2023年10月8日


 シュランゲが拠点を置くここイタリアでは、この季節は日中でも気温が20℃程度までしか上がらず、軽い上着が欲しくなる肌寒さになっていた。


 天気は曇り。ちょっとした用で屋敷を出た帰り道、シュランゲは執事と共にスラム街へと足を踏み入れていた。

 20歳前後の良いスーツを着た青年と、燕尾服姿の執事どうみてもスラム街には不釣り合いな存在で、住人たちの目を引いた。


 目当ては道の端で『店』を広げる浮浪者たち。ボロきれの上に並べられた商品はゴミから拾ったものや、彼らがガラクタを直して使えるようにした道具などだ。

 やりとりは金もしくは物々交換。あとは交渉次第。


「…へえ」

 痩せた老人の広げた店の前で膝をつき、シュランゲは商品を眺める。老人はどこからか拾ってきた錆びた刃物を、スラムにある物だけで研ぎ、また使えるようにして売っていた。

 僅かに差し込む日光に照らされた刃は試し斬りせずとも十分な切れ味をしているであろう事が容易に想像出来た。


 シュランゲが刃物を使う機会は少ない。料理はしないし、身だしなみも人任せ。手紙の封さえ自分で切らないことがある。

 そんなシュランゲがその店に吸い寄せられたのは、あまりに異様なその商品に惹き付けられたからだ。

「銃。ですか」

 治安の悪いスラムの住人だが、銃はほとんど持たない。

 高価で、弾が無くなれば使えない上に、当たるようになるにはそれなりに経験が要る。ならナイフで確実に刺したほうがよっぽど有効だからだ。


 古く、所々に錆びが入ったそれは、形はイギリス性の中折れ式ウェブリー・リボルバーに近い。ただ、全体に彫り込まれた幾何学模様は見覚えのないものだ。

「確実に殺せる銃だ」

 掠れた声で老人が言う。ひび割れた唇から僅かに血が滲み、顎を伝う。

 数日間口を動かして居なかったのか、顔の下半分から乾いた土が剥がれ、見開かれた目は乾ききっていた。


「へえ、いくらですか?」

 シュランゲが銃へと手を伸ばすと、細い手首を骨ばった老人が掴んだ。

「撃てば、確実に、殺せるぞ」

 念を押すように再度老人は言う。手を引けと暗に言っているようだが、シュランゲはむしろ笑みを深めた。

「いくら、ですか?」

 老人の目から力が抜け、指の欠けた手で1を示す。シュランゲは頷き、お付の執事を振り返る。


「ベルデ。支払いをお願いします」



 ◆◆◆◆◆


 ◆◆◆◆



 屋敷の執務室の机で、シュランゲは銃を調べる。

 残る弾は2発。銃弾にも銃と同じ幾何学模様。なにかのまじないが銃にはこめられているようだ。知識を思い返してもまじないの事は分からなかった。

「(はて、どこから来たものなのか)」


 耳に残った老人の『殺せる』という言葉。

 確かに、どんなに威力の弱い銃でも、当たり所によっては殺せる。だが、あの老人の言葉はそういった警告では無かったように思えた。


 思考を遮るように扉がノックされ、ベルデが部屋へと入ってきた。お盆にポットとカップが乗せて。

 そう言えば、屋敷に戻った時に紅茶を部屋に運ぶように言ったのだったとシュランゲは顔を上げた。

 1度取り出した銃弾を銃に戻し、銃を構える。


「紅茶、持ってきたぞ」

 マナーは屋敷の外で出来ていれば良い。そう話したのはベルデか働きだしてすぐの事だったとシュランゲは記憶していた。

「ええ。ありがとうございます」


 シュランゲはベルデの方を見て、そのまま指に力を込めた。


 ────バンッ。


 銃口から煙が立ち上る。

 どさりと音を立ててベルデが倒れた。


 腕や肩に反動は感じて無い。そのまま銃口を机に押し付けるが、焼け跡は付かない。手をかざし、触れてもみたが銃口は熱を持ってはいなかった。

 銃声はしたはずだが、とシュランゲは首を傾げる。煙もいつの間にか消えていた。


「シュランゲ様ぁ?何の音ですの?」

 甘ったるい匂いと共に娼婦のような女が1人、髪を揺らしながら部屋へと入ってきた。

 椅子に座るシュランゲと、床に倒れたベルデを交互に見て「あらあらあら」と頬に手を当てた。


「殺しちゃったんですか、シュランゲ様」

「エミーリア、死んでるか確認してください」

「ええ」

 エミーリアはベルデの側まで行くと、髪を掴んで持ち上げた。ベルデの体に力は無く、口と目がだらしなく開いている。

「あら」と呟き、なんの躊躇いも無くエミーリアはベルデの口へ手を入れる。喉の奥まで指を入れても、嗚咽を漏らす様子は無い。唾液で汚れた手を引き抜き、ベルデの服で手を拭ってからエミーリアは振り返る。


「死んでますわ、シュランゲ様♡」

「そうですか…外傷は?」

「あら、そう言えばありませんわね」

 ベルデの体に傷が無い。血は一滴も流れてはおらず、服に穴も無く、ただ死んでいる。


 シュランゲは銃を見る。弾はあと1発。

「(さて、どこまで殺せるのか)」


 銃口を今度はエミーリアへと向ける。彼女の顔には驚きも悲痛も恐怖も無い。むしろ銃口を見てとろりと顔を溶かして媚びるようにシュランゲを見る。


「うふふふふ撃つの?撃つのシュランゲ様

 私を撃ちたいの?そうよね?そうなのよね?うふっあはっふへへへへへ」

 体をくねらせ、よだれを垂らすエミーリアにシュランゲは少し眉を下げる。真面目な顔をしていれば精悍な戦乙女を思わせるエミーリアだが、魔女エミーリアは普段の奇行が嫌に目立つ変態だ。


 シュランゲの手下たちの中ではまともに会話が成り立ち、それなりに頭も良いから有用な化け物ではある。

 銃口を下げれば至極残念そうにエミーリアはシュランゲを見上げた。

「(魔女、とは言え人とはあまり変わらない。

 リンクスとレイヒツもそうでしょう。

 ならヒルドルフか、クラウン。マリアの中身か…ケイト、ゲンジロウ、ザシャ、ツェツィーリア。男爵でも殺せるのでしょうか。いや、そもそも…)」

 床で喘いでいるエミーリアの横を通り、ベルデの死体をまたいでシュランゲは部屋の外へと出る。



 ◆◆◆◆◆



 廊下に出てすぐ、ベルデがここまで押してきたであろうカートが目に留まる。

 乗せられたクローシュを開けると軽食として用意したであろうサンドイッチが置かれていた。ハムとレタスのサンドイッチを取って口に運べば、少しだけマスタードの効いた、シュランゲ好みの味付けがされている。

「へえ…」

 ベルデを雇ったのはシュランゲが10の頃。銃を買ったスラムとは別のスラム街で、シュランゲはベルデと出会った。


「もう少し給金を増やすべきでしたか」

 1口分欠けたサンドイッチを皿へと戻し、クローシュを閉める。ベルデの顔を思い返しながら、シュランゲは廊下を進んだ。



 ◆◆◆◆◆




 窓のサッシやほんの僅かな壁の隅、調度品一つ一つを見てもシュランゲの住む屋敷にはホコリ1つ、髪の毛1本無い。

 シュランゲの長い黒髪は執務室や寝室でも見たことは無く、屋敷の中には虫1匹でさえ湧かない。…『飼育』という形であれば数千匹ほど飼っている者はいるが。


 潔癖なまでに美しく保たれた屋敷には高価な調度品が並び、本当に時折訪れる客人たちは誰もが驚く。ただそういった物に詳しい、それこそ鑑定士などが見れば分かることだが、飾られた作品のほとんどが世に知られていないものばかりだ。


 その中にある花瓶をシュランゲは手に取り、上に掲げる。もう片方の手には変わらずあの銃が握られていた。

「(最初に来た者を、撃ちましょうか)」

 手から花瓶が床へと落ちる。活けられた花と注がれた水が少しだけ宙を舞い、重い花瓶は真っ直ぐに床へと叩きつけられた。

 音と破片が飛び散り、高いスラックスと靴を汚し、床に傷を付ける。数秒の静寂の後、こちらへ走ってくる足音がした。

 シュランゲはそちらへ銃口を向ける。笑みで頬が引き攣りそうになる。抑えられない好奇心に身を任せ、現れた彼女へと引き金を引いた。




 ◆◆◆◆◆


 ◆◆◆◆




 ベルデと同じように、撃たれた彼女は糸の切れた人形のように床へと倒れる。シュランゲの手の中では、役目を終えた銃が自壊しバラバラの部品となって崩れた。

 シュランゲは乾いた口を動かし、倒れた彼女の名前を呼ぶ。


「マキラ」


 床に倒れたマキラの傍へ早足で駆け寄った。うつ伏せに倒れたマキラはピクリとも動かない。

 冗談を言うタイプでも、やるタイプでもない。それに、シュランゲは死体など見慣れていた。死んでいると確信していた。


 シュランゲは細い脚でマキラの体を仰向けに転がし、その場に片膝を着いた。

 マキラの髪が床へと流れ、欠けた左半分の顔が晒されている。左目が本来ある部分から額にかけてはえぐり取らたかのように荒い傷跡と共に無くなっており、代わりの中身は太さの様々な触手たち。

 いつもは気味悪く蠢いている触手は動きを止め、シュランゲが観察している間に煙を吹いて腐り始めた。

 嫌に甘ったるい匂いが廊下へと充満する中、躊躇いもなくシュランゲは触手へと手を突っ込んだ。


 生ゴミの中へ手を入れているような嫌な冷たさと柔らかさの中で中身を掻き回すが、触手以外は骨もなにもないらしい。手に着いた粘液に鼻をひくつかせれば腐りかけの果実のような甘い香りを尚も放っている。


 銃の部品を振り返り、拾う。

 まさかこの銃だったものが、マキラまで殺せるとはシュランゲも思ってはいなかった。

 潰しても撃っても切っても燃やしても吊るして落として引きちぎって爆発して毒を飲ませても死なない。薬品に溶かしても死なないマキラが、あの銃1発で殺せてしまった。


 マキラという存在を殺すために、あの銃は用意されていたかのようにさえ思えた。

 時折あるのだ。絶対的な存在に対し、それを狩るためだけに生み出される1種の奇跡の様な産物が。

「チッ」

 舌打ち。嫌悪や侮蔑の込められたその行動は、シュランゲにはおよそ似つかわしくないものだった。


 マフィアとして裏社会に関わり、貿易商として表世界と関わり。その中で騙され裏切られ嫉妬され、金銭的な損をすることも、怪我を負うこともある。

 だが、シュランゲが彼らを憎むことは無い。


 それは、彼から怒りの感情がおおよそ抜け落ちているからだ。彼の行動は好奇心や悪意に寄るものであり、復讐心は持たない。だから何も憎まず、何にも怒らない。

 感情の起伏が乏しい訳では無い。むしろ楽しいことには全力を投じ、目的のためなら苦労も惜しまず楽観的な所もある。

「(これは、いけない。)」

 そんなシュランゲは、これだけを受け入れることができなかった。


 床に横たわる、異形の少女へと自分が与えた死───。


「こんな事で、死ぬのですか。貴女は」


 ただまじないがかけられただけの銃弾。

 おもむろにシュランゲは拳を握り、それをマキラの体へ叩きつけた。感じるのはやはり骨のない、麻袋に肉を詰めたような感触。当の少女は動かない。

 もう、目を開けることも無いのだろう。ようやく諦めて、シュランゲは小さくため息をついた。


「これは、最悪の幕引きになりそうです」


 ────どうせなら、ベルデを撃たないほうがよかったですね。

 それもシュランゲにはめずらしい後悔であった。




 ◆◆◆◆◆




 どれだけエリックが泣き言を言っても、シュランゲにはひとつも響かない。もはや人としての原型を保てないほどに腐ったマキラの体を抱いて泣くエリックを、シュランゲはただ冷めた目で見ていた。

 シュランゲがやったのは、エリックを潰れた劇場へと呼び出しマキラの死体を見せた。ただそれだけだ。

「(たかが化け物1匹、たかが恋人1人の死でしょうに)」

 目を閉じ、過去を振り返る。



 幾度の転生をした。数えるのを辞めるほど、考えることを放棄するほどの生を過ごしてきた。


「ああ、気持ち悪い」


 シュランゲは呟く。嫌味でも、悪態でもなく。

 腐った肉を抱えて泣く男の、なんと醜い様だろうかと。

 芸術作品に泥をつけたような光景が、シュランゲにはただひたらすらに残念でならない。

「(ああ、最悪の気分です)」

 腰のホルダーから銃を抜く。


 目を見開くエリックを冷めた目で見ながら、シュランゲは自身の頭へ銃口を向け────



 ────そのまま引き金を引いた。



 ◆◆◆◆◆


 ◆◆◆◆


 ◆◆



 目を開けて、そのまま動かず世界を見る。


 シュランゲは自分が頭を置く枕の形や、そこからベッドやその先、部屋の中の家具の配置や形を事細かに観察する。

 目を閉じて30秒ほど考え、それからようやく体を起こした。

 一糸まとわぬ肌は白く、肉のあまりついていない体には僅かに肋骨が浮いている。光を灯さない黒い双眸と、艶のある黒髪が重力に従ってさらりと落ちた。

 ベッド脇に置かれた手鏡を手に取る。12歳ぐらいの、表情の無い顔を見て、頬に張り付いた髪を1本1本丁寧に取って払う。


 カートの音と共に勢いよく部屋の隅の扉が開かれた。同じ顔のシュランゲと同い年ぐらいの少年2人が、カートを押して部屋へと入ってきた。

 カートの上には安物のカップとティーポット。それにサンドイッチが乗せられている。

「レイヒツ、リンクス」

 少年の声でシュランゲは2人を呼ぶ。楽しそうに笑いながら同時に双子は振り返る。それぞれ片目には白い布生の眼帯を付けていた。

「おはよう。ご主人様」

「よく寝れた?シュランゲ様」

 同い年ぐらいの双子は、同じ声でシュランゲの左右で笑う。


「…ああ。サンドイッチですか」

「うん。ヒルドルフおにーさんがつくったよ」

「ヒルドルフおにーさんお鍋焦がしちゃった」

 レイヒツが差し出してきたのはハムとレタスのサンドイッチ。これでなぜ鍋が焦げるのかとシュランゲは首を傾げた。


 手に取って、一口ぱくり。

 安いハムとしなびたレタス。パサパサのパン。なんとか嚥下して、シュランゲはそれを皿に戻した。

「リンクス、レイヒツ。ヒルドルフを呼んできてください」


 ベルデはあのサンドイッチをまた作ってくれるのだろうか。

 従順に部屋を出ていった双子を、シュランゲは笑顔で見送った。

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