第22話 眼鏡と呪縛と

「お母さん、わたしコンタクトから眼鏡にしたいの」


 わたしが切り出したのは夕食の後。わたしがお風呂から上がって、家族四人が丁度リビングにいた時だった。


「眼鏡って……」


 お父さんと拓のシャツにアイロンを掛けていたお母さんが絶句する。

 拓はスマートフォンから、お父さんは文庫本から目を上げて、わたし達を注視した。


「なんで? 灯理、コンタクトで良いって言ってたじゃない」


「前から言おうと思ったけど、わたしコンタクト合わないみたいなの。いっつも違和感あるから、眼鏡にした方が良いと思ってる」


「駄目よ、眼鏡は駄目」


 お母さんの声に焦りと、湿ったものが混じってくる。

 お母さんが『正しい』ことを言う時の声。

 いつもならお母さんの変化を恐れてここで切り上げる。


 だけどわたしはいつものように引き下がらず、逆に食い下がってやる。


「なんで駄目なの? 眼鏡じゃ駄目な理由を教えて。コンタクトが嫌な理由をわたしは言ったよ。だからお母さんも――」


「駄目なものは駄目! 灯理のためなのよ!」


 お母さんの声がより一層湿っぽく、そして荒くなる。わたしもそれに対抗するように、喉に思いっきり負担をかけて、気勢を上げた。


「わたしのためって! お母さんはいっつもそればっかり! 本当は何が嫌なの! 何で駄目なの!」


「眼鏡が原因で灯理が酷い目に遭うかもしれないの!」


 お母さんは半ばヒステリーになっていながらも叫ぶ。何がお母さんをこんなに駆り立てるのだと言うくらい、お母さんは頑なに譲らない。

 でもここでお母さんに愛想を尽かして、わたしの勝手を押し通してもいけないのだ。


 そうしてわたしがやけっぱち混じりで自発的に動いた時でも、お母さんは『わたしのため』に『正しいこと』を強行するのをわたしはよく知っている。

 今までにもわたしが失敗した後に散髪鋏を隠したり、説明したはずなのに香織と買い物をしている最中にも何度も帰宅の催促の電話をしてきたのだ。

 勝手に眼鏡を買って掛けても、わたしのいない間に眼鏡を隠したり、壊されかねない。


 お母さんの『正しさ』の原因――お母さんが何を心配しているのか知って、納得させない限り、前には進まないんだ。


「母さん、もうやめろって!」


 わたしが次の言葉を継ぐより先に、スマートフォンを置いた拓が割って入る。


「母さんの言ってることムチャクチャなんだよ! 姉ちゃんが母さんに振り回されて困ってるのなんでわからねーんだよ! 俺は髪刈っても友達と夜まで遊んでもいいのに、姉ちゃんだけダメってのおかしいじゃねえかよ!」


「灯理は女の子だから!」


 お母さんの口から出たのは、薄々感じていたけれど、やっぱり信じられない言葉だった。

 女の子だから。そんな時代錯誤な言葉が出てきた瞬間、わたしは拳をぎゅっと握る。

 ふざけんな、と思いっきり喉を潰してお母さんにそうぶつけてやろうと、荒く息を吸う。


 だけどわたしの口が開くより先に、それを遮るようにお父さんが「のりちゃん」と、お母さんの名前を口にして立ち上がった。

お父さんは震えるお母さんの肩を押さえる。お父さんよりずっと小柄なお母さんは押さえつけられたような格好になっている。


「もう俺らの頃と時代が違うんだ。眼鏡がどうだとかであんなことは起きない。大丈夫」


「そんなこと無い」

 とお母さん。

「今でも色々あるって、ニュースも、みんなも……」


「話の種を大げさに膨らませてるだけだよ。典ちゃんが怖がるほど灯里だって弱くない」


 お父さんは急に映画のワンシーンみたいにお母さんの肩を抱いて、そしてわたしの方を振り返る。優しいけど憂いを帯びた表情でわたしを見て、言う。


「灯理も本当にコンタクトが合わないなら眼鏡に替えて良いぞ。お母さんも色々あって灯里を心配してるのはお父さんは知ってるから。だからお父さんがちょっとずつ説得する」


「あ、うん……」


 わたしは眼鏡が解禁された嬉しさよりも、お母さんとその肩を抱くお父さんの姿に胸が痛くなっていた。

 涙を浮かべるお母さんと、お母さんに何かを言っているお父さんの姿は、虐められた子供を慰める親のようにさえ見える。


「やったじゃん、姉ちゃん」


 拓が掛けてくれた言葉に、わたしは少しだけ遅れて、うん。と返事する。


 それが昨日の夜の話。

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