天使だった悪魔

新井玲音

第1話

 小雪は、その日も、重い足取りで、帰り道を歩いていた。この憂鬱な感情は、中学に入学したばかりの子によくある、五月病というものではない。もう数年も前から、小雪を支配している感情だった。 それに加えて、今日は具合が悪い。学校で風邪が流行っていて、小雪も、微熱と咳が、少しあった。体調の悪さが、憂鬱な感情に、拍車をかけるのだった。


 小雪の家は、母子家庭だ。母親は、パートをかけ持ちしていた。安アパートに、質素な食事。服も、ろくに買えない。友達と映画を見に行ったり、テーマパークに行ったり等、もちろんできない。それでも、貧しいながらも、頑張り屋で優しい母と、楽しく暮らしていたと思う。数年前までは……。


  小雪が、10才の時に、その母が、脳卒中で倒れた。元々の体質に、栄養不足と過労やストレスが、重なって……等と、医者は説明していた。……が、そんな説明は、小雪にとっては、どうでもいい事だった。 問題は、母の半身不随が治らない事、小雪が、弱冠10才にして、世に言う、ヤングケアラーになってしまった、という事だった。


  それからの、小雪の生活は、疲労困憊を極めた。生活保護を受けたところで、介護の問題がどうにかなる訳ではない。買い物、料理、洗濯、トイレの介助の日々が、毎日、続いた。入浴介助だけは、1人ではできず、ヘルパーの方に来てもらったが、入浴1つ、やってもらっただけで、苦労が減るというものでもない。


 小雪には、喜びという感情が、なくなりかけていた。


  中学の入学前に買った、セーラー服。普通なら、少し大人の仲間入りをした感じで、袖を通すのも、わくわくするのだろう。けれど、小雪は、その時、なぜ制服等作るのだろう、制服代だってバカにならない、と、考えていた。

  入学式では、桜が咲いていた。皆、綺麗だと、目を輝かせていた。でも、小雪には、ただ大量の花が、むせ返るように咲いているだけにしか、思えなかった。そして、なんでそんなに盛り上がっているのだろう、と思った。春に花が咲くのは、毎年の事、当たり前の事じゃないの、と。


  小雪の中には、暗さが、定着しつつあった。


 そして、最近は、ある1つの思いが、ずっと胸の中を、うずまいているのだった。


  気付くと、アパートの前に来ていた。ボロボロのアパートだ。白い壁は、もはや白じゃなくなり、薄茶色になっている。2階の自宅の窓を見つめる。小さいベランダだ。猫の額ほどの。そこに、朝、干してきた洗濯物が、頼りなく、風に揺れている。

 今日もまた介護で、終わるのだと思うと、心に暗雲がたちこめる。

 これもまた、古くなり、錆だらけの

階段を、カンカンと上がっていると、自分の足音に合わせて、頭痛や動機がしてきた。もしかしたら、熱が上がってきているのかもしれない。


「ただいま……」

独り言のような、母に聞こえるか聞こえないかのような、か細い声で言い、家に入ると、小雪は、居間の棚から、体温計を取り出し、脇にさしこむ。ぼんやりと部屋の中を、見渡す。

 部屋の壁だって薄汚いし、置いてある家具等も、全て年季が入っていて、くたびれている。

 新しい物なんて、何1つありはしない……。

 ピピッと、体温計の無機質な音が鳴る。目をやると、38.1度と、表示されている。

  熱が上がっている。夕飯どうしようか。とりあえず、横になろう……。

 小雪は、体温計をしまうと、歩いて、母の部屋の前に立ち、閉じられているドアの外から、

「お母さん、私、熱があるの。少し休むね。夕飯どうするか、休んでから、考える」

と、母に聞こえるように、声をかけた。

「わかった。無理しなくていいわよ。本当は、私が小雪を看病してあげなきゃいけないのに……。ごめんね……」

「……ううん、いいんだよ。」

母との、こういう会話も、なんとなく物悲しくなる。母の部屋の隣りの、自室に入ると、小雪は、制服を脱ぎ、パジャマに着替え、ベッドに潜りこんだ。


 どれ位、寝ただろうか。小雪は、うっすらと目を開けた。そして、側に何かの気配を感じ、ガバッと起き上がった。

  そこには、小雪と同じ位の年の、少女がいた。髪はツヤツヤとした漆黒で、セミロング。目鼻立ちの、はっきりした美少女だ。服装は、ゴスロリ系とでも言うのだろうか。黒のフリルのついたドレスを着ている。

「あ、あなた、だぁれ?」

「私は悪魔よ」

「……」

呆気にとられたが、小雪はすぐに声をあげて、笑い出した。

「あはははは。悪魔だって!下手な言い訳ね。泥棒さんか何かでしょ?うちに来たって無駄よ。うち、貧乏なんだから」

「本当に悪魔よ。」

悪魔は、小雪を制するように、強く言った。

「……」

「私はね、あなたの望みを叶える為に、来たの」

「悪魔なのに?望みを叶える?」

小雪は、訝しげに言う。

「でも、あなたの望みは、悪魔が叶えるのに、ぴったりでしょ?」

「……」

小雪は、ひと呼吸置いたあとに、呟いた。

「そうね……」

誰にも話した事、なかったんだけどな……。


「私の望みはね、死にたいの」

「知ってるわよ」

「……。苦しまずに死ねるの?」

「もちろんよ。眠るように死ねる。魂を、そっと抜き取るだけだもの」

「……。お母さんも、一緒に、連れてってくれる?」

「もちろんよ。お母さんは、あなた以上に、逝きたがっていた。あなたに迷惑をかけてる事を、ずっと苦にしていたわ」

「……」

小雪は、静かに微笑み、また、ベッドに横たわる。そして、悪魔に話しかける。

「ねえ?」

「なぁに?」

「あなたは、悪魔だって言うけど、私にとっては、天使だったわ」

「……そうね」


悪魔は、小雪の胸に、そっと手をあてる。


小雪は、静かに、息を引き取った。

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