可愛いリリが頑張る理由

南村知深

第1話

 三限目の数学が終わり、休み時間になった。

 二年になって一気に内容が難しくなったような気がして、いまいち授業についていけないが、頑張ってついていかないと落ちこぼれてしまう。得意じゃないからといっても容赦なく授業は進むし、テストもやってくるのだ。

 公立の中学校に比べて私立のカリキュラムは厳しいと聞いていたが、想像以上だった。中学受験でほぼ全力を出し尽くして灰になりかけている私には、必死になって食らいついていく以外にない。

 だというのに。


「…………」


 机に突っ伏し、気持ちよさそうにスヤスヤと眠りこけるこの女のお気楽さはいったいなんなのだろう。この様子だと、数学の授業中はずっと寝ていたに違いない。

 それで成績が私よりいいんだから、本当に世の中は不思議にあふれている。


「起きて、リリ。次は体育だから更衣室に行かないと!」


 ツヤツヤのショートボブの頭を張り飛ばし、神前かんざき璃々那りりなを夢の国から連れ戻す。


「ん……ああ、おはよう。ミコ」


 起き上がりながら眠そうな目をこすり、私の姿を認めると、リリはにへっとだらしなく口元を緩めた。可愛い。……じゃなくて、こいつ熟睡してやがったな?


「ごきげんよう。次、体育だから」

「ああ、そうだったね。すぐに用意するよ」


 もそもそと席を立ち、小柄な体をよちよちと歩かせて、リリは教室の後ろにある棚の自分の荷物スペースから体操着を取り出すと、ちょいちょいと人差し指を振って私を呼んだ。


「何?」

「それはそうと、人を起こすのに頭を叩くのはよくない。僕は非常に傷ついた」

「で?」

「ミコにはお詫びをしてもらいたいと思うんだがね。そうだね、時間もないし、でいいよ」

「…………」


 にこにこと笑みを浮かべながら、リリは私に期待する視線を向けてきた。

 だが、今ここで希望を聞いてやるわけにはいかない。


「何考えてんの。こんなところでできるわけないでしょ。周り見えてんの?」

「みんな更衣室に行かなきゃならないと慌ただしいんだ、誰も僕たちなんて気にしていないさ。それに僕たちのことはみんな知っている。『またやってる』くらいにしか思われていないよ」

「…………。ああ、もう」


 こうなったらリリはテコでも動かなくなる。私より頭一つ分低い身長で、簡単に折れそうなほど細い体をしているのに、横綱級にどっしりと構えられるのだ。

 しかたない……言いなりになるようで不本意だが、遅刻するよりはいい。

 期待顔をしているリリの肩を引き寄せ、顎を少し上げてやって、笑みの形をしているくちびるにキスする。

 周囲の『またやってるよバカップルが……』という視線が痛い。


「……ふむ。やはりミコとする目覚めのキスはいいね。鼓動が高鳴る」

「バカ言ってないで、早く準備して」

「さっきから思っていたんだが、どうしてそんなに急かすのさ?」

「私、今日は日直なの。教室の鍵を閉めなきゃいけないし、貴重品ボックスの鍵もかけなきゃならないの」

「ああ、それで」


 納得、と一つうなずいて、リリはトコトコと歩いて廊下に出た。

 他の移動教室ならともかく、体育は貴重品を持ったまま授業を受けるわけにはいかないので、教室に設置してある『貴重品ボックス』と呼ばれるゴツい金属製の施錠できる箱に財布やスマートフォンなどを保管する決まりになっている。

 十五年くらい前に盗難事件が多発したことで設置されたと聞いているが、教室自体も施錠するので南京錠まで必要なのだろうかと私は思っていた。まあ、私は決まりなので一応従うことにしているが。

 ボックスに預けるのは嫌だという人は、自己責任のもとに独自で管理している。


「そんな古臭ふるくさい錠の箱に大事な財布を預けるなんて正気じゃない」


 と強く拒否するリリもその一人だ。

 クラスに残っていた数人に「ボックス閉めまーす」と声をかけてから貴重品ボックスに南京錠をかける。きちんとかかっているかを二度確認し、自分以外に誰もいなくなった教室を出て、こちらも施錠。


「さ、行こっか、リリ」


 廊下で待っていたリリの手を引いて体育館横の更衣室に向かう。

 休み時間の残りが少なくなっていたので、急がないと遅れてしまいそうだった。


那須野なすのー! ちょっと待ってー!」


 階段を下りかけたところで、階下からダッシュで駆け上がってきた女子に進路をふさがれた。同じクラスの小波渡こばとさんだ。いわゆるスクールカースト上位の子が集まるグループに所属し、派手めな格好でメイクもバッチリ決めている賑やかな人で、正直苦手なタイプだ。


「教室の鍵閉めた? 忘れ物したからちょっと貸して!」

「うん、い……」


 いいよと言い終わる前に差し出した教室の鍵をひったくって教室に走っていった。そんなに遅れるのが嫌なのだろうか。遅刻上等、サボリ上等な彼女にしては珍しい。

 まあ、遅れると体育教師ゴリマッチョからネチネチ嫌味を言われるから、体育だけは遅れたくないと思うのもわからなくもないけれど。

 小波渡さんが教室に入って十数秒くらいで飛び出してきて、鍵をかけるとこちらに走ってきて「さんきゅー」と教室の鍵を投げて寄越し、三段飛ばしで階段を駆け下りていった。


「私たちも急ぐよ」


 ぽけーっと突っ立っていたリリの手を引いて、私は階段を下り始めた。

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