

「ふーん」


 と、わざとらしく言う。

 僕の答えに納得しなかったお姉ちゃんの追求は終わらない。


「女バス? 女バレ? どっちよ」

「……女バス」

「ほーん」


 今度は体育館の中で練習をしている女子バスケ部の中から一人を指を指して、「あのショートの可愛い子?」とピンポイントで西野さんを指した。

 何でこう勘が良いのだろうか。


「別に誰だっていいでしょ。早く行こ。皆んな見てるから」

「はいはい、わかりましたよーっと」


 僕がそう言うと、お姉ちゃんは聞き出しを諦めてハンドルを切り返す。駐車場の砂利を踏みしめながら駐車場を出て道路に出る。


「で、告白はしたの?」

「しつこいよ、まだしてないから!」

「まだ、告白はしてないんだねー」

「……」


 今後、お姉ちゃんの前では余計なことは言うまいと心に誓った。

 同時にお姉ちゃんには勝てないと改めて思い知らされた。


 ※


「立花先生もバスケ部だったんですか」

「そうだよ」


 立花先生が来てから数日経ち、今日は西野さんのいる班で給食を食べていた。

 今は西野さんが立花先生が在学中、女子バスケ部に所属していたことを聞き出したところだった。


「まあ、私の頃は今みたいに強くは無かったんだけどね」

「でも立花先生、地区選抜に選ばれたんですよね」

「うん、ベンチだったけどね」


 立花先生の声色からは謙虚さは一切感じられなかった。


「今でも続けているんですか?」

「一応ね。大学のサークルに入っているけど、ほとんど遊びだよ」


 立花先生はそう言っているものの、大学まで続けているのだから、やはりある程度の実力があるか、よほど好きなのだろう。そうでもなければ大学までは続けられないだろうと思う。

 実際にうちのお姉ちゃんは、高校までテニス部に入っていたけど大学までは続けなかった。元々、お姉ちゃんは戦績もやる気もなく、友達付き合いで入っていただけだが。

 普通に大会もサボっていたし。

 勝手に自分が生徒の姉と比べられていることなど想像にもしないように、立花先生は西野さん含めて楽しげに話をしている。


「立花先生、良かったら部活来てくださいよ」


 西野さんと一緒の班の女子バスケ部の子が立花先生を部活に誘う。

 立花先生は少し思案する。


「わかった。あとで箕輪先生に確認してみるね」


 給食が終わった後、お昼休みが終わる頃に立花先生が教室に来て、部活動に参加できることを知らせに来た。


 ※


「うわー、懐かしー!」


 体育館の中から立花先生の感嘆の声が雨音に混じり漏れ聞こえてくる。

 立花先生はスーツからジャージ姿に着替えて、いつでも動けるように簡単な柔軟をして身体を伸ばしている。生徒が着るようなジャージではなく、雑誌で見るようなフレキシブルな有名スポーツブランドの上下の揃い。

 やはり日常的に体を動かしているのか、やけにさまになっていた。

 順々に生徒が挨拶をして体育館に入ってきて、部活動の準備を始める。ボール出しからリングの準備、カラーコンやラダーを広げ、アップに入る。

 立花先生はアップから生徒に混じって入り、一緒に練習を始めた。

 ドリブルやパス、シュートの練習を順番にこなしていく。

 今日はテスト前は最後の部活ということで、後半は試合を中心に回していた。

 試合は紅白戦で、チームバランスが悪くないように三年生が調整していく。ちなみに西野さんは一年生が多い白組に配置される。白いビブスを着てコートを駆ける姿は、素人目からも洗練されていた。

 西野さんが入れ替わりでコートから出て水分補給をしている所に立花先生が歩み寄る。


「西野さんってコートに入ると全然雰囲気違うね」

「え、そうですか?」


 西野さんは傾けていた水筒を下ろす。


「うん、声も出ているしカッコいいよ」

「ありがとうございます」


 ペコリとお辞儀をして謝意を表す姿も誠実さの結晶だった。

 アドバイス込みで西野さんと話しをする立花先生。それを頷きながら聞く西野さんの並びは、確かに先生と生徒に見えた。


「おーい、ちゃんとやってるかー」


 間延びした声で体育館に入って来たのは箕輪先生だった。

 試合が一瞬止まるも、箕輪先生は片手を払いプレイを続行させる。

 ダラダラとした足取りで立花先生の隣に並ぶ。

 西野さんは箕輪先生が来るのを察し、他の場所に移動して白組のチームメイトと試合を観ていた。

 ボールの弾む振動とコートを駆け回るシューズのキュッと捻る音、試合に白熱する声が一際大きくなったような気がした。そんな中でも箕輪先生と立花先生の話し声が聞こえる。


「皆んなやる気あって良いですね。私の頃とは大違い」


 懐かしむ立花先生とは裏腹に、箕輪先生が頭をガシガシと掻く。


「あー、あん時はしょうがないだろ。学校というか、地区全体の治安悪かったし」

「ウチはとりわけ酷かったですもんね。……小鳥遊さんとか」


 箕輪先生は今までに聞いたことがない優しい声音で語りかける。


「ほんと、立花は立派になったよ。腐らずにやって来られたんだから」

「そんなことないですよ、箕輪先生の指導のおかげです」

「……そうか」


 最後まで二人の会話を聞くことができずに、僕は話し声が聞こえない場所に移動した。

 場所を変えてからすぐにお姉ちゃんの車が駐車場に入って来る。

 僕はクラクションを鳴らされる前に助手席に乗り込む。

 今日は就職面接の終わった足で迎えに来てくれたお姉ちゃんは、似合わないスーツ姿に身を包んでいた。見た目は普段よりはマシに見えても中身は変わらない。この前と同じように体育館の中を覗き込んで口の端をニヤリと吊り上げる。


「どれどれ、敬太の好きな子は、……箕輪じゃん」

「え」


 急に低い声を出したお姉ちゃんに驚いて目を向けると、痰を吐き出す仕草をする。


「あー気分悪りぃ。帰りゲーセン行くべ」


 とても就職面接終わりの人間が言う内容ではない。お姉ちゃんがここまで口にするのは久しぶりに聞いた。普段、ガラの悪いお姉ちゃんでも冗談以外で人の悪口を言ったりはしない。それなのに、箕輪先生を見ただけで機嫌が悪くなり、露骨に態度に出したのは異様だった。思わずその発言が気になり、お姉ちゃんに問いかける。


「お姉ちゃん、箕輪先生のこと知ってるの?」

「知ってるも何も中学の担任だよ」


 何気なしに言うお姉ちゃんの口からポツリと言葉がこぼれ落ちる。


「敬太の好きな子大丈夫かな……」


 僕はその言葉の意味を理解できなかった。


「何かあったの?」

「あ?」


 かろうじて、それだけ言葉にできた。

 お姉ちゃんは面倒くさそうにため息を吐く。


「何かあった訳じゃないけど、色々とあんだよ」

「意味わかんないんだけど」

「うっさい。あんたが気にすることじゃないから。早くシートベルト付けろ」


 僕の質問を遮って、お姉ちゃんは車のエンジンを吹かしながら雨路を走らせた。


 ※


 家に着いた僕は、夕飯を食べている時も、お風呂に入っている時も、お姉ちゃんの発言が気になってしょうがなかった。あの言葉を何度も咀嚼して、核心に近付きながらも、確証を持てずにいた。

 夜の九時前、リビングでテレビを見ているお姉ちゃんの隣に座る。


「お姉ちゃん、聞きたいことあるんだけど良い?」

「悪いけど、箕輪のことなら教えらんないよ」


 もちろん、箕輪先生のことも聞きたいけれど、今確認したいのは他の人物のことだ。

 思い切ってその人物の名前を告げる。


「お姉ちゃんの同級生で立花みのりって人居なかった?」


 お姉ちゃんは立花先生の名前に反応して、テレビから視線を外して僕の顔を見る。


「知ってるけど、逆に何で敬太があいつの名前知ってるの?」


 瞠目しているお姉ちゃんに対して、僕は立花先生のことを話す。連休明けから教育実習で来ていること。自分のクラスの担任でもある箕輪先生についていること。立花先生が中学校の卒業生で三年間、箕輪先生が担任だったこと。

 最後に、立花先生からお姉ちゃんの名前が出たことを話すと、お姉ちゃんは天井を仰ぐ。


「マジかー、あいつ先生になんのかよ。しかも箕輪についてるって」


 お姉ちゃんは一人ごちると、「教えてやるから部屋来な」と言ってリビングから出た。お姉ちゃんの後ろについて部屋に入る。久しぶり入るお姉ちゃんの部屋は、相変わらずゴミで埋め尽くされていた。この前、片付け手伝ったのに、と内心肩を落としている僕をよそにお姉ちゃんはクローゼットの中から段ボールを引っ張り出す。


「アルバムアルバム、どこにしまったかな。……あった」


 段ボールの中からアルバムを取り出して表面の埃を払い落とす。表面にはウチの中学校の名前が金の箔押しで印字されている。中を開くと今と変わらない制服に身を包んだ生徒の写真が無数に納められていた。お姉ちゃんは手早くページを捲り、クラス紹介のページから立花先生を探す。それとは別に僕は一枚の写真を見て笑いが込み上げて来た。


「どったの」


 隣で急に笑い出した僕を睨めつけるので、一枚の写真を指差す。


「お姉ちゃん、みっけ」


 そこには中学時代のお姉ちゃんの写真が納められていた。金髪で眉毛は無く、睨みつけるような姿。一目でお姉ちゃんだとわかった。


「今さらながらヤバいな」

「本当に、よくこれで大学まで行けたよね」


 隣に座っているお姉ちゃんと写真を見比べる。完全に更生とまでは行かないまでも、金髪から茶髪に、眉毛は青では無く、化粧で描いた左右対称の眉。服装は昔から変わらないが、外に出る時の雰囲気は全体的に大人っぽくなった。

 段ボールから飛び出している紙を引っ張るとそれは成績表で、『1』ばかりが並んでいた。


「おまっ、人の成績表見んなよ」


 そんな風に脱線しながら、思い出を呼び覚ますように色々な話しを交えてページを捲っていく。そして目的の人物を探し出す。


「これが立花。本当に間違いない?」

「うん、この人。面影がある」


 中学生の立花先生はメガネで髪を結っているものの、どことなく面影を残していた。

 さて、とお姉ちゃんは口にして話しを切り出す。


「敬太、今から話すこと誰にも言うなよ」


 僕は無言で頷く。


「まずな、あたしが中学の時に、ある噂があったの」


 お姉ちゃんは一瞬躊躇ったが、力強く言葉にする。


「箕輪が女子生徒食ってるって」

「え」


 ある程度の予想はついていたものの、直接的で生々しい表現に全身が粟立つ。


「ごめん、ウソ。いや、ウソじゃないんだけど正確じゃなかった」


 お姉ちゃんはそんな僕を見透かしたように言葉を選んで言い直す。


「正しくは箕輪と立花が付き合っているって噂」


 言い直したとしても、先生が生徒に手を出したという事実は変わらなかった。


「結構有名な噂だったんだけど、聞いたことない?」

「うん。初めて聞いた」


 僕は首を横に振る。


「まあ、十年近く前のことだからな」


 お姉ちゃんは身体を伸ばして一息吐く。聞いている僕は息が詰まるような思いで、頭の中から言葉を捻り出す。噂、お姉ちゃんはそう言っていた。


「でも噂なんでしょ? 証拠というか」

「あるんだよ、それが」


 僕の言葉をバッサリと切ると、今度はアルバムの別のページを開く。


「これ、修学旅行の時の写真。後ろに箕輪と立花が手を繋いでいるのわかる?」


 そこには数人の女子が店の前で並んで写っていた。その女子達の中には立花先生はいなかった。お姉ちゃんが指差すのはその背後。人混みに紛れて見覚えのある後ろ姿と、手を繋いでいる相手に横顔を向けて嬉しそうに語りかけている女子生徒。


「見間違いとかじゃ」


 その可能性もゼロではなかった。たまたま似たような制服の学校が近くにあって、その人が父親と手を繋いでいたとか。頭の中でいくつもの想像が湧き起こる。

 そうだ、きっと見間違いだ。他人の空似とか、制服に見える洋服とか、そう考えれば説明できる。先生と生徒でそんなことあるわけがない。

 だが無慈悲にもお姉ちゃんは、決定的な一言を告げる。


「この時、箕輪と立花、二人で旅館に戻ってきたんだよ」


 僕は何も言えず、ただ黙ってお姉ちゃんの話を聞いていた。


「それにあたしのダチが同じ班だったんだけど、一人だけ別行動だったのよ。立花のやつ」


 お姉ちゃんはアルバムを閉じて段ボールに仕舞う。もう僕にも、お姉ちゃんにも思い出が詰まったアルバムは必要なくなった。段ボールをクローゼットに押し込んで、閉める。


「戻ってきた時は、班から逸れたとか言っていたらしいけどね」


 ゴミを足で避けながら椅子に腰掛けて足を組む。その顔は困惑と嘲りで歪んでいた。


「まさか箕輪のこと追いかけて、とかじゃないと思うけど。まあそんな噂があったってこと」


 話はこれでお終い、と肩をすくめる。僕はその場から動けず、立ち尽くしていた。


「まさか箕輪がまだいるとは思わなかったけど、あんま信用しない方が良いよ。あいつ生徒に対してテキトーだから」


 ※


 明日から中間テストが始まろうとしているのに、僕はあの日から気持ちを切り替えられずにいた。


「みのり先生!」


 教育実習に来てから立花先生はすっかり教室の中に溶け込んでいた。

 特に女子からは、気軽に名前呼びをされたり、授業や学校以外の相談をされたり、はたまた恋愛相談までもされるようになっていた。

 テスト前最後の授業が終わり、帰りの会でテスト期間の注意を受ける。原則、今日からテスト期間明けまで部活動は禁止。学校に居残るのも禁止で、生徒は自宅で勉強するようにと箕輪先生から伝えられる。僕は改めて箕輪先生を観る。

 今年で四十代になったはずだが、年齢よりも若く見える。学校にいる時はジャージを着ているが、着る服によっては大学に通っていそうに思える。覇気が感じられない口調だが、威厳がないわけでもない。他の先生のように感情を昂らせない。それが生徒からは、怒りの沸点が読めないと怖がられている要因でもある。

 何よりも箕輪先生の左手の薬指には指輪がされている。結婚もしていて子供が二人いると、学期の初めに自己紹介で言っていた。それに、箕輪先生が子どもの幼稚園の送り迎えをしている姿を見たと最上さんが言っていた。

 僕は良くも悪くも箕輪先生から酷い扱いを受けたことがない。だからといって特別な扱いも受けたことがない。だから、目の前で話しているこの人が、お姉ちゃんの言っていたような大人には思えなかった。

 帰りの会も終わり、皆んな帰り始める。


「明日からテストだー!」


 昇降口に向かいながら徹は歓喜の声を上げる。徹の場合は、テストの出来がいいからというよりも、早く帰れてゲームをする時間が増えて喜んでいるのだ。


「敬太―、勉強教えてー」


 去年からの誘い文句にも慣れた。徹の勉強はもって一時間。それ以降はゲームをしてばかりだ。頼られるのに悪い気はしないけれど、徹には一度痛い目を見てもらった方が徹のためになると思う。


「ごめん、今日はちょっと用事があって」

「んだよつれないなー。最近付き合い悪いぞー」

「テスト期間終わったら埋め合わせするから」


 ごめん、と両手を合わせてから、そっと耳打ちする。


「今度遊ぶ時、最上さんも呼ぶからさ」

「おまっ、余計なことすんなよ」


 徹は顔を真っ赤にさせて後ろに飛び退くと、周りの生徒から変な目で見られた。

 下駄箱から靴を取り出して履き替える。


「じゃあね、徹」

「おう」


 駐輪場までは一緒に行き、そこで別れる。僕がヘルメットを被って、カバンを前カゴに押し込んだところで、校舎から渡り廊下を歩いて体育館に入っていく人影が見えた。

 最近は見慣れた二人組。箕輪先生と立花先生だった。

 どうして二人が体育館に向かったのだろうか。部活動は今日から原則禁止。帰りの会で箕輪先生自身が言っていたことだ。もし仮に、女子バスケ部だけが特別に活動ということなら、西野さんが知らないわけがない。すでに西野さんは女子バスケ部全員赤点回避、という目標を先輩から科されており、一、二年部員を集めて誰かの家で勉強をしている。テスト勉強に誘ったら、本人から直接聞かされたので間違いない。

 ならなぜ、二人は体育館に向かったのだろうか。今日は天気が良く、吹く風も心地よいのに、妙に心がさざなみ立った。僕はヘルメットを外してハンドルに引っ掛けて二人の後を追う。足音を立てないように砂利の駐車場を横切り、体育館の入り口を覗く。二人は奥の体育館倉庫に入って行き、倉庫の扉を閉めた。その時、立花先生の白い手がくっきりと見えた。

 僕は引き寄せられるように体育館の外周を回り、二人のいる体育館倉庫の裏手に来た。風通しも悪く、湿気のせいか澱んでいるように感じる場所だった。植え込みの紫陽花の鮮やかな色合いすらも場違いに感じられた。

 この場所は校舎からも、駐車場につながる道路からも見えない場所にあった。だから徹たちが覗きの場所として男子の一部に教えていた。

 徹の話だと倉庫の採光のための丸ガラスの壁は右から四番目の一番上の所から中が見える。

 僕は恐る恐る丸ガラスに顔を近づけて中を覗く。


「えっ」


 そこで僕は二人が抱き合っている所を目の当たりにした。

 声は聞こえないけれども、二人は睦合う。お互いに身体を求めて手を這わせる。箕輪先生の手が立花先生の胸に触れて、ブラウスのボタンを上から外していく。そのまま手は胸に埋もれていき、乱れたブラウスが蠱惑的に揺れる。

 箕輪先生の手が胸から外されると一緒に黒い下着が覗かれる。

 僕は二人の交わりに釘付けになり、その場から離れることができなかった。

 頭の中では警鐘が鳴り響く。

 このままでは決定的なズレが生じる。

 そう理解しながらも、足を動かすことができなかった。

 倉庫の中での情事は続いている。互いの息遣いが聞こえてきそうなほどに、二人は激しく求め合っていた。箕輪先生の手が上から下へ、身体のラインをなぞりながら下りていく。ついにその手が立花先生の秘部に触れた。


「でさー、愛ちゃんはどうなのよ」

「そうですよ。愛先輩の話も聞きたいです!」


 無人の体育館に女子の話声が響く。

 聞き覚えのある声に僕の意識は現実に引き戻された。


「私はそんなんじゃ。ただ、少し気になってるだけで」

「ホントかなー」

「ホントですかねー」


 茶化し合う笑い声に、少し拗ねた声。いつも意識していた声もすべてこぼれ落ちていく。

 二人は乱れた服を整えて体育館倉庫の扉を開ける。


「お前ら、今日から部活禁止期間だぞ」

「え、なんで箕輪先生いんの⁉︎」


 先頭を歩いていた三年生が手に持っていたボールを落とす。突然現れた先生の姿を見てバツが悪そうに舌を出した。後ろの西野さんを含めた女子バスケ部一同もどうしたら良いのかわからず呆然としていた。


「お前らみたいに勉強しないで部活に来る奴がいるからだよ」

「皆んなー、テスト前はちゃんと勉強しないとダメだよー」


 箕輪先生の後ろから隠れるように顔を見せる立花先生。立花先生は着替えが間に合わず、下はショーツだけ。


「みのり先生もいたんだ」


 そんな裏事情を知る由もなく、西野さんは立花先生の名前を呟いた。


「早く帰りなさい」


 箕輪先生が平坦な声で告げると女子バスケ部一同は素直に体育館の入り口に引き返して行った。

 僕も足をもたつかせながら、駐輪場まで駆けて行き、がむしゃらに自転車を漕いだ。

 風に胸襟が膨れながら思う。

 なんで、こんなにも胸が苦しくて切ない気持ちになっているのだろう。

 僕は、西野さんが好きだったはずなのに。

 その次の日からテスト期間に入るも、僕の頭の中はそれどころでは無かった。

 なぜなら、二人の情事はテスト期間中、あの体育館の倉庫で行われ、ついには咬合までいった。

 そして僕は、二人の咬合を最後まで目の当たりにした。


 ※


「最近ご飯残してるけど体調でも悪いの?」


 流し台に食器を運ぶとお母さんが心配そうな顔をしていた。


「ううん、大丈夫」


 お母さんは、他にも言いたい事がありそうな顔をしていたが、僕はごちそうさまと言ってリビングを出た。外に出ると薄い紗を広げたような青空から太陽が顔を出していた。

 僕は手庇を作って目を眇めると、白んでいた空が暗転する。


「敬太、大丈夫か⁉︎」


 お姉ちゃんの声が聞こえて自分が抱き抱えられていることがわかった。今日はお姉ちゃんも大学に行く日だった。僕が出て直ぐにお姉ちゃんも玄関を出たところで後ろに倒れる僕を運良く受け止めることができたというわけだ。

 僕はお姉ちゃんの腕を跳ね除けて、心配ないと手を横に振る。


「うん。大丈夫」


 それでもお姉ちゃんは心配らしく家の中に戻りお母さんを呼ぶ。慌てたお母さんはエプロンを付けたままリビングから飛び出して来る。おでこに手を当てられ、体温計で熱を測るも問題ない。それでも心配なのかお母さんは右往左往している。目も当てられないとお姉ちゃんがお母さんをリビングに戻す。


「今日は休んで病院に」

「大丈夫、少しふらついただけだから」


 それでも納得しなかったのか、せめて学校までは車で送ってもらうようになった。

 学校に着いてからも車のドアを閉めるまでお姉ちゃんの心配は止まらなかった。


「具合悪かったら保健室行けよー。すぐ迎えにくるから」

「うん。ありがとう」


 お母さんはパートでお父さんは単身赴任中。もし迎えに来られるとしたらお姉ちゃんだけだった。大学があるのでは、と思ったが今日は卒論の進捗報告だけと言うことで、事情を説明したら休ませてもらえたそうだ。

 教室に入り、自分の席に座ると徹も心配そうに声をかけてくる。


「敬太、顔色悪いぞ?」

「そう? いつも通りだよ」


 心配をかけないように、なるべくいつも通り振る舞う。

 ありがたいことに最上さんや西野さんも来て声をかけてくれた。


「大丈夫、大丈夫だから。みんな心配しすぎだって」


 そんな僕の痩せ我慢もお昼前に限界を迎える。

 授業中、あまりの吐き気と目眩に耐えかねて、先生に断りを入れて保健室へ向かった。

 初めてお世話になる保健の先生にベッドで横になるよう指示される。


「保護者の方にはご連絡したから。お迎えに来るまで横になってて」


 僕はベッドに横にさせられてお姉ちゃんが迎えにくるまで眠った。

 目を覚ますと一時間ほど眠っていたようで、給食も終わりにさしかかる時間だった。ベッドから起き上がり、保健の先生から体温計を渡されて熱を測る。


「敬太、迎えに来たぞ」


 保健室の扉を開けて入って来たお姉ちゃんは僕の顔を見て、ついでに保健の先生の顔を見る。保健の先生が口元に手を当てて目尻にシワを寄せる。


「あら、小鳥遊さん?」

「伊賀先生おひさでーす」


 軽い口調で挨拶をするお姉ちゃんと保健の先生改め、伊賀先生は握手をする。年代の違う二人が握手をする様子は昔の友人と再会したような温かみを感じた。

 それから二人は僕の今朝の様子と学校に来てからの話をしてから、手短にお姉ちゃんが卒業後の話をした。どうやら伊賀先生もお姉ちゃんが中学生の頃から在職中のようで、お姉ちゃんの更生の変遷を聞いて目を丸くしていた。それと一番重要な名前のことを話す。


「じゃあ今は佐藤さんなのね」

「そうなんですよー。中学卒業して今の親父と再婚して。そんじゃ、弟のこともこれからもよろしくお願いしますね」

「あなたと比べたら手がかからなそうな子じゃない」

「先生、それは言わないでくださいよー」


 あっけらかんと話すお姉ちゃんから二人の間には、きっと語り尽くせない出来事があったのだと容易に想像がついた。最後に二人は握手をして別れを告げる。


「じゃあ敬太、病院行くぞ」


 置いてけぼりになっていた僕の手を引いて保健室を出ると、西野さんが扉の前で突っ立ていた。手には僕のカバンが握られており、教室からわざわざ持って来てくれたようだ。正直、今の状態で教室には戻れそうに無かったので助かった。西野さんに感謝の言葉を伝えようとしたが、口から言葉が出てこなかった。出てくるのは喘鳴だけだった。そこで僕は途中から息が吸えていなかったことに気がついた。

 僕の代わりにお姉ちゃんが西野さんからカバンを受け取る。


「ありがとー。名前聞いてもいい?」

「西野です」


 僕の様子を見て西野さんはただ事ではないと察したのかそれ以上言葉を発さなかった。


「西野ちゃんね、弟の荷物届けてくれてありがとうね」


 じゃあ、と言って片手に僕のカバンを持ち、もう片方では僕の手を引いてくれている。歩調も合わせてくれてゆっくりとした足取りで廊下を進んでいく。

 僕は廊下の木目しか目に映らなかった。それでも遠くからあの人が歩いて来たと直感した。


「げっ」


 その人を前にしたお姉ちゃんは隣にいる僕がギリギリ聞き取れるくらいの音量で呻いた。ワックスのかけた床は良く光を反射するように、立花先生の綺麗に歪んだ表情を写していた。


「小鳥遊さん?」


 鈴を転がしたような声でその人はお姉ちゃんの名前を呼ぶ。その表情には僕達、生徒と接する時のつぼみが咲いたような笑みを浮かべている。


「よっ、立花おひさー、元気してた?」


 お姉ちゃんが勤めて冷静に挨拶をすると、立花先生は戸惑ったように僕とお姉ちゃんの顔を交互に見る。


「弟の迎えに来ただけ」


 何を言いたいのか察したお姉ちゃんはこともな気に、簡潔に説明する。


「でも、敬太くんの苗字って」


 お姉ちゃんの溜息が聞こえる。


「あー、親が再婚したの。それで苗字が変わった」

「そ、そうだったんだ」

「うん」


 二人の間に交わす言葉はなく、沈黙が立ち込め始めた。僕は立花先生の顔を見てからさらに呼吸が荒くなり、知らず知らずのうちにお姉ちゃんの手を強く握りしめた。


「じゃあ、これから病院連れて行くから。また同窓会とかでな」

「うん。じゃあ敬太くんお大事にね」


 いつも通りの顔、いつも通りの声。それなのに僕は立花先生が得体の知れない生物に見えた。

 お姉ちゃんは僕の手を引いて車まで連れて行くと助手席に僕を乗せてくれる。

 運転席に乗り込んで僕のシートベルトを締めながらポツリと呟く。


「箕輪の野郎、挨拶にも来なかった。やっぱクソだな」


 ※


 学校を早退した日以降、僕は学校に行けなくなった。毎朝起きると目眩と吐き気にやられて布団から起き上がれなくなった。一度だけお姉ちゃんに無理やり学校に連れて行かれた時は、あの日の光景がまぶたの裏で呼び起こされた。現実で体験した以上の体験が、頭の中で音と色と生々しい肉の質感に変換されて全身を包み込み、飲み込まれていく感覚に襲われて気を失っていた。

 次に目を覚ました時には無理に学校に行けとは言われなくなった。

 僕はかかりつけだったクリニックの先生から心療内科を紹介された。お母さんは泣いて、お姉ちゃんは声もかけてくれなかった。

 季節は移ろい七月末の夏休みに入った頃、徹から連絡があった。


『ヒマな時遊ぼうぜ』


 暗い部屋の中に突然、現れた光が僕にはまぶしかった。何度も返事のメールの下書きをしては消してを繰り返し、気付けば一週間が経っていた。それ以降、徹から連絡は無く、僕もメールの返事をするのをやめてしまった。今更返事を送っても徹はどう思うだろうか、明るく遊びに誘ってくれるだろうか。それとも返事すら返ってこないかも知れない。僕は徹からの返事が怖くてメールを送れなかった。

 夏場の果実と同じように日に日に腐っていく僕は、いつのまにか昼か夜かの区別もつかなくなっていた。

 夏休みの終わりに西野さんから連絡が来た。


『大丈夫だよ』


 一体何が大丈夫なのだろうか。僕のことなんか何も知らないくせに。行き場のない怒りに支配されて僕は携帯を部屋の壁に叩きつけた。

 夏休みが明けて、壊れた携帯に一通のメールが届いた。送り主は西野さんからだった。

 メールには、夏休みで箕輪先生が退職したこと、立花先生が教育実習の途中で学校に来なくなったことが書かれていた。


 ※


 それから一年経ち、僕は自分の部屋で中学の卒業式を迎えた。郵送で送られて来た卒業アルバムと卒業証書、文集。当たり前のことだが、そこに僕の存在はなかった。確かに名前は残っているけれども、僕の時間は、二年生の五月で止まったままだった。

 その針の進め方を僕は知らなかったし、誰も教えてくれなかった。

 高校は通信制の高校に進学した。時間が解決してくれた、とは言えないまでも少しずつ外に出ることができるようになった。

 病院の先生からも、良くなってきているとお墨付きをもらえ、無理のない範囲でアルバイトを始めることにした。場所は、お母さんの知り合いの本屋さんで週一回から始めた。

 高校を卒業する頃にはアルバイトも週三回に増やして、問題なく過ごしていた。就職はしなかった。正直、この頃の僕は週五回、働き続けられる自信が無かったし、わざわざ慣れた環境を変えたくはなかった。

 徐々に腐りながら時間が流れていき、僕は二十歳になっていた。

 その年の年末に中学の同窓会のハガキが届いた。

 ここでも僕は出欠するかどうかで数日悩み、出席に丸をつけてポストに出した。

 僕はキッカケを探していた。

 このまま腐り続ける人生を送るか、社会復帰をして普通の人になるキッカケを探していたのだろう。まずは僕の心に刺さったままのトゲ。

 心の奥底で膿んでしまっている中学生の時間を精算しなければならなかった。


 ※


 同窓会は市内の結婚式場に付属している大ホールを使い執り行われた。僕は途中までお姉ちゃんに送って行ってもらい同窓会の会場までの道を一人歩く。その間も途中で引き返して、適当に時間を潰してから家に帰ろうかという考えが頭によぎった。それに僕は頭を振る。

 すでにハガキには出席で返書をしているし、今日は今までの自分を変えるために来たんじゃないか!

 一度、深呼吸をして頬を叩く。


「よし」


 今日は同窓会に行くだけなのだ。そう、たかが中学の同窓会に出席をして、昔の友達に会って話をする。

 まずは謝ろう。皆に、心配をかけてごめんと、僕は元気にしている姿を見せよう。

 折れそうになった心を奮い立たせて、会場までの道を歩いた。

 会場に着くと入り口には、すでに受付に人が並んでいた。男子はスーツに女子はカジュアルな黒色のワンピース。

 僕はおろしたてのスーツの襟を正し、ネクタイを締めなおす。スーツは社会人の勝負服とはよく言ったものだ。着るだけで自分が普通の大人になったような気がする。

 受付に並んで名簿に丸を付けると、受付係の人が目を丸くした。

 僕はその人と関わりがなかったが、相手は僕のことを知っているのだろう。

 会場に入るとクラスごとに卓が分かれていた。

 卓は三年生の時のクラスで分けられていた。戸惑う僕はあたりを見渡す。よく見ると入り口の横にクラス別の名簿が載せられていた。

 名簿を確認すると僕は三年生の時は一組だったようだ。名簿を流し見ていくと、徹と西野さんの名前を見つけた。二人は同じく一組だった。

 一組の卓に向かうと見覚えのある顔がある。その人物の周りには人が集まり楽しげに会話をしていた。僕が近づいてきたのに気づいて、向こうは手を振って僕の名前を呼ぶ。


「敬太―、久しぶりー」


 顔を真っ赤にした徹が笑いながら歩み寄ってくる。。片手にはジョッキが握られていて、一足先に呑み始めていた。

 その横には徹と同じくらい顔を赤らめている女子が控えている。

 僕がその女子を頭から眺めるて、懐かしい面影を見た。


「最上さん?」

「敬太、久しぶり」


 最上さんは胸元で小さく手を振って、徹の後ろに隠れた。中学生の頃のような無邪気さは鳴りをひそめ、控えめな女性に成長していた。それに二人の間からは独特な雰囲気を感じる。


「実は、俺たち、結婚するんだ」


 徹は照れながら報告をしてくる。きっと僕が来る前にも、皆んなに結婚報告をしていたのだろう。最上さんは徹に一声かけて離れていった。

 徹を含め、仲の良かった友達が声をかけてきてくれた。かけてくれる言葉は、優しい言葉ばかりだった。それから皆んなは中学を卒業してからの話しで盛り上がった。僕にも遠慮なく話題を振ってくれた。ここで遠慮をされたら、きっと僕は輪から離れて誰にも気づかれないように会場を出ていただろう。

 皆んなの話に耳を傾けていると、女子のグループが近づいてきた。先頭には西野さんがいて、後ろからせっつかれているようだった。僕の前にきた西野さんは目を節目がちにしながら前髪を弄ぶ。


「敬太くん、久しぶり」

「西野さん、久しぶり」


 背後の女子たちから肩を叩かれ、がんばれ、と口々に声をかけられる。

 諦めたように西野さんは大きなため息を吐くと、近くの卓においてあったジョッキを呷る。頤をのけ反らしてあっという間にジョッキを空にした。

 今、目の前にいるのは本当に西野さんなのだろうか。いや、西野さんは昔から変わっていなかった。部活の時に出していた荒々しさ、大人になってそれが豪快さへと変化したのだろう。

 酒精を吐き出す西野さんは相当にお酒臭かった。きっと彼女も相当呑んでいるのだろう。

 とろんとした目つきで西野さんはジョッキを卓に叩きつける。


「元気にしてた?」

「うん」


 にじり寄ってくる彼女の圧に後ずさるが、グッとネクタイを引っ張られる。目の前の西野さんは紅潮した顔を逸らす。


「よかったら少し外出ない?」


 僕に頷く以外の選択肢は無かった。

 外に出ると熱った身体は冷たい澄んだ空気に晒された。切れるような風が頬を打つ。

 僕と西野さんは会場を出てすぐの所にあるベンチに腰掛ける。

 しばらくの間、何を話すわけでも無く、無言で一月の夜空に思いを馳せていた。僕が中学生の頃、あの夏を乗り越えていたら、こんな夜を一緒に過ごすこともできたのだろうか。

 あり得たかも知れない過去に手を伸ばしかけたところで、右手に暖かい熱が宿った。

 西野さんの手が冷たい僕の手に重なり合った。重なった手は強く握りしめられる。


「敬太くんさ、箕輪先生と立花先生の見ていたんだよね」


 突然、西野さんからあの二人の名前が飛び出した。

 僕はベンチから立ちあがろうとしたものの、西野さんの手が僕の身体をベンチに縛り付けていた。

 最近は落ち着いてきた発作、フラッシュバックに飲み込まれそうになる。

 動悸が激しくなり、視界が反転しそうになった所で、僕の意識と身体は現実へと引き戻された。縛り付けられていたと思った西野さんの手は、僕を縛り付けるものでは無かった。払おうと思えば振り払えるか弱い手。握る手は震えていた。


「私もね、見ていたの、敬太くんのこと。ずっと目で追いかけていた」


 西野さんの瞳は揺れながらも僕のことを映していた。正面から僕を映していた。


「だから二人のことに気づいたんだよ。敬太くんの見ている先が立花先生だったのに」


 揺れる瞳から一筋の涙が頬を流れる。


「私が二人のこと教育委員会に言ったんだよ。怒ってる?」


 僕は、そんなこと無いよと首を振り、西野さんの手を握り返した。握り返した手から震えは収まり、暖かく柔らかな感触だけが残った。

 西野さんは、よしっ、と意気込んで僕の肩にしだれかかってきた。


「酔った勢いで言うけどさ、敬太くんのこと好き。だから付き合って」


 本当に酔っているとは思えないハッキリとした口調。

 僕は躊躇した。本当に僕なんかが彼女と付き合っていいのだろうか。好意を向けられる存在なのだろうか。

 西野さんは潤んだ瞳で僕の顔を見つめながら返事を待つ。

 一旦保留にしよう。今の僕が本当に西野さんと釣り合う人間なのか、また友達から彼女に見極めてもらおう。そう返事をしようとした時、視線を感じた。

 会場から西野さんを背後からせっついていたグループが陰で僕らの様子を窺っていた。彼女たちの目からはとてつもない圧を感じて、中途半端な返事は許されない気がした。

 僕は悩む隙もなく、首を縦に振った。

 この時改めて、女子は怖いと実感させられた。


 ※


「それで、その後どうですか?」


 先生からいつも通り、診察始めの質問を受ける。


「最近は家族や彼女に色々と手伝ってもらっています」


 同窓会以降、西野さんとのお付き合いは順調だった。僕の病気のことも理解してくれて、僕の体調に合わせてもらってお出掛けにも行っている。

 一般的な彼氏彼女のお付き合いは出来ず、不自由な思いをさせてしまっていることが、最近では一番の悩みだった。

 それでも西野さんは、大丈夫と言ってくれている。

 仕事に関しても、今では週五回まで増やしてみた。

 最初は不安だったけれども、仕事をしているうちに一ヶ月、二ヶ月、半年と過ぎていった。そのかいもあって、正社員登用の話もされた。少しずつ普通の人に成れてきた。

 先生に最近の事を話すと、うんうんと頷いてくれた。電子カルテをスクロールして過去の記録を遡って廟状の変遷を確認してから僕と向き合う。


「佐藤さん、病状も安定してきているようなので、少し様子を見て次回の受診は一ヶ月後にしましょう」

「はい、わかりました。ありがとうございました」


 僕が診察室を出る時にお辞儀をすると、先生もお辞儀を返してくれた。

 会計を済ませて駐車場で待っているお姉ちゃんの車の助手席に乗ると、頬に冷たい感触が当たる。缶コーヒーを僕の頬に当てて驚かせようとしたお姉ちゃんの手から缶コーヒーを受け取ってチビチビと飲む。車を発進させて薬局に向かい、薬が出来上がるのを待つ。


「敬太―、次の受診はいつ?」

「一ヶ月後になった」


 受診日が一ヶ月連続なのは初めてのことで、それだけ病状が安定してきていると先生からのお墨付きだった。


「そういえば、昨日愛ちゃんからあたしに連絡来たんだけど」


 前までは受診の時、こうやって会話すらなかった時間が苦痛ではなくなっていた。僕からも会話をするようになったし、向こうからも話を振ってくれるようになった。ただし、お姉ちゃんが付き添ってくれる時は、西野さんとの話ばかりなので気恥ずかしくなったりもする。


「免許のお金出してあげるから取りに行きな」

「いいよ、自分で貯めるから」


 アルバイトも週三回から五回に増やした。最初は不安だったけれども、仕事をしているうちに一ヶ月、二ヶ月、半年と過ぎていった。きっかけは、やはり西野さんだった。今年の春から社会人になった彼女から仕事の話を聞かされて、僕も頑張らないと、と思い勇気を出した。その甲斐もあって正社員登用の話も出てきた。

 あの日から止まっていた時計の針が動き始めた。良いことばかりでは無いかもしれないけれども、確かに動き始めた。そんな気がした。

 僕はよく見慣れた女性が子供を連れて薬局に入ってくのが見えた。女性の顔は記憶の中よりも、より洗練されていた。その表情からはいくつもの苦労が読み取れたものの、子どもを見る眼差しは温かかった。


「どうした?」

「ううん、なんでもない」


 薬局の駐車場の植え込みに咲いた紫陽花は、吹く風に緑が揺れた。

 風と共に花びらがアスファルトに出来た水溜りに落ちる。

 季節は夏。今年の七月は連日最高気温を更新していた。

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紫陽花の恋 北山カノン@お焚き上げ @Monaka0723

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