第3話 白点世界の青年


 何も映らない世界。真に暗い世界は何も映さない。どの様な形でどの様な色をしているのかを映さない、何が居るかも教えはしない。

 電車に死を齎された青年は何も映らない世界へ招かれた。その身は形ある時のそれで。

 目の意味を忘れた様に、青年は何度も瞼を開閉する。目を大きくさせて、口は少し開いたままの穴と成っていた。青年は座ったまま、或いはそれを可能とする地面の様な何かに尻を預けて、首から上だけをきょろきょろと動く範囲まで動かしながら辺りを見回す。それ以外の所は暫く動かさないままだった。青年の服の擦れる音が少しする位で、他の音は何も無い。そしてその服の音はこもりも響きも無く、辺りに消えゆく。まるで青年を好物とする辺りの闇が、露も溢すまいと吸い取るかの様に。

 青年は漸く首の下を動かした。手を動かすと、手の平に体のそれぞれを宛てがって体の存在を確かめた、顔、首、胸、腹、足と言った感じに焦った様子で手早く。そうして無事を確認し終えた青年は、思い出した様に慌てて息を口から吐き、暗闇の空気を急いで吸う。何度か咽せを吐き出したりしながら、地面に手をついたり突っ伏したりしながら呼吸を、大人しく出来るまでに落ち着かせていった。呼吸の音が止めば、また静かな世界になった。

 (俺、電車に轢かれてなかったのか)と、青年は思ったのだろう。無事だったと認識した青年の顔は、体と同じく、あのホームに立っていた頃の冷静な表情へと戻っていた。

 何も見えない暗闇の中、またその中も外も全て分からない状況に変わりは無いというのに。

 

 青年の頭のずっと上の方から、何か重低音を発する管楽器テューバの呻きの様なぼーんと重い音が響く。それと同時にスポットライトの様な白く強い光が同じく、上の方から青年目掛けて照らす形でぱっという具合に現れた。体を漸く照らせる程の大きさで。

 青年は咄嗟に体を音と光を避ける様に横へ反らしたが、ただの光と知って照らされた服や肌の色、形を見て、また体のあちこちを見て、また触れて行く。

 ──どこも、何とも無い。それと、この光と音は何だ。ここは……。

 青年は現実のものとして今という瞬間を受け止めた様で、さながら何かの主人公の様に堂々とした目つきで辺りを見回した。

 「おい、誰かいないか」青年は何も恐れない様子のまま、すぐ目先に広がる暗い闇に声を張り上げた。

 

 「急くなよ、人間」その声とともに、青年の視界の端の方で先と同じ光と音が同時に現れた。

 青年がそちらの方に体を向ける間。その間にしっかりと光に照らされたその姿を青年は既にその目にくっきりと映しきっていた。

 人の背丈ある程長いマントの様なものがふわふわと、まるで人が今まさに身に纏っていて、人だけを透明に加工された様な状態のシルエットのそれが、要は浮いて存在していた。色は黒地でありながら、時折虹色、或いはオーロラを晒す。

 そしてそのマントの上に、先の例えなら顔にあたる所に浮いている、白い仮面の様な形をしたもの。そして真ん中には赤字でクエスチョンマークが書かれている。

 それだけが目に見える全てとなるその者が、青年に声を発したという事だった。

 青年は体を向け終わった頃にその目を少し大きく開いたが、直ぐに収まる。

 「青年、名前は?」マントと仮面のものが問いかける。

 「伊吹いぶだ」少しの間を空けて、伊吹は答えた。

 ──今、どう言う状況なんだ、誘拐や救護では無さそうだし。

 「ここは?」今度は伊吹から問いかけた。当たり障りの無い様にか、一定のトーンのまま。

 

 「その一貫した性、私は好きだよ、とても。その前に、私は異物いぶつだ、それが名前だ、宜しく」仮面が少し項垂れる様に下へ傾いた。

 ──異物、何か嫌な名前だ。

 伊吹は少し顎を引いて、精悍な顔を用意しつつあった。

 その顔が完成する前に、異物は現状を口にする。

 「ここはあっちの世界で死んだ者が時折送られてくる場所だ。伊吹、君は君の世界では死んだんだよ、残念なのかそうじゃないのか、残念の意味さえ分からない私には理解が出来ないが。排出、エンド、どの言葉も不恰好だ。恰好いい君に相応の言葉を。残念だよ、と言っておこう」と、じっと伊吹へ向かいながら。

 己の死を知らされた時、流石に伊吹の瞳孔は力緩め拡大していた。だがまた引き締め直していた、澄みを増してより解像度を高めたレンズの様に。

 ──死んだのか、そうか。大して面白みも無いもんだったな、人生ってのは。

 異物はその伊吹の動向が落ち着いた事を見計らってまた述べる。

 「だが本心を言うとね、こう言ってみたいんだ、『おめでとう』と」

 

 伊吹は、何も崩さずに一つ小さな声を吹き出した。

 「ふっ」

 

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